石岡市(旧八郷町)の城 2

須釜館(石岡市(旧八郷町)須釜)
県道42号線を八郷の中心部から筑波山方面に走行し、川又川を越えると右手に林がある岡が見える。
これが須釜館である。南1qがフラワーセンターである。
館は南から北に張り出した比高10m程度の岡の北縁にある。
現在、そこは須釜集落であり、台地の北縁のみに遺構が確認できる。

南の部分は民家の敷地になっていて遺構は湮滅している。
広さとしては100m四方ほどと思うが、複数の曲輪があった感じである。
残る遺構は非常に変わった感じであり、北縁近くに土壇Bがあり、そこから南と西に堀が派生している。
この土壇、氏神かなにかを祀った神聖な場所だったようであり、今も社が建つ。
あるいは古墳であった可能性もある。

堀のまわりには土塁が築かれる。南に派生した堀Cがどこまで続いているか良く分からない。
西に派生した堀Aは2つに折れ、さらに南北@に分岐する。

その西側の堀の西側はただの畑であり、遺構らしきものはない。
一方、土壇の東側は2段ほど、帯曲輪のようになっており、北側には土塁Dがある。
さらに東側には堀Eがある。(自然の谷津内を流れる川かもしれない。)
菅間地頭の居館を、後に小幡氏が改修して、堀ノ内館の東側の防御用の城館としたとも言うが、見た感じでは武家の平素の居館であり、戦闘用のものとは思えない。

鳥瞰図は国土地理院が昭和49年に撮影したもの。民家の上の林が館跡である。民家も館の域であろうが、遺構は分からなくなっている。

@西側の南北に走る堀 A Bの土壇から西に派生する堀 B 不思議な土壇
C土壇から南に派生する堀 D北側の低地に面した縁部の堀 E東下の堀?

小幡堀の内館(石岡市(旧八郷町)吉生)
小田氏の重臣小幡氏の本拠が小幡堀の内館であるが、小幡の集落全体が館の領域であったようである。
この集落は周辺の水田地帯より10mほど高い岡であり、集落を営むには絶好の場所である。

おそらく、戦国時代は周囲には湿地が多く、かつ岡の上にも広い面積があるので、地域支配用の城を置くのは最適であったと思われる。
その支城として残る吉生砦もかなりの立派な規模であり、諏訪山砦、須釜館、数俵城など多くの支城を持ち、その中心がこの小幡城である。
支城網から推定してもかなりの規模を持つ城であったことが推定される。

その小幡堀の内館、県道42号線から150号線が分岐する東北部の白鳥神社や薬王院付近が中心部だったようである。
この付近の地名が「堀の内」である。
しかし、古くから集落になっており、よく捜せば遺構は残っているようであるが、道路を走った限りでは、明確な遺構は見られない。
堀跡が用水路となっているとはいうが、とても当時を想像できるものではない。

完全に湮滅していたと思ったこの館、車を県道42号を東に走らせると、「あれ?」と思われるものが下宿公民館の北側にあった。
車を止めて見ると、それは立派な土塁Aであった。
南北に80mほど、県道42号もこの土塁を分断し、両側に遺構が残る。(Bのように南側はかなり削られている。)
北側の土塁は高さ4mほどある。北端は土塁台@のように大きい。

しかし、なぜか、小幡堀の内館の主郭が位置する西側に堀跡がある。
主郭は土塁の東側である。ここは南北100m、東西50mほどがこの曲輪の広さである。
その東側は切岸となってフルーツライン、そして稲荷山の交差点である。

この遺構、どうやら「諏訪山館」ともいう遺構のようであるが、小幡堀の内館の東の出丸、広義の意味では館の一部でもあるようである。
やはり、小幡堀の内館は東西500mほどもある壮大な城であったようである。
この地も戦国時代、永禄年間以降、佐竹氏により小田氏の勢力は駆逐され、この館も佐竹氏の手に落ち、その後、廃館になったのであろう。

