石岡市(旧八郷町)の城 3

難台山城(笠間市上郷)36.3046、140.2228
笠間市の旧岩間町と石岡市の旧八郷町の境界にある山塊が難台山である。
そしてその山頂にあるのが難台山城である。
難台山の山頂の標高は553m、なんと比高は500mを越える。
多分、茨城県内では最も比高がある城であろう。

西側(石岡市旧八郷町側)から見た城址のある難台山。中央左側のピーク部が主郭部。撮影位置からの比高は約500m。
登り口の団子石峠は写真の右端部にあたる。
右のピークが大福山、隠れるように団子山がちらりと見える。


ここに行くのは登山まではいかないが、ハイキングである。
当然、かなり歩くし、時間もかかる。どうせ遺構はセコイ。
登山、ハイキングもいいが、俺は登る、歩くというプロセスは二の次、結果、つまり遺構が見れればいい。
そんな遺構を見にかなりの時間が要る。

極めてコスパが悪い。これは悩ましい。
「どこでもドア」で山頂まで行きたいものだ。
しかし、現実はそれは願望の世界、願望の中に生きるK国人なら可能かもしれないが・・・・。

現実にはできるだけ高い場所まで行って山頂まで歩くのが現実的である。
高いところまで行くには林道を使うことになる。山腹にいくつか林道があるようだが複雑そうである。
それに登山道もメジャーなルートでないので分かりにくい。
分かりやすのは団子石林道を使い南側の標高298mの団子石峠から行く方法がある。
もう1つは北の県道42号線の標高310mの道祖神峠から行く方法もある。

この2つのルート、ハイキングコースが整備されていて迷うことはない。
山頂まではいずれも2qほどの道のりである。
しかし、地図で見れば2qであるが、地図では高さがピンと来ない。
比高は250m以上あるのである。
しかも一方的な登りでの250mではない。アップダウンを繰り返しての比高250mである。
実質、比高400m以上に相当する。

この城、実は一度チャレンジした。
2013年1月だった。南側の団子石峠から狙った。

しかし、前年に大きな台風が襲来して峠までの道が倒木で閉鎖されてしまい断念せざるを得なかった。
その時、到達できていれば「図説 茨城の城郭」掲載城館、完全制覇となるはずであった。

リーチをかけたまま、8年が経過し、2021年4月26日、やっと「ツモ」になる日がやってきた。
林道を使い団子石峠まで来て駐車、なんと平日なのに数台駐車している。

南東の愛宕山方面からどんどんハイカーがやって来る。彼らに交じって山頂を目指す。

このハイキングコース、メジャーなコースだけあって比較的歩きやすい。
しかし、前述のようにアップダウンが多く、岩場も多い。2qの道が長く感じられる。
途中、峠の名前になった「団子石」を通過、標高431.8mの「団子山」を通過、鞍部に下り、また登り標高460mの「大福山」。

峠の名前の元の団子石 標高431.8mの団子山山頂、広い!出城か? 標高460mの大福山山頂部も広い。ここも出城か?

再度、アップダウンを繰り返し、獅子ヶ鼻という、オーバーハングした岩場を通過、天狗の奥庭を過ぎると岩場が連続する。
この岩場は多分、出城でもあるのだろう。
岩と石さえあれば敵を撃退できる。
さらに屏風岩という巨岩がある。
これらの岩は6000万年ほど前に地下で固まったマグマが花こう岩が隆起したものといい、白いカリ長石を含み、マグマの流れでできた縞模様が見られるという。
その付近には平場や堀切らしいものがある。

オーバーハングしている岩、獅子ヶ鼻 屏風岩、高さは10mほどある巨岩。 屏風岩の北側は堀切状になっている。

山頂近くになると岩場があるが、これは天然の防塁である。

このハイキングコース、木々が多く、なかなか眺望が開けない。しかし、少しだけ開けた場所もある。
ちょっと撮ってみた。

南西側の八郷盆地と筑波山 南には霞ヶ浦が・・右側の街が土浦


南を見たら何か立っている。ゴジラか?拡大して見たら・・・。あれは・・!

