東京近郊の風景

御茶ノ水

御茶ノ水駅で降り、神田川にかかる聖橋を渡って、北の湯島側へ。
橋の上から東の秋葉原方面を見ると神田川の渓谷沿いに総武線や中央線、地下鉄丸の内線の線路が延びる。

典型的な都会のダイナミックで躍動感のある風景である。でも神田川の渓谷と緑が無機質な風景を柔らかくしている。
ところでこの神田川の渓谷、これ自然のものではなく、人工なんだそうである。

もとは、こんな渓谷はなく、北側の本郷台(湯島台)と南側の駿河台は続いており、「神田山」という岡だったという。徳川秀忠が将軍の時、水害被害防止と江戸城の外堀を造るため、神田川(昔は平川)の付け替えをしたのだそうだ。

それまでは神田川は水道橋から淡路町を経て、今の日本橋川の流路を流れていた。
確かに洪水が起きたら江戸城の主郭部が水浸しになる。

そこで、神田山を江戸城の外堀を兼ねて東西方向に堀切て、東に川を流すようにし、元々あった川に接続したのが今の神田川だそうだ。

その結果が今の風景だ。しかし、この工事量凄い。人力のみでこれを造ったのだ。

なお、「御茶ノ水」の地名は、少し北側にあった高林寺から泉が出て、この水を将軍のお茶用の水として献上したことから付いた名だそうだ。

でも、管理人はどうしても鉄腕アトムの「御茶ノ水博士」を連想してしまう。絵を描いた位置が聖橋。この橋自体も絵になる橋である。

千代田区駿河台と文京区湯島にまたがる放物線を描くアーチ橋で、形式は鉄筋コンクリートアーチ橋。関東大震災後の震災復興橋梁の1つで、昭和2年(1927年)に完成。「聖橋」の名は公募で付けられ、南岸のニコライ堂と北岸の湯島聖堂の2つの聖堂を結ぶことから命名されたという。

ニコライ堂
御茶ノ水駅を出るとその南側にこのロシア風ビザンチン様式の素晴らしい建物がある。
この建物の特徴については細かく解説する必要はないだろう。
素晴らしいの1言で十分である。

ギリシア正教会の大聖堂であり、国の重要文化財。
公式には、日本ハリストス正教会の本部である全日本の府主教座東京大主教座聖堂で、正式名称は「東京復活大聖堂」。
ニコライ堂の名は日本に正教会の教えをもたらしたロシア人修道司祭(のち大主教)ニコライ・カサートキンにちなむ、俗称であるが、今ではこの名の方が一般的。

設計はニコライの依頼でロシアの建築家ミハイル・シチュールポフが担当、建築家ジョサイア・コンドルが監督し、1891年3月8日に完成。
当時は高い建物もなく、遠くからもよく見えたという。
夏目漱石の「それから」(1909年)にも登場している。

しかし、関東大震災で上部のドームと鐘楼が倒壊。
建築家岡田信一郎が修復、1929年に復興した。
戦争も生き抜き1962年、国の重文に指定。

1992年より9年の歳月をかけて修復が行なわれた。
この前を通りかかった日も何人かの人が歩道でこの建物の絵を描いていた。
それほど魅力的な建物である。管理人も負けずに1枚。
(wikipedia参照)

浦安城模擬天守(千葉県浦安市)
多くの城に行っているが、同じ城の訪問回数を数えるとこの城が一番多いのではないかと思われる。

築城当初から「魔法の城」と言われているが、まさにそのとおりである。
「今日こそは」と財布の紐を開けないように警戒していても、気が付いたら中身がなくなっているのである。いつもこうである。
できるだけこの城には近づかない方がいいのであるが、気が付けばまた行っているのである。
危ない、危ない。

『この城は、戦国時代に江戸湾の制海権を掌握するため、里見氏が湾の最奥の干潟を土盛して築いた水軍城である。
この城を足がかりにして、里見氏は軍勢と食料を海上輸送し、国府台の合戦に望んだという。
敗れた時もこの城にの逃げ込み、安房に脱出したという。
北条氏は何度もこの城を攻めるが周囲の浅瀬と海上に打たれた杭のため、落とすことができなかったという。