@北側の土塁。左が堀跡。 A県道北側の土塁 B県道(右)の南側に残る土塁の残痕

航空写真は国土地理院昭和49年撮影のもの。

小幡氏は全国に分布する。
特に赤備えで有名になった上野の武田氏家臣の小幡氏は良く知られる。
その小幡氏、常陸国にもいる。しかし、常陸の小幡氏は、上野の小幡氏とは関係はないようである。
どこの一族も地名から姓を名乗っていることが多いからである。それほど「小幡」という地名が多いということかもしれない。
小田氏2代知重の三男光重が茨城郡小幡に住んで興した家という。
その居城があの茨城ナンバーワンと評価される中世城郭小幡城という。しかし、小幡氏の居城した城かは分からない。
また、小幡氏が築いたとしても、その後、大きく拡張されているようであり、当時の姿ではない。
なお、茨城郡の小幡に住んだ小幡氏は小田氏系ではなく、大掾詮幹の三男・義幹が応永24年(1417年)に小幡城を築城し小幡氏を名乗ったとする説もある。
確かにこの小幡氏、大掾に従っていたこともあり、大掾と犬猿の仲の小田氏系というのも疑問がのこるところである。
この小幡氏が(またはその一族の一部)が移ったのが八郷の小幡氏という。
この辺はどうなのか良く分からないが、八郷は元々小田氏の領土であり、山1つ越えれば、小田氏の本拠、小田城がある。
その後の戦国時代の行動から見ても、八郷の小幡氏は間違いなく小田氏系だろう。
八郷の小幡氏、戦国時代永禄年間、佐竹氏(の傘下の太田氏)の激しい侵略を受けて最後、どうなったのか分からない。
小田氏の元に帰ったのか、帰農したのか、それとも佐竹氏に従属(佐竹氏家臣録の中にも小幡氏の名が見える。)したのか?
現在も茨城県には小幡姓は非常に多い。前回の知事選の候補者も小幡さんだった。
今、茨城県に住む小幡氏、ここ八郷の小幡氏あるいは茨城郡小幡の小幡氏の子孫なのだろう。

高友古塁(石岡市(旧八郷町)柿岡)
八郷の中心部、柿岡の恋瀬川北岸の高友地区の北の標高60m、比高45mの山に5世紀の古いタイプの前方後方墳の丸山古墳がある。
ちなみに、現地解説板によると、

『丸山古墳は、八郷盆地の中央を流れる恋瀬川の流域に展開する広大な沖積地に南面して、柿岡の高友丘陵の景勝の地に占める全長55m,高さ7mの全公園方後方墳で、古くから嵩神天皇の第一皇子豊城入彦命の奥津城として伝承され、古墳の近くに鎮座する佐志能神社とともに顕彰されてきた。
昭和27年12月明治大学後藤守一教授の指導の下に学術調査が行われ、その結果、後方部の墳頂下約2mの地点から粘土床が発見され、内行花文鏡をはじめ、銅銭、勾玉、鉄刀、刀子などの副葬品が出土した。
これらのことから、丸山古墳は前方後方という珍しい墳形であるとともに、副葬品の内容などから、五世紀の初頭の頃に築造された県下でも代表的な古式古墳となっており、東国の古墳時代研究には欠かせない存在である。
(昭和55年11月 石岡市教育委員会)』という重要物件である。

すぐ南東下には佐志能神社があり、現地解説板によると
『丸山古墳と佐志能神社は、大和朝廷の東国討伐に大きな業績を残された第十代嵩神天皇の第一皇子豊城入彦命の奥津城であり、命(みかど)を奉斎した杜として、古くから崇敬され保存されてきた。』という。


その丸山古墳@、周りをフェンスで囲ってあり、中には入れない。
この丸山古墳一帯が、高友古塁という中世城郭なのである。
古墳の周囲を深さ4m、幅10mほどの堀A、Cでぐるりと一周囲んでいるのである。