そしていよいよ山頂部である。岩場を過ぎると比較的平坦な尾根?が続き、最後、登りとなる。
山頂部@は平場になっており、恰好のお休み場、お昼近くはお弁当を広げるハイカーが沢山。

しかし、一体、何人がこの場が城と認識しているだろうか。
ほとんど自然地形で城として成り立つので目立つ遺構は見えない。
城郭遺構は山頂東側の笹薮の中にしっかり隠れているのである。

東側には3段ほどの段々が重なり、一番下にはちゃんと堀切Cもある。
間違いなくこれは城郭構造である。
一方、北側、道祖神峠方向に下る道の一部は土橋になっており、笹薮の中にも竪堀Bが隠れているのである。

@難台山の山頂、ここが主郭なのだろう。 A山頂南側の尾根は曲輪であろう。南端に岩場がある。 B北側道祖神峠に向かう道沿いに土橋と竪堀がある。
しかし、標識は城は山頂の南東下の尾根筋、観音平が城としている。
山頂からは比高約60mほど下った場所にある。
その場に行ってみた。
、たしかに平坦になった場所はあり、人の手が入っている。

でも山頂側の石塁というものは尾根に岩がたくさんあるだけの自然地形に過ぎない。
←の写真

尾根の中腹に城があり、山頂側に何もないのはおかしい。
かなり大きな堀切が多重にないと、山頂側から攻撃されたら一たまりもない。
ここの場所は城とすれば、駐屯地だろう。
やはり、城の主体部は山頂部であろう。
C東下にも堀切はあるが・・笹薮で分からん! 観音平の平場にある石塁というが・・自然物じゃない?

ここを舞台とする「難台山城の戦い」は南北朝時代の抗争の末期、嘉慶元年(1387)小田氏8代孝朝の子、五郎藤綱が小山隆政若犬丸に加担して関東管領足利氏満に反抗して挙兵し、難台山城に立て籠もった籠城戦である。
籠城した兵は南朝方の残党も合流して500名ほどだったらしい。
北朝方は上杉朝宗を将として攻めるが、要害の地であるため苦戦、これに対して上杉朝宗は攻撃に手を焼き、近くの舘岸城に拠って持久戦法を取る。

難台山城には真壁氏が食料の搬入を秘密裏に行っていたが、北朝方の佐竹勢がこれを発見して遮断、飢餓状態に陥った城方将兵は苦戦に陥り、総攻撃を受け、落城、城兵の多くが自刃し、嘉慶2年5月18日戦いは終わったとされる。

こんな高い山じゃあ、食料と水があれば、包囲して持久戦以外、攻めようがない。
でも、冬場だったら食料が豊富でも自落だろう。
この戦を以て、常陸の南朝勢力は壊滅し南北朝の騒乱が終息した。
・・・と、され、南北朝の戦いはこれで終息とはされているが、実際は北朝内の内部分裂で、反抗した側に南朝方の残党が合流し、名目上、南朝方とされたに過ぎないようである。

この戦いには佐竹氏も参加しているが、当主の佐竹義宣(戦国自体の義宣さんとは別人)の母は小田氏の出であり、親戚のため消極的態度、本人は出陣せず、部下の小野崎通郷と江戸通高を派遣しただけという。
しかし、最終段階の激戦で、その江戸通高は戦死してしまう。
戦後、足利氏満は非協力的だった大掾氏から水戸の河和田を取り上げ、江戸氏に与える。
このことが江戸氏復興の契機となり、その後、水戸城も奪い、興隆していくことになる。

半田城(石岡市(旧八郷町)半田)
県道64号線を八郷の中心部、柿岡から石岡方面に南下し、片野城を東に見て、川又城横を通過、県道138号線との合流点からさらに南下すると右手に阿弥陀院がある。
半田館はこの阿弥陀院がある岡の東縁部に築かれる。
岡の上にある阿弥陀寺の墓地から台地縁沿いの道を300mほど南に行くと、香取神社がある。
その東側が少し出ばったようになっており、そこが館跡である。
ここの字も「要害」、ずばり城、そのものである。

館の本郭と考えられる畑の北側に道Aがあるが、これが横堀を利用したものらしい。
そして、神社に行く部分には櫓台のような土壇@がある。
この堀は東側の斜面部にも続き、南側に回る。南側の堀Cは大きい。
最大の場所で幅10mほどある。
沢を利用した水堀、泥田堀だったようである。
ここは土塁を崩した土で埋められて浅くなっているが、ちゃんと形は残している。
本郭部からの深さは4mほどある。肝心の本郭は内部は畑Bである。