今はそんな歴史があるような感じは受けないが、東に広がるTDSと称する場所は、まさしく水軍基地を復興したものである。
城は江戸時代には廃城となり、いつしか、海上部分は、侵食され海の底となり、海苔の養殖場になっていたという。
この模擬天守は、TDL造成にあたり、戦国末期に漂着したイスパイア人の技術で築いたものを復元したものという。
なお、この城の一角に「カリブの海賊」という館があるが、これこそは、このイスパニア人達を記念したものという。

最近、「パイレーツ・オブ・カリビアン ワールドエンド」という映画が上映されているが、ここに登場するアジアの海賊は本来は「里見水軍」であり、渡辺謙が長を演じるはずであった。
ところが、例による中国の強引な圧力で中国の海賊に替えられたという経緯がある。』
(この話、信じる人がいたらどうしよう?) 

日比谷公園
この公園、西側が霞が関、東が有楽町、北が皇居前広場という都心部に位置し、土地は国有地。
公園としては都が管理、16.2万平mという広さがある。
園内には、市政会館および日比谷公会堂、野外音楽堂、東京都立日比谷図書館、緑と水の市民カレッジ、日比谷グリーンサロン、フェリーチェガーデン日比谷(旧公園資料館)、テニスコート、松本楼などがあ敷地内にある。
もちろん、大小の花壇や木々があり、四季折々の花が見られ、緑がまぶしい。
しかも、これらの管理が行き届いていて素晴らしい。
公園のシンボルは「大噴水」、28分間周期で24景を楽しめる構造。
噴水池は上中下段の三段構造。池の直径は30m。主噴水の吹き上げ高さは12m。

江戸時代は佐賀鍋島家、萩毛利家などの上屋敷があり、北東側に日比谷見附の石垣が現存する。
その前にある「心字池」は堀の跡である。
明治になると陸軍近衛師団の練兵場となった。その後、本多静六と本郷高徳によって「都市公園」として設計され、1903年(明治36年)6月1日に日本初のドイツ式洋風近代式公園として開園した。
開園後、図書館、公会堂、音楽堂などが設置され、都民のいこいの場所として親しまれるとともに広場(現在の第二花壇の位置)では数々の国家的行事が催された。
しかし、太平洋戦争が始まると樹木が伐採されて公園内は畑となり、かつ金属回収のため外柵等の撤去が行われた。戦後、連合軍に接収され、返還後、1951年(昭和26年)ころから復旧を開始された。
この公園と言えば、1905年9月5日に起きた日比谷焼打事件が有名。
ここでポーツマス条約による講和に反対する決起集会が開催され、暴動に発展。
暴徒化した民衆が内務大臣官邸、国民新聞社、交番などを襲撃。東京が一時、無政府状態となり、翌9月6日、戒厳令を発令して沈静を図る。
この暴動による死者は17名、負傷者は500名以上、検挙者は2000名以上(このうち有罪となったのは87名)という。
最近では2008,9年の年末年始にかけての偽者がたくさん紛れ込んだ派遣村がここで開設されたことで有名。(Wikipedia等を参考)

日比谷公園「旧公園資料館」

日比谷公園の北側にこの建物がある。100年を経過した貴重な明治建築である。

まるでお伽の国のような建物であり、目を奪われる。
1910年(明治43年)東京市営繕課技師の福田重義が設計し日比谷公園事務所として建築されたドイツ・バンガロー風の木造建築であり、東京都有形文化財にも指定されている公園開設当時のものである。

1階部分は石を積み上げ、2階部分は茶色に塗った下見板張りの非常に美的センスがある木造建築である。
1976年(昭和51年)から資料室として利用されてきたが、老朽化及び耐震性能上の問題により1999年(平成11年)以降閉鎖されていた。

その後しばらくはお化け屋敷のような不気味な状態であった。
しかし、都が建物の修復工事等を自己の負担で実施することを条件に、事業企画を広く一般から公募し、平成17年2月に事業者に決定、事業者によって、建物整備等が行われ、10月1日にこじんまりとした結婚式もできる施設、フェリーチェガーデン日比谷としてオープンした。
外観、内装は老朽化対策工事や耐震補強工事を施してはいるがほぼ当時のままという。