この堀、見事なものである。
古墳を利用した城郭であり、古墳の墳丘を物見台にし、その西側が緩やかな斜面であり、ここが曲輪となっている。
曲輪Bは結構広く、東西80m、南北最大70mほどの台形である。
臨時的な城郭と思われ、来歴等は分からない。
この山、北から南側に半島状に突き出た形をしており、南方面の眺望が非常に良い。
物見の場所としては良い立地である。ところで、興味深いことにここでは、古墳がまったく改変されていない。

明らかに古墳に敬意が払われている。
戦国時代の人間も古墳の性格は認知していたようである。

航空写真は昭和55年国土地理院撮影のもの。

@物見台に使われた丸山古墳 A南側の見事な堀 B曲輪内部。培塚跡らしいものがある。 C北側の堀も見事である。


吉生砦(石岡市(旧八郷町)吉生)

茨城県石岡市、旧八郷町のフルーツライン沿いにある吉生小学校西側が砦跡である。
茨城県フラワーパークの北2qにあたる。遺構の残存状態は非常に良好であるが、難点は砦跡までのアクセスルート。
冬場ならなんとか突入は可能であるが、それ以外の季節では藪が酷くて難しい。
ただし、小学校の校内を通れば問題なく到達できる。
何せ、砦跡は吉生小学校のアスレチック広場なのである。

この際は小学校の先生に挨拶して通らせてもらう。グランドの西側に砦への入口がある。
砦内とグランド間の堀に木橋がかかっている。この堀が豪快である。幅15m、今でも深さは5mほどもある。堀底には遊具がある。
一応、箱堀とされているが、本当に箱堀なのか?薬研堀、あるいは障子堀ではなかったか。この堀、砦を一周するのである。
砦内は東西に130mほどあり、西側に向かって3段になり、少しづつ低くなる。

木橋を渡った部分が主郭部と考えられ、堀側に高さ1mほどの土塁がある。
曲輪Tは直径60mほどの六角形に近い形をしている。
その西側に一段低く幅は30mほどの長さ40mの曲輪U、さらに西側に一段低く幅20mほどの長さ30mほどの曲輪Vがある。
その周囲を堀が湾曲しながら囲む形式である。
これが、残存する遺構であるが、ほとんど破壊されていないのは驚きである。
小学校の敷地が外郭(曲輪W)であったようである。そうすれば長さは200m近い規模になる。
この規模であると「砦」という規模ではなく「城」と言って差し支えない。
小幡氏の本城はここではなかったのだろうか。
この広大さから推定すると、地域住民の緊急時の避難施設としての機能もあったのではないかと思われる。
戦国時代この地を支配していた小田氏家臣小幡氏が永禄年間(1558−70)築いた砦である。
永禄年間と言えば小田氏に対する佐竹氏の攻勢が活発になったころであり、永禄末期には東の片野城に佐竹方の太田三楽斎が入り、八郷は佐竹氏の領土になりつつあるころである。小幡氏はこの地域に多くの城館を築いているが、最後はどうしたのか?
@小学校校庭(曲輪W)と曲輪T間の堀にかかる橋。
当時も橋がかかっていたのであろう。
A小学校校庭(曲輪W)と曲輪T間の堀南側 B @小学校校庭(曲輪W)と曲輪T間の堀北側
C 曲輪T東側の土塁 D 曲輪U南側の堀 E 曲輪V内部。

柿岡城(石岡市(旧八郷町)柿岡)
柿岡小学校付近が城址である。柿岡台地の南側に位置し、南側は低地である。
小学校の地が本郭であったというが、例に漏れず、小学校の敷地にするために整地され、土塁や堀のほとんどは破壊されてしまっている。
かろうじて敷地の斜面Cの部分などが切岸であったことを伺わせるのみであるが、それでも探せば多少の遺構を確認することができる。