周囲を土塁が回っていたというが、ほとんど失われている。
また、西側がどこまでなのかが分からない。
内部は畑であるが、西側は藪状態、香取神社側には堀があったと思われるが、確認できない。
香取神社境内の東側に堀跡のような窪みEがあるが、これが本郭の西側の堀だったかもしれない。
これが堀とすれば、東西100m、南北60mほどが館の大きさということになる。
また、香取神社の境内自体も岡続きの西側より若干、高い。
北側には堀跡のような切通Dがある。
このことから香取神社の地が二郭であり、さらに西側に堀があったのかもしれない。
そうすれば、梯郭式の館だったのではないだろうか。 志筑城を根拠にした地頭、下河辺氏政義の一族、益戸(または益田)与右衛門が城主という。彼は、この地に入り半田を名乗り、代々、半田与右衛門を称したという。
南北朝時代、半田氏は南朝方、北朝方の間で揺れ動き、何とか生き残る。
しかし、戦国時代は小田氏に味方していたが、小田氏ー佐竹氏間の抗争に巻き込まれ、所領を失ってしまう。

その後、小田氏を頼って逃れたようだが、最後は佐竹氏によって土浦城が攻撃され落城した時、最後の当主、半田与右衛門が土浦の中貫で討死し、滅亡してしまったという。
航空写真は昭和49年国土地理院撮影のもの。余湖くんのホームページを参考にした。
@ここは虎口だろう。 A北東側の横堀は道になっている。 B曲輪内は畑、土塁は崩されている。
C南側の堀、幅10mほどある巨大さ D香取神社北の道は堀跡か? E香取神社境内東の窪みは堀跡か

二条山館(石岡市(旧八郷町)宇治会)
ここは予想以上に素晴らしい城である。横堀を多重に回す戦国時代後期の城である。
八郷地区でも間違いなく上位に入る遺構を持つ。
しかし、その遺構は藪に埋もれていて、確認は難しい。
おまけにまったくと言って良いほど知られていない無名の城である。

八郷支所から北に約2.5km、瓦会小学校の西、宇治会(うじえ)集落の北側から西側にかけての比高40mほどの山が館跡である。
この山は北から南に半島状に張り出し、その南端部が館跡である。
館跡部の東、南、西下全てが民家であり、館に行くには北の源照寺側からアプローチするのが良い。
山西斜面にある寺の墓地の南側を強行突破すれば、西下から登って来る山道に鞍部で合流する。
そこには石の小さな社があり、ここも堀跡なのかもしれない。
館はさらに山道を南に進んだ場所にある。


道を進むと、途中で埋もれた堀のような、道のような溝がある。
後で確認したが、間違いなくこれは堀であり、その先は館、本郭の西側の二重目の堀に合流する。
さらに道を進むと立派な横堀@が現れる。この堀が本郭の周囲をぐるりと1周する。
総延長は200m位あるだろう。その内側北側山続きに堀が2本ある。

つまり、山続きの北側は総計4重の堀が存在することになる。
なお、本郭側のこの堀。東斜面では2段の帯曲輪となる。
本郭は南北60m、東西50mくらいの大きさであるが、内部は篠竹の藪と倒木で全貌の確認はできない。
北側から入る土橋がある。こちらは搦手口であろう。
本郭には周囲に高さ50cm程度の低い土塁がある。
東側は2段の帯曲輪があり、その下に横堀Aが巡る。西側には横堀があり、さらに10m下にもう1本の横堀Eがある。
また、南側には虎口Dがあり、本郭側の両側に高い土塁がある。

虎口から土橋が南側の曲輪に延びる。
南側の曲輪が二郭ということになる。
馬出のような曲輪であり、三角形に近い形をしており、三角形とすれば高さ50m、底辺40mほどか。
内部は北側が高く、2段構造になっている。
西側から南にかけて横堀Bがまわる。この堀は西側の下側の堀Eに合流する。
この曲輪から西と南に竪堀Cが下る。さらに東にも1本が下る。
どうもこの竪堀が登城路であり、山麓の屋敷から一度、二郭に入り、土橋を介して本郭に入ったものであろうか、それなら里の城という可能性もある。
または、その逆にこの竪堀は出撃路であったのかもしれない。
航空写真は国土地理院が昭和50年撮影のもの。本郭部は当時畑であったらしい。
周囲に筋が見えるが、それが横堀と思われる。

城主については「路川氏」という名があると言うが、どのような者かは分からない。
横堀を多重に巡らす方式からして、間違いなく、戦国後期の城である。
小田氏と佐竹氏の争奪戦のころ整備されたものであろうか。

航空写真は国土地理院撮影のもの。余湖くんのホームページを参考にした。

@ 本郭北の大きな堀 A @の堀は本郭周囲を回る。
 これは西側を回る堀。
B 二郭西側の横堀
C二郭南の竪堀 D本郭南側の土橋なのだが、藪・・ E 本郭西側外側の横堀

