石岡市(旧八郷町)の城 3

半田城(石岡市(旧八郷町)半田)
県道64号線を八郷の中心部、柿岡から石岡方面に南下し、片野城を東に見て、川又城横を通過、県道138号線との合流点からさらに南下すると右手に阿弥陀院がある。
半田館はこの阿弥陀院がある岡の東縁部に築かれる。
岡の上にある阿弥陀寺の墓地から台地縁沿いの道を300mほど南に行くと、香取神社がある。
その東側が少し出ばったようになっており、そこが館跡である。
ここの字も「要害」、ずばり城、そのものである。

館の本郭と考えられる畑の北側に道Aがあるが、これが横堀を利用したものらしい。
そして、神社に行く部分には櫓台のような土壇@がある。
この堀は東側の斜面部にも続き、南側に回る。南側の堀Cは大きい。
最大の場所で幅10mほどある。
沢を利用した水堀、泥田堀だったようである。
ここは土塁を崩した土で埋められて浅くなっているが、ちゃんと形は残している。
本郭部からの深さは4mほどある。肝心の本郭は内部は畑Bである。

周囲を土塁が回っていたというが、ほとんど失われている。
また、西側がどこまでなのかが分からない。
内部は畑であるが、西側は藪状態、香取神社側には堀があったと思われるが、確認できない。
香取神社境内の東側に堀跡のような窪みEがあるが、これが本郭の西側の堀だったかもしれない。
これが堀とすれば、東西100m、南北60mほどが館の大きさということになる。
また、香取神社の境内自体も岡続きの西側より若干、高い。
北側には堀跡のような切通Dがある。
このことから香取神社の地が二郭であり、さらに西側に堀があったのかもしれない。
そうすれば、梯郭式の館だったのではないだろうか。 志筑城を根拠にした地頭、下河辺氏政義の一族、益戸(または益田)与右衛門が城主という。彼は、この地に入り半田を名乗り、代々、半田与右衛門を称したという。
南北朝時代、半田氏は南朝方、北朝方の間で揺れ動き、何とか生き残る。
しかし、戦国時代は小田氏に味方していたが、小田氏ー佐竹氏間の抗争に巻き込まれ、所領を失ってしまう。

その後、小田氏を頼って逃れたようだが、最後は佐竹氏によって土浦城が攻撃され落城した時、最後の当主、半田与右衛門が土浦の中貫で討死し、滅亡してしまったという。

航空写真は昭和49年国土地理院撮影のもの。余湖くんのホームページを参考にした。
@ここは虎口だろう。 A北東側の横堀は道になっている。 B曲輪内は畑、土塁は崩されている。
C南側の堀、幅10mほどある巨大さ D香取神社北の道は堀跡か? E香取神社境内東の窪みは堀跡か

二条山館(石岡市(旧八郷町)宇治会)
ここは予想以上に素晴らしい城である。横堀を多重に回す戦国時代後期の城である。
八郷地区でも間違いなく上位に入る遺構を持つ。
しかし、その遺構は藪に埋もれていて、確認は難しい。
おまけにまったくと言って良いほど知られていない無名の城である。

八郷支所から北に約2.5km、瓦会小学校の西、宇治会(うじえ)集落の北側から西側にかけての比高40mほどの山が館跡である。
この山は北から南に半島状に張り出し、その南端部が館跡である。
館跡部の東、南、西下全てが民家であり、館に行くには北の源照寺側からアプローチするのが良い。
山西斜面にある寺の墓地の南側を強行突破すれば、西下から登って来る山道に鞍部で合流する。
そこには石の小さな社があり、ここも堀跡なのかもしれない。
館はさらに山道を南に進んだ場所にある。


道を進むと、途中で埋もれた堀のような、道のような溝がある。
後で確認したが、間違いなくこれは堀であり、その先は館、本郭の西側の二重目の堀に合流する。
さらに道を進むと立派な横堀@が現れる。この堀が本郭の周囲をぐるりと1周する。
総延長は200m位あるだろう。その内側北側山続きに堀が2本ある。

つまり、山続きの北側は総計4重の堀が存在することになる。
なお、本郭側のこの堀。東斜面では2段の帯曲輪となる。
本郭は南北60m、東西50mくらいの大きさであるが、内部は篠竹の藪と倒木で全貌の確認はできない。
北側から入る土橋がある。こちらは搦手口であろう。
本郭には周囲に高さ50cm程度の低い土塁がある。
東側は2段の帯曲輪があり、その下に横堀Aが巡る。西側には横堀があり、さらに10m下にもう1本の横堀Eがある。
また、南側には虎口Dがあり、本郭側の両側に高い土塁がある。

虎口から土橋が南側の曲輪に延びる。
南側の曲輪が二郭ということになる。
馬出のような曲輪であり、三角形に近い形をしており、三角形とすれば高さ50m、底辺40mほどか。
内部は北側が高く、2段構造になっている。
西側から南にかけて横堀Bがまわる。この堀は西側の下側の堀Eに合流する。
この曲輪から西と南に竪堀Cが下る。さらに東にも1本が下る。
どうもこの竪堀が登城路であり、山麓の屋敷から一度、二郭に入り、土橋を介して本郭に入ったものであろうか、それなら里の城という可能性もある。
または、その逆にこの竪堀は出撃路であったのかもしれない。
航空写真は国土地理院が昭和50年撮影のもの。本郭部は当時畑であったらしい。
周囲に筋が見えるが、それが横堀と思われる。