小学校を中心にその周囲にも城域が及んでいたようであるが、それも市街化に伴い遺構はかなり破壊されてしまっているようである。

小学校の地には大きな土壇があったという。
現在は削平されてしまっているが、構内に残る「稲荷神社」@がその跡地という。
その周囲は若干高くなてっている。
そこから南に高さ3m、幅15mほどの巨大な土塁Aが延びる。
これが現存の土塁である。この土塁の西側には堀があったというが、幼稚園(かつては中学校)の敷地となって埋められている。
しかし、その先、南端に堀Bはちゃんと残存していた。
西側は墓地になっており、西側が高くなっている。これが土塁の残痕Eであり、その西側に外堀があったという。

小学校の北側は低くなっているが、ここは自然の谷津を広げた堀の跡であったらしい。
Dの位置に「首洗い井戸」があるが、その名残であろう。

一方、東端には一段高い場所があり、い諏訪神社Gがある。
この神社の場所こそが物見台であり、堀切Fが残っている。
どうやら二重堀切であったらしい。

@柿岡小学校構内に立つ稲荷神社。
周囲が少し高い。土壇の名残である。
A数少ない遺構である残存土塁。
先の林の中に堀がある。
B残存する堀 C小学校東側の切岸
D首洗い井戸、井戸というより堀? E西側の土塁、木の左が外堀跡。 F諏訪神社西側の堀切跡 G物見台に建つ諏訪神社。

城の歴史は古く、鎌倉時代初期、文永八年(1271)頃、小田氏の先祖、八田知家の八男、柿岡時家が築いたという。
戦国時代には、小田氏の勢力は佐竹氏により、この地から駆逐され、柿岡城には父太田三楽斎資正とともに佐竹氏に亡命した息子の梶原政景が入った。
政景は父、片野城の太田資正とともに小田氏を制圧し、その居城であった小田城が梶原政景に与えられた。

その後、真壁房幹、長倉義興、伊達氏から亡命した国分盛重と佐竹家臣が城主として続き、佐竹氏が秋田に移った後、立花直次が5千石を領し、その後に稲葉正勝が5千石を領した。
寛永9年に稲葉正勝が転封になると、柿岡は天領となり、この時点で城は廃城となった。

観音寺城(石岡市(旧八郷町)下林)

片野城の北500mの下林の台地の西端、観音寺の境内が城址である。
片野城のある岡との間にはかつて湿地帯であった水田がある。
城のある台地は東側から西側の恋瀬川の低地に張り出す比高10mほどの台地である。
台地先端が観音寺であるが、台地基部との間に堀切がある。台地上から寺に入る道は土橋状になっていたのであろう。
城は寺の境内になっているので、これ以外に明確な遺構は見られない。
片野城の北の出城であったものと思われる。 なお、観音寺は建武元年(1334)に創建されたというので純粋な城とは言えないかもしれない。
しかし、戦国時代は寺自体を砦にしたり、寺が僧兵を抱え、要塞化するなどの例があるため、特段不思議ではない。

おそらく片野城とは持ちつ持たれつの関係があったのであろう。

西側から見た城址。

真家館(石岡市(旧八郷町)真家)

鐘転山から南に800m、南山麓の旧八郷町の真家地区にある。
この場所付近の道が細く、入り組んでおり、良く表現できないが、園部支所の北600mの岡の突端部にある。
その館跡推定部であるが、竹やぶである。
その中に土塁があるのだが、倒竹地獄で写真を撮ってもさっぱり分からない。
東側には水堀も残る。
南北朝時代の宍戸氏当主、宍戸四郎安芸守朝の三男家里は園部村真木に分家して真家館に住んだという。
仲村館の詰めの城が泉城の支城ではなく、この館の詰めの城が泉城であったと考えるのが、館主の来歴から言って相応しいかもしれない。
南側から見た館跡 水堀の跡があった。

厚茂館(石岡市(旧八郷町)山崎/部原)