片岡館(石岡市(旧八郷町)片岡)
八郷支所から東に1km、東筑波カントリークラブ北側の谷津に沿った道を片岡本田方面、東に行くと、水田地帯となっている南側にゴルフコースと溜池が見え、溜池の東側に比高10mくらいの岡が北の水田地帯に突き出ている。
右下の写真は東側から見た館跡の岡である。水田は当時は沼地だったのだろう。
この突き出た岡の内部は広葉樹の林になっている。
そこが片岡館の主郭部である。

岡の東、北、西の3方向は水田であるが、当時は沼地であり、南側からのみ、アプローチできたようである。

南のゴルフ場との間には切通の道Bになっているが、これは堀跡であろう。

この切通の道から入る口があり、そこを入ると主郭内である。
内部はやや歪んだ正方形(八角形?)であり、だいたい60m四方の広さがある。
周囲は4箇所ほど、欠損があるが、土塁が囲んでいる。
特に南側付近が高く、3mほどある立派なものAである。

北端には櫓台のような土壇があり、石の社がある。
この曲輪の内部@は平坦で、広葉樹の林。
まったく藪はない。
冬場などは落葉しているのでスッキリしている。

曲輪の西側と東側は横堀がある。
この堀Cは立派であり、深さは6mほどある。幅は10mほど。
堀底から見上げる主郭の土塁は非常に高く感じる。勾配も急である。
北側は帯曲輪、犬走りのようになっている。
虎口がどこかはっきりしないが、切通側から上る口は後付けのように思える。

東側の土塁の切れ目に堀を介したその東の土塁上から木橋があったか、この堀の北端の帯曲輪から上る道があった可能性がある。

なお、この東側の堀はゴルフ場側にも続いており、ゴルフ場側にも曲輪があったようであるが、ゴルフ場の造成で破壊したようである。

元々は複郭の城であろう。
城主等は分からないらしい。
昭和49年撮影の館跡航空写真 @主郭内はほぼ全周土塁が覆う。 A南側の土塁は高さ3mほどある。
B南側、ゴルフ場との間の道は堀跡だろう C東側の横堀は深いが・・藪

航空写真は国土地理院撮影のもの。余湖くんのホームページを参考にした。

諏訪山砦(石岡市(旧八郷町)吉生)
小幡の集落から県道150号線を西に走り、川又川にかかる瓦橋をわたると北側に入る道がある。
ここを800m北上すると、博進紙器茨城工場がある。
この工場の西の比高25mの山が城址である。

しかし、山には工場からは直接は行けず、その南側または北側から迂回して行く。

館のある岡は西から東に張り出した半島状になっており、迂回する道は館の西側を通る。
この道自体、すでに城域であり、道路が堀跡の可能性がある。

岡の最上部に東の杉林の中に入る林道のような細い道がある。
その道の入口を覗くと、奥に切岸が見えてくる。
そこがこの諏訪山砦の主郭である。
この切岸の西側には馬場7mほどの堀@があるが、かなり埋まっている。
それでも切岸の上まで4m程度はある。

さらに道を入ると、館内に入る口がある。
そこを入るが、中は完全な藪状態であった。
過去の航空写真を見ると畑であったようであるが、耕作が放棄され藪化したようである。

土塁もちゃんとあるのだが、写真を撮っても藪しか写っていないので掲載は断念。

土塁は曲輪内から1.5〜2mほどの高さがある。
なお、この入口は畑だった時期の耕運機などを入れる口であり、本来の虎口らしいものがその東側にあった。

ここから南に尾根があり、土塁のようなものが道の反対側にある。
この尾根筋が大手道かもしれない。なお、南側の小道、これはどうも堀跡のようである。
北側から見た城址、
それほどの岡ではない。
@西側の堀 A東側の切岸。右手は堀跡だろう。

主郭部は東西80m、南北40mほどの長方形であり、東側は畑であるが、どうも堀を埋めた跡がある。
本来、横堀が主郭を全周していたようである。
なお、土塁も東側が曖昧になっているが、全周にわたって存在していたのではないだろうか。

現在は単郭の館という感じであるが、東側と西側は岡続きで比較的平坦である。
両側にも曲輪があり、本来は直線連郭式の城であったのではないかと思われる。
小幡堀の内館の西を守る支城がここであろう。
航空写真は国土地理院撮影のもの。余湖くんのホームページを参考にした。