寄居城(館)(那珂市菅谷寄居)
菅谷から那珂湊に通じる通称湊街道と水戸から額田、太田方面に通じる旧太田街道が交わる寄居十文字の西側に位置する。
この2つの道は寄居城が築城される以前から存在していた古道であり、この地は交通の要衝であった。
城は全体的に五角形形状をしており、今残っている遺構だけでも東西、南北とも250m近い大きさがあるが、本来はより大きかったらしい。
那珂町における中世の城館の中でも比較的規模が大きく、小型の城と言ってもよい。
那珂町の中世館はほとんどが水利権を管理するための小領主の居館が多く、堀、土塁は有するが、戦闘を強く意識したものは少ない。
しかし、寄居城は北側が水田地帯ではあるが、付近に大きな溜池等はなく、水利権の管理のための城という感じはない。
むしろ堀、土塁が大掛かりであり、防御性を強く意識した構造である。
城の北東側は深田でありこの方面の要害性はある程度優れていたと思われる。
城の東側は宅地化により隠滅しているが、西側、北側は比較的良く遺構が残っている。
しかし、かなりの部分は杉林と藪に覆われており、遺構を確認することは困難である。
平城であり、郭の配置は輪郭式である。
部分的に3,4重の堀と土塁が構築されている。特に北西方面と北側に堀と土塁が密で厳重であり、この方面の防御を重視していることがわかる。
これに対して南側の防御は比較的緩やかである。
これは明らかに北方からの脅威、すなわち仲の悪かった額田小野崎氏からの脅威に対する備えである。
東側と南側の3分の1は宅地と畑となって遺構は湮滅している。
北側と西側は藪状態であるが、その中に遺構が破壊されずに眠っている。
もっとも、見やすい場所は本郭である。
ここは40m四方の曲輪が東西に2つ並んだ形となっている。
東側は墓地となり、西側は水田である。
この周囲の土塁は完存であり、堀も南西側が欠損しているだけで後は残存している。
真ん中に土塁があって、仕切られた形となっているが、この土塁が当時のものであるかは、分からない。
ちなみにこの本郭の字名は「土手中」というのだそうである。ずばり、そのものを指している。
築城は江戸氏の家臣平野氏である。 |
@城址(左の林)北側。この水田は湿地であり、 天然の堀であったと思われる。 |
A本郭南西の堀跡。かなり埋没しているうえ、 家庭の粗大ごみが捨てられている状態である。 |
B本郭北東側の堀と土塁。 堀底は切った杉の木でいっぱいになった状態。 |
C本郭の西半分は水田である。周囲を土塁が一周する。 | D本郭の北側には4重に堀が存在する。 この堀は本郭から2番目の堀。藪がひどくて・・うまく写らん! |
E本郭北側の堀。この部分だけ藪がない。 深さ3m、幅8mほどの規模。結構立派である。 |
F本郭(左)南側の土塁。高さ2mほど。 右下に堀があったが湮滅している。 |
Gの位置の堀。ここもきれいに残り、藪はない。 Eの堀とほぼ同規模である。 |
H西端の堀。この堀は周囲を1周していたが、 部分的に残存しているが、道路建設で半分程度埋まってい |
地天館(那珂市菅谷)
寄居館の北300mにある。杉の林になっており、鉄塔が建っているので、場所はすぐ分かるであろう。 両館の間には水田となっている低地があるだけである。 南と東側が水田であり、水田からの比高が2mの微高地上にある。 写真@は館跡東側であるが、右の林が館跡、左が水田であるが、2mほどの段差がある。 この微高地の周囲は用水路が半周している。 館跡の西側、北側は微高地に続くが、館のある部分だけが若干、盛り上がった感じの地勢である。 この付近は、西側200mに仲房東館、北500mに高内館、南西500mに堀の内館、北東500mに新地館というような館密集地であり、その中の1館である。 館西部はすでに宅地になっており、遺構は分からない。 しかし、館主要部は、まだ、完全な破壊は免れており、鬱蒼とした杉林の中にある。 高圧鉄塔のケーブル張りのため、館跡を覆う林中心部の杉が切られ、通路が付けられた状態である。 