常磐線羽鳥駅から県道140号線を西に向かい園部を通り、八郷の部原方面に向かうと山があるので県道140号線は南に大きくカーブする。
これが普通のルートであるが、園部から西に向かい峠を越えて部原に出る道がある。
この道沿いの東の麓が厚茂地区であり、厚茂館はこの地区の西の山にあったという。
どうやら街道沿いに土塁がある街道閉塞施設であったようであり、泉城の出城のような性格のものであったと思われるが、山麓近くにあったとすれば、軍事用の施設ではなく、鹿や猪が里に来るのを防ぐための「猪垣」のようではなかったと思う。
(似たようなもの、笠間の飯田城の北の山の尾根にあった。)
軍事的な施設であれば、峠に施設を置くはずである。
その可能性があるこの峠に行ってみたが、何とも言えない。
峠付近は写真のように切通し状になっており、木を切れば東西両方向への眺望も良い。
兵や施設を置くことが可能な適度な自然の平場も峠の南側にあり、位置的に格好の場所である。
軍事用施設としての街道閉塞施設であったならば、この峠が館であるはず・・果たして真実は?

川又城(石岡市(旧八郷町)川又)

片野城から西の片野に行き、県道64号線を石岡方面に南下し、川又川にかかる境橋を渡ると岡がある。
この県道と東の恋瀬川に挟まれた南北に長い岡が城址であり、字もずばり「要害」である。

で、その岡であるが、岡全体が集落。何となく堀切跡のような場所や腰曲輪ではないかと思われる場所もある。
凄い造りの豪農の家が沢山あるのは驚く。子孫か?
小田氏の一族、川又氏の居城であったという。八郷が佐竹氏の手に落ちると川又氏がどうなったかは分からない。
おそらく北東の片野城の南の出城となっていたのであろう。
集落内のこの部分は堀跡か? 帯曲輪と思われる平場

数俵城(石岡市(旧八郷町)月岡)

県道138号線の小桜郵便局の北東300mの岡南端部にある。
さて、ここに突入したが、凄い小竹の藪である。堀や土橋、目では確認できるのであるが、写真を撮ったが右のように藪しか写っていない。
これでも堀底から土橋を撮影したものであるが・・・・
ところがこの藪の中、余湖さんは「こんな城の図面を描くなんてきちがいじみている!」と思いながら図面を描いたので、俺がやらなくてもね。
って訳で止めた。撤退!
詳細、http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/6650/yasato.htmにて。
結構、規模は大きいようであるが、周囲が沼地であって始めて成り立つような城である。
城主は月岡玄蕃という。この地が佐竹氏に制圧されると、月岡玄蕃は岡見氏の家臣となり、伊奈町の板橋城の城主となり、多賀谷氏の攻撃を受けて降伏したという。
この城の跡は江戸時代も屋敷として利用されたが、その後、移転して藪化したという。

野田館(石岡市(旧八郷町)野田)

県道140号線部原地区に豊後荘病院の立派な建物がある。
この野田館は病院からさらに西に500m走った上野田地区を見下ろす丘末端にある。
ちょうど、「下三郷(しもさんごう)公民館」付近が館跡である。

右の写真は南側の岡下から見た館跡である。
段々になっている岡の上に土塁があり曲輪だったはずであるが・・
しかし、あたりは一面の畑になっており、存在したという土塁は湮滅している。
公民館の東側の藪に浅くなった堀と土塁が残っているだけである。

館主は小松氏であった。どうもこの小松氏、城里の小松寺と関係し、平家の一族でとも称しているというが、これは多分、捏造だろう。
小松氏は戦国時代の小田氏と佐竹氏の八郷争奪戦に巻き込まれ、佐竹氏に従ったらしい。
しかし、佐竹氏の秋田移封には同行せず、この地で帰農、瓦谷に居宅を移し、この館が廃館になったという。 
公民館の東に残る堀と土塁、藪で分からん。 公民館から見た曲輪跡、土塁は失われている。