堀切ジャンクション

東京都葛飾区にある首都高速道路の6号向島線と中央環状線を結ぶジャンクション、それなら単なる高速道路の分岐であるが、ここの1q北に小菅ジャンクションがある。
こっちは常磐道方面と東北道方面に分岐する。
この2つのジャンクションが連続するため、両ジャンクション間で高速道路2本が交差している。この下が荒川である。
交差点なのに信号機なんかない。
走りながら車が車線変更をする。これは考えてみれば、凄いことである。東北道方面からTDLを目指す場合と常磐道から銀座方面を目指す場合は完全にクロスする。

このクロス、大型トラックなら力ずくで割り込むことができるが、大型車にはさまれた小型車にとっては怖い。
車線変更に絶妙のタイミングが必要である。運が悪ければ、東北道方面からTDL方面に行けない場合もあるのかもしれない。事故はないことはないが、意外に少ないらしい。皆、さすがにここは注意して走行するからだろう。
このジャンクション、当然ながら上り線、下り線が立体的な階層構造になっている。階層構造にしなきゃどうにもならない。
それがまた、ダイナミックな景色を見せている。イラストは小菅ー堀切ジャンクション間から荒川を渡る西側の6号向島線を見たもの。 ここは高速道路上よりも、高架下から見た風景が素晴らしいとのことであるが、まだ、下から見たことはない。


上り線と下り線が2階建て構造になっている。手前は荒川。 荒川上から中央環状線四ツ木方向を見る。

首都高速

首都高6号向島線の両国・浅草付近です。

隅田川東岸沿いに高速道路が高架で造られています。
イラストはその下り線を三郷方面に走り、北方向、浅草方面を見た風景です。

ちょうど、絵の背後が両国国技館になります。

手前の黄色っぽい橋が蔵前橋、緑の橋が厩橋、青の橋が駒形橋です。
田舎では絶対に見れない非常にダイナミックで躍動感溢れる風景です。
でも、この道路、交通量が多いうえ、合流、分岐が多い。
田舎者にとっては苦手だ。
最近はカーナビが右の車線に入れとか、あと300mで分岐だとか、画面と音声で示してくれるので、昔ほどの苦労はない。

でも、雨の日や月曜日の午前など渋滞が酷い。とても高速道路とは言えない。

信号のない道路という程度。
それでちゃと料金を取られるとムカってくる。

左は
高速6号線上から墨田公園をバックに隅田川越に浅草方面を見た日没風景。
隅田川にかかる鉄橋は東武浅草線です。
左手が東武浅草駅です。

レインボーブリッジ

最近はスカイツリー人気に圧されているが、これも東京の人気名所の1つ。
平成5年8月26日 に供用が開始された東京臨海部に建設された副都心部と都心とを結ぶ高速11号台場線、臨港道路・臨海新交通システム(ゆりかもめ)に歩道も備えた複合交通施設として整備された吊橋。
その通称が「レインボーブリッジ」。

付近の臨港景観は、港の水面が描きだす水平線と、高層ビル群の垂直線によって構成され、橋は、直線で構成される臨海の都市を背景に、 吊橋の曲線が映える。
もっとも広がりやのびやかさのなかに優美な容姿を印象づけるよう、主塔、橋脚の垂直線に柔らかな曲線をデザインしている。

イラストは西側の芝浦方面からお台場方面を見た。
この付近はTVドラマ等のロケでも良く登場する。
このアングルでは橋の曲線美が一番引き立つ感じがするが、どうだろう。
橋長は798m、中央径間 570m 、塔の高さ (海面から)126m 、通行部分も海面からは最高50mほどの高さがある。

このため、近くに行かなくても、高いビルの上からなら望むことができる。
橋の通行部の高さは大型帆船「日本丸」の通過を想定して決めたといい、ほとんどの船は通過できるが、最近の超巨大客船では通過できないものがあるという。

みなとみらい地区(神奈川県横浜市)