以下、右の推定鳥瞰図にしたがって記述する。 なお、この図において赤線で囲っている範囲が遺構残存部分である。 Aの写真はこの通路を北側から見たものであり、手前、左側に堀のくぼみが見える。 館の遺構には、ここから入って確認することができる。 この通路の東西に堀などの遺構が存在するが、東西の堀はつながっていたと思われる。 この通路の脇から西側の藪に突入する。すると幅3,4mの堀が東西南北に走り、堀に沿って土塁があるのがすぐ確認される。 堀はかなり埋没している。コーナー部の土塁Cは少し高くなっていて櫓台のようである。 主要部は中央部に写真Dに示す幅4mほどの堀があり、南北2つに分かれていたようである。 北側の曲輪が主郭に相当すると思われ、堀に面して曲輪内からの高さが1.5mほどの土塁がある。 この曲輪は東西30mほどの小さなものであるが、北半分が湮滅しているため、南北がどの程度の大きさなのか曖昧である。 主要部、西端に小さな石の社Eがある。 |
この社の建つ南半分の曲輪は、南側にあった堀が途中で消え、西側にはない。かなり昔に埋められてしまったのか、始めからなかったのか、発掘してみなければ分からない。 また、主要部から西側に延びる堀があるが、その先は住宅地になっており、そこで分からなくなっている。 西側の住宅地付近には、外郭の堀が南北に走っていたようであるが、その堀を横切るようにさらに仲房東館方面に堀が延びていたように思える。 (仲房東館から南に用水路のような堀が延びており、これが途中で直角に東に曲がれば、地天館の西側に至る。) 一方、通路の東の藪に入ると、写真Bに示すような幅3〜5mの堀と高さ2mほどの土塁がカーブを描きながら北から南に延びている。 途中で幅1.5mほどの溝が分岐して東に向かっている。 この堀は、間主要部の北側から西側を覆っていたのではないかと思われる。 館としては直径120m程度の二重方形、あるいは輪郭式の館であったと思われる。 写真Bの堀の東側の部分も曲輪であったと推定される。 この曲輪がさらに館の外郭を覆っていたとしたら、三重円形輪郭の館であったのかもしれない。 この場合はかなりの面積となり、仲房東館が接してしまう。両館は兄弟関係にあったのかもしれない。 しかし、堀の規模から推定すれば、寄居館の様な戦闘を意識したものではなく、那珂市の多くの平地城館同様、水利権を管理した館という感じである。 館の東側と寄居館北側の水田に水を供給していたのではないかと思われる。 ただし、館が少し高い場所にあるので、水が水田に一方的に流れ、堀に水がなくなってしまう。 水田側には水門があり、堀に水を溜め、貯水池の役目を持たせていたのではないだろうか? |
江戸氏の家臣、飛田氏の館と伝えられ、最後の館主飛田右角道高は江戸氏滅亡後、帰農したと言われる。
一説には、飛田氏は代々佐竹氏の家臣であり、佐竹氏に従って秋田に移ったとも言われる。
後者の説では、直ぐ南の寄居館の平野氏と微妙な関係になってしまう。
至近距離で館が接していて、系列が違うのはどうであろうか?
やはり、仲房東館の軍司氏同様、江戸氏の家臣と考えるのが妥当であろう。
(北500mの高内館の館主、宮田氏は佐竹氏の家臣であるが・・)
江戸氏、滅亡の際に仲房東館の軍司氏とともに佐竹氏に降伏して家臣になったという可能性は十分にありえるだろう。
この地には飛田姓も軍司姓も多いので、飛田氏、軍司氏がこの地に残ったというのは、確かであろう。
飛田氏、軍司氏そして寄居館の平野氏の子孫が、400年後もこの地に健在であり、多くの一族を派生させているのは悠久の歴史を感じさせる。
航空写真は国土地理院撮影の昭和55年当時のものを切り抜いて使用。那珂町史の研究 第10号を参考にした。
@館跡(右の林)東側 | A館跡の真ん中を貫く通路。左と右に堀跡の窪みが見える。 | B通路東側の堀と土塁(右) |
Cの部分の土塁を堀底から撮影 | Dの堀、左に土塁がある。目視では立派なんだが。 | Eの位置に建つ社。 |