水戸紀行1

七ツ洞公園(水戸市下国井町)
「ななつどう」と読む。水戸市が管理する公園。
イギリス式の自然風形式庭園で平成11年(1999)開園。
那珂川の北岸、那珂川を望む那珂台地の縁部に位置する。
東を常磐自動車道が通る。水戸市ではあるが、ほぼ北の那珂市に接した場所である。

「七ツ洞」という名称の由来は、園内に権現山横穴群という遺跡があり、7基の横穴式墓(現存は5基)が在ったことによる。
 園内は、直径50mのイギリス式円形花壇「秘密の花苑」を中心としたエリアAと5つのダムと池からなるエリアBに分かれている。
現在の敷地は約8haだが、ピクニックガーデンのエリアCおよび芸術の森のエリアDの整備が予定されており、最終的な敷地面積は約14.7haとなる計画である。
設計はイギリスのランドスケープコンサルタント会社によるもので、パビリオン(四阿)やフォリー(模造建築物)等の園内施設の建材はイギリスから輸入されたものを使用している。
その景観が古代ローマを彷彿させることから平成24年(2012) 映画「テルマエ・ロマエ」のロケが行われたことで知名度が上がり、来園者が増加した。なお、ロケは他にも行われているそうである。
庭園は岡の上に造られているが、東側は谷津であり、北から流れ込む河川の水や湧水、農業用水を溜めたダムがあり池ができている。
そこがエリアBであるが、もともと、谷津だったのでホタルが生息しており、小動物生息環境保全地域として平成元年(1989)環境庁(現在の環境省)から「ふるさといきものの里」に選定されている。
園内にはゲンジボタルやヘイケボタル、トンボ類などが生育している。

この池については、ある事件が記憶にある。
平成19年(2007)この池で外国人(中国人)女性の水死体が発見された。
一応、「殺人」ではない(事件性はない)とされてはいるが・・・。
じゃあ「事故?」落ちたら溺れる可能性はあるけど。ここ、自由に出入りできるので人がいない時間帯に一人で行って事故にあう可能性はないとは言えない。
でも、中国人女性?・・どこか引っかかるものがある。
すんなり納得できない。「自殺」?あの池に飛び込んで?ちと無理と思うねえ。

何でこの何もないような場所を選定したのだろうか?そして何でわざわざイギリス式庭園にしたのか?
(Wikipediaを参考)


弘道館
第9代水戸藩主の徳川斉昭によって天保12年(1841)、水戸城三の丸内に作られた水戸藩の藩校。
戸田蓬軒が建設を担当し、安島帯刀が運営を行った。

文武両道を教育方針とし、馬術や剣道のほか、人文科学、社会科学のほかにも、医学や天文学をはじめとする自然科学についての教育を行なった。
当然ながら、第2代水戸藩主の徳川光圀が編纂を開始した大日本史の流れを組む水戸学も教育の柱となったため、尊王攘夷が教育の基本になった。
藩校としての規模は大きく、水戸藩が人材育成にいかに力を入れていたかということが伺える。

また、水戸藩では本校の弘道館のほかにも領内各地に分校である郷校を造り、領内の農民に対しても門戸を開き、教育を行ったという。
学問の下のは、士農工商の身分制度は不用という思想があったのだろうか?
多くの他藩の藩校設立のモデルにもなったともいう。

大学というような感じではなく、卒業の概念はなかったという。
学問の研究所という感じであったのであろう。
このため、若者も老人も同じ場で学んだといわれているので生涯教育のはしりでもあるかもしれない。

しかし、ここで育成された優秀な人材の多くが、水戸藩内での改革派(天狗党)と保守派(諸生党)の内部抗争で失われてしまう。
その弘道館の地も会津で破れた諸生党が水戸に舞い戻り、弘道館に立てこもり、二の丸側の天狗党を主力とする水戸藩兵と戦闘となり、多くの建物が銃砲撃により損傷・焼失してしまう。
明治に弘道館が有していた蔵書の多くは国有とされるが、その多くが昭和20年8月1日から2日未明にかけての水戸空襲により焼失しが、それでも約1万冊程度の蔵書が現存し、茨城県立歴史館が管理している。
正庁・至善堂・正門は国の重要文化財に指定されている。

弘道館表門 正庁 正庁内部。ここで講義が行われたのであろう。

偕楽園
水戸といえば、「黄門さん」「偕楽園」そして「納豆」という単語が出て来るはず。

この偕楽園、ご承知の通り、金沢の兼六園、岡山の後楽園と並ぶ日本三大庭園の一つ。
江戸末期の天保13年(1842)、水戸藩第9代藩主徳川斉昭によって造成された庭園である。

斉昭は千波湖に臨む七面山を切り開き、領内の民と偕(とも)に楽しむ場にしたいと願い、「偕楽園」を造ったという。
しかし、トレードマークの梅は重要な軍事物資(食料)であるので、単なる庭園だけという意味の場所ではない。
斉昭はこの地を東の水戸城防衛のための西の出城として使おうとしたとも言われている。

水戸城は西から東に延びる岡の東端に築かれており、北に那珂川、南に千波湖、東は湿地帯でこの3方向は自然の要害であるが、台地続きの西側が防衛上の弱点であり、これを補おうとして偕楽園を造成したとも言う。
この付近に出城を置くという発想は何も斉昭だけではなかったようであり、偕楽園のすぐ南には「見川城」がある。
この城は戦国時代の水戸城主である江戸氏が、長者山城とともに水戸城の西の防衛拠点として整備した城である。
しかし、斉昭は、現在でも完存状態にある「見川城」は何故か利用しなかった。