城主については「路川氏」という名があると言うが、どのような者かは分からない。
横堀を多重に巡らす方式からして、間違いなく、戦国後期の城である。
小田氏と佐竹氏の争奪戦のころ整備されたものであろうか。

航空写真は国土地理院撮影のもの。余湖くんのホームページを参考にした。

@ 本郭北の大きな堀 A @の堀は本郭周囲を回る。
 これは西側を回る堀。
B 二郭西側の横堀
C二郭南の竪堀 D本郭南側の土橋なのだが、藪・・ E 本郭西側外側の横堀

片岡館(石岡市(旧八郷町)片岡)
八郷支所から東に1km、東筑波カントリークラブ北側の谷津に沿った道を片岡本田方面、東に行くと、水田地帯となっている南側にゴルフコースと溜池が見え、溜池の東側に比高10mくらいの岡が北の水田地帯に突き出ている。
右下の写真は東側から見た館跡の岡である。水田は当時は沼地だったのだろう。
この突き出た岡の内部は広葉樹の林になっている。
そこが片岡館の主郭部である。

岡の東、北、西の3方向は水田であるが、当時は沼地であり、南側からのみ、アプローチできたようである。

南のゴルフ場との間には切通の道Bになっているが、これは堀跡であろう。

この切通の道から入る口があり、そこを入ると主郭内である。
内部はやや歪んだ正方形(八角形?)であり、だいたい60m四方の広さがある。
周囲は4箇所ほど、欠損があるが、土塁が囲んでいる。
特に南側付近が高く、3mほどある立派なものAである。

北端には櫓台のような土壇があり、石の社がある。
この曲輪の内部@は平坦で、広葉樹の林。
まったく藪はない。
冬場などは落葉しているのでスッキリしている。

曲輪の西側と東側は横堀がある。
この堀Cは立派であり、深さは6mほどある。幅は10mほど。
堀底から見上げる主郭の土塁は非常に高く感じる。勾配も急である。
北側は帯曲輪、犬走りのようになっている。
虎口がどこかはっきりしないが、切通側から上る口は後付けのように思える。

東側の土塁の切れ目に堀を介したその東の土塁上から木橋があったか、この堀の北端の帯曲輪から上る道があった可能性がある。

なお、この東側の堀はゴルフ場側にも続いており、ゴルフ場側にも曲輪があったようであるが、ゴルフ場の造成で破壊したようである。

元々は複郭の城であろう。
城主等は分からないらしい。
昭和49年撮影の館跡航空写真 @主郭内はほぼ全周土塁が覆う。 A南側の土塁は高さ3mほどある。
B南側、ゴルフ場との間の道は堀跡だろう C東側の横堀は深いが・・藪

航空写真は国土地理院撮影のもの。余湖くんのホームページを参考にした。

諏訪山砦(石岡市(旧八郷町)吉生)
小幡の集落から県道150号線を西に走り、川又川にかかる瓦橋をわたると北側に入る道がある。
ここを800m北上すると、博進紙器茨城工場がある。
この工場の西の比高25mの山が城址である。

しかし、山には工場からは直接は行けず、その南側または北側から迂回して行く。

館のある岡は西から東に張り出した半島状になっており、迂回する道は館の西側を通る。
この道自体、すでに城域であり、道路が堀跡の可能性がある。

岡の最上部に東の杉林の中に入る林道のような細い道がある。
その道の入口を覗くと、奥に切岸が見えてくる。
そこがこの諏訪山砦の主郭である。
この切岸の西側には馬場7mほどの堀@があるが、かなり埋まっている。
それでも切岸の上まで4m程度はある。

さらに道を入ると、館内に入る口がある。
そこを入るが、中は完全な藪状態であった。
過去の航空写真を見ると畑であったようであるが、耕作が放棄され藪化したようである。

土塁もちゃんとあるのだが、写真を撮っても藪しか写っていないので掲載は断念。

土塁は曲輪内から1.5〜2mほどの高さがある。
なお、この入口は畑だった時期の耕運機などを入れる口であり、本来の虎口らしいものがその東側にあった。


ここから南に尾根があり、土塁のようなものが道の反対側にある。
この尾根筋が大手道かもしれない。なお、南側の小道、これはどうも堀跡のようである。
北側から見た城址、それほどの岡ではない。 @西側の堀 A東側の切岸。右手は堀跡だろう。

主郭部は東西80m、南北40mほどの長方形であり、東側は畑であるが、どうも堀を埋めた跡がある。
本来、横堀が主郭を全周していたようである。
なお、土塁も東側が曖昧になっているが、全周にわたって存在していたのではないだろうか。

現在は単郭の館という感じであるが、東側と西側は岡続きで比較的平坦である。
両側にも曲輪があり、本来は直線連郭式の城であったのではないかと思われる。
小幡堀の内館の西を守る支城がここであろう。

航空写真は国土地理院撮影のもの。余湖くんのホームページを参考にした。