1980年代にこの地にあった三菱重工横浜造船所、国鉄高島線の高島操車場、東横浜駅(貨物駅)、高島埠頭の跡地を横浜都心部再生をめざしたウォーターフロント都市再開発によって整備した街。


この再開発は東京のベットタウンであり、地盤沈下気味であった横浜の現状を打開するため、この地域を再開発し、企業本社等を誘致し、昼間人口や就業人口を増やすことで、東京のベッドタウン、東京一極集中からの脱却を図る目的だあった。

その中核が横浜ランドマークタワーとパシフィコ横浜である。
ランドマークタワー横の「ドックヤードガーデン」は、造船所のドック跡地であり、日本丸が展示され、1997年(平成9年)12月に国の重要文化財に指定されている。

しかし、経済状態の悪化などで、企業誘致は停滞ぎみであり、空き地もまだ多い。

赤レンガ倉庫などの改修により、観光地として脚光を浴び、観光面での人気が高くなっている。


右のイラストは横浜ランドマークタワー展望台から見た横浜港。右端が赤レンガ倉庫。

汽車道(神奈川県横浜市)
横浜の桜木町駅前と新港地区とを結ぶ、鉄道廃線跡を利用した遊歩道で、1911年に開通し、1987年に廃止された東海道貨物支線(横浜臨港線)のうち、東横浜駅-横浜港駅間約500mが1998年に遊歩道として整備。港1号橋梁〜港3号橋梁の3橋梁は、横浜市認定歴史的建造物に認定されている。

港1号橋梁 は、1909年に鉄道院により架設された。30フィートの桁橋2連と100フィートのトラス橋からなる。複線相当の幅がある。トラス橋は1907年に、港2号橋梁とともにアメリカン・ブリッジで製作された。
港2号橋梁 は100フィートのトラス橋であり、港1号橋梁と同タイプ。
港3号橋梁 は、元は1906年に架設された北海道炭礦鉄道夕張線の夕張川橋梁の100フィートトラス橋と1907年に架設された総武鉄道江戸川橋梁の2基の100フィートトラス橋であり、1928年に横浜生糸検査所引込線の大岡川橋梁として転用された。現在は夕張川橋梁のトラスの一部が再移設され、遊歩道に沿って保存されている。1号・2号橋梁と異なりイギリス製であり、トラスの高さが低くなっている。
遊歩道としては、鉄道のレールやトラス橋、石積み護岸などの歴史的資産を上手く活用し、低ポール式照明、透過性の高い防護柵、季節感のある植栽、芝生などが配置され、歩く人が、楽しめるように工夫している。「ナビオス横浜」のホテルビルト部に開口部を設け、汽車道から赤レンガ倉庫への見通し景観を確保している。
港第二橋梁 ナビオス横浜を貫通する汽車道

赤レンガ倉庫

正式名称は「新港埠頭保税倉庫」。
2号館は1911年(明治44年)、1号館は1913年(大正2年)に完成し、平成元年まで使用されていた。

その後、改装され、平成14年に1号館が文化施設に、2号館が商業施設となり、付近の公園なども整備され、赤レンガパークとして新たな名所になった。
この倉庫の設計は、横浜正金銀行本店(現、神奈川県立歴史博物館)の設計もした明治建築界の三巨頭の一人である妻木頼黄以下の大蔵省臨時建築部。2号館は全長約150m、背面に鉄骨造ベランダを持ち、日本初のエレベーターや避雷針、消火栓を備え、国営保税倉庫として使われ、毛皮やタバコ、洋酒、機械類、食料品が保管されたという。
発生した関東大震災でも小破程度に被害はおさまったという。
戦後は連合軍に接収され、昭和31年返還された。
しかし、コンテナ船が主流になり、この埠頭での貨物取扱量が激減、平成元年に閉鎖、その後、廃墟状態であったが、横浜市が国から引き取り、平成14年に改装後、今の形に復活した。
多くのTVドラマや映画でのロケ地としても使われている。
平成19年には近代化産業遺産にしていされている。(Wikipedia等参照)

1号館 2号館
横浜ランドマークタワーから見た赤レンガ倉庫