偕楽園の象徴、好文亭。 好文亭から見た左近桜と千波湖。絶景! 北側から見た好文亭。味のある建物である。
好文亭の表門。門の横は土塁になっている。 千波湖。西から水戸城方向を見る。
水戸城の天然の大堀であったが、
昔は今の3倍位あったという。
千波湖の仕切堤防。左が桜川。

偕楽園内の約13haに約百品種、3000本の梅が植えられている。
2月中旬から3月中旬にかけての観梅が有名であるが、四季折々の見所があり、いつ行ってもそれなりの見所がある。
雪が降った時の風景も春の桜もまた絶景である。

特に雪景色や左近桜越しに見る好文亭の風景が素晴らしい。。
その反対に好文亭から左近桜越しに見る千波湖もまた見事な風景である。

夏には深紅のキリシマツツジが、真夏には孟宗竹や杉林、秋には萩の花やモミジが見事である。
園内の手入れは行き届いており、気持ちが良い。
これで入場無料なのである。

園内にある好文亭は、「何陋庵(かろうあん)」とも言い、徳川斉昭自らが設計したもので、木造2層3階建ての好文亭本体と平屋建ての奥御殿からなる。
ここで斉昭は民とともに茶道を楽しんだというが真相は・・。
好文亭という名は、古代中国、晋の武帝の故事「文を好めば則ち梅開き、学を廃すれば則ち梅開かず」により、梅の異名を「好文木」(こうぶんぼく)といったことから、名付けられたものという。
本体は二層三階木造のこけら葺で、一階には、御座の間、控の間、東塗り縁広間、西塗り縁広間(天井は杉皮の網代張、周囲の杉の板戸には、漢詩を作るのに必要な、四声類別表--平仄(ひょうそく)--を記し、詩歌の会の便がはかられている。)対古軒(たいこけん)と茶室。
二階は小部屋が1つ、三階の楽寿楼(らくじゅろう)は、藩主の御座の間で、床柱は薩摩藩主島津斉彬から贈られた孟宗竹で、丸窓はけやきで作られている。
中に入ると質素ではあるが、格調の高さを感じる。これは素晴しい。


旧水海道小学校本館
水戸市にある茨城県歴史館の敷地内に建つ建物である。
もちろん、ここに始めから建っていた訳ではない。水海道から移築されたものである。
水海道は今は常総市。2015年、鬼怒川の堤防が決壊して大洪水になったところだ。

鬼怒川と小貝川に挟まれた田園地帯である。
ここぞ関東平野と言うような土地である。

そこにあった水海道小学校の本館として明治14年(1881)建設されたのがこの建物である。
大正10年(1921)移築され、一部改造され、さらに昭和49年(1974)茨城県歴史館敷地内に移築され、建築当時の姿に戻して公開されている。
八角形の塔屋、深い軒だしが特徴の木造二階建ての「擬洋風建築」である。

田舎とは似つかわない素晴らしい建物である。
でも、それにはそれなりの背景がある。
江戸時代から明治初期の物流の主流は水運である。鉄道はその後のことである。
人馬に比べたら水運の輸送効率は遥かに高い。
ここ水海道は地名の通り、鬼怒川と小貝川が流れる。いずれも川船が運航できる河川である。
下野方面の米などは鬼怒川、小貝川、利根川、江戸川ルートで江戸に運ばれ、その中継地がここだったという。

したがって当時は発展し、裕福な土地だったという。
それの財力(寄付金でこの建物が建てられた。)とステータスがこの建物を生み出した訳であるが、これを地元の大工が研究、設計して建てたというのだから、その技術も高いものがある。
その大工の棟梁が羽田甚蔵氏。5代後の子孫が女優の羽田美智子さんだそうである。

明治時代にはこのような建物はたくさん建てられたそうであるが、多くは解体されてしまっているという。
この建物にも幾多の危機があっただろう。今まで残されたことから地元も愛着があったに違いない。
場所は移ったといえ、この場所でその雄姿が見れるのはうれしいものである。
明治の人間の誇りと技術力を今に伝えている。壊されずによかった。

旧水戸農業高校本館
茨城県立歴史館に旧水海道小学校本館等とともに建っている建物である。
そもそもここは茨城県立水戸農業高校の跡地である。
敷地が広いのは実習用の畑や畜舎等があったためである。
しかし、現在、水戸農業高校は北の那珂市に移転している。

手狭になったのと、ここが通学の便が良くなかったことが要因であろうが、周囲の宅地化が進み、畜舎からの臭いが嫌われたこともあったのであろう。
その跡地に建ったのが、この茨城県立歴史館である。
昭和49年(1974)年に開館している。

かつての水戸農業高校があった面影はないが、1つだけ、水戸農業高校本館が保存されている。これが唯一の水戸農業高校があった証である。
明治32年(1899)に建てられ、木造平屋建、寄棟、瓦葺、平入の建物で玄関ポーチ部分は大きく前に張り出し入母屋、瓦葺の屋根。外壁は下見板張り、玄関入り口周りのみ白漆喰で仕上げられている。

ちょうど日清戦争と日露戦争の中間の時に建てられたことになる。
いかにも明治といった感じの厚い土壁の重厚な造り。どこか、同じ水戸市内にある水戸藩の藩校、弘道館の本館に似る。
管理人が卒業した小学校にもこれとそっくりの明治期の校舎があった。残念ながら壊されてしまったが。
この手の建物、以前は各地にあったのだが、現在はほとんど失われている。
今となっては貴重なものなのだが。