水戸城(水戸市三ノ丸)
 徳川御三家水戸徳川家の城。といっても同じ御三家の名古屋、紀州に比べると石垣さえない地味な城であり、しかも水戸市中心部の都市化と戦災で遺構の多くを失っている。
 主郭部は東西1200m、南北300〜500mという城域を持ちさすがに大きい。

 これに総構えが加わるので城域は現在の水戸市中心部全体を覆う大きさとなる。
 水戸城と言えば水戸黄門に代表される水戸徳川家であるが、水戸徳川家は本城の最後の城主に過ぎず、それ以前に大掾氏、江戸氏、佐竹氏が城主であった長い歴史を有する。

この地に始めて築城したのは鎌倉初期建久2年(1193)大掾吉田族の馬場資幹と言う。
 その子孫満幹は応永23年(1416)上杉禅秀の乱により所領を失い、10年後の応永33年(1425)に河和田城主江戸通房に占拠された。
 江戸氏の支配は天正18年(1590)までの165年間続いたが戦国大名として成長できず、佐竹氏の一門的な地位に留まっていた。
 最後は佐竹氏の水戸城明け渡しを拒否したため攻撃を受け滅亡した。

 佐竹氏は征服の後、常陸太田城より本拠を水戸城に移し、12年の支配の後、秋田に移った。
 佐竹氏が入る前までの水戸城は現在の本丸と下の丸程度の城域であったと言われるが、南北に天然の大水堀である那珂川と千波湖を持つ要害性と水運と常陸国の中心部にあり、陸上交通の要衝の場所でもあったため、常陸国を統一した佐竹氏に狙われたといわれる。

 現在の城は佐竹氏により整備されたものを基本としており、水戸徳川氏はそれを拡大整備した程度である。
 したがって現在の水戸城は佐竹氏が培った築城技術の集大成となっている。
城は比高30mの水戸台地の東端部を利用して築かれ、西側以外は崖である。
本城の形式も佐竹氏の城に多い連郭式であり、主郭部の4つの郭は東西に並ぶ形式である。
 構成上最も似ているのは,規模は比較にならないが、大宮の宇留野城であろう。
水戸一高内に保存されている薬医門。
佐竹氏時代の建物という。
本丸西側の土塁。 杉山門跡。下に那珂川が見える。

 佐竹氏により二郭と三郭(中世当時は「丸」とは言ってないので「郭」という語を使う。)が築かれ、郭間の堀が掘り下げられた。
 主郭は本郭ではなく二郭に設けられ、この地に政庁が置かれた。本郭には武器庫と米蔵があった。
本郭の東を守るため、一段低い場所に浄光寺郭(下の丸)が築かれた。

 二郭に主郭を置く形式は宇留野城、石神城が典型であり、多くの城に見られるが、江戸時代にはこの地に実質の天守役の三階櫓が建てられたため、この地が実質の本丸と言えるであろう。
 本郭―二郭間、二郭―三郭間を掘り切る郭間の堀はとてつもなく深い、20〜25mはある。

 全て人工で工事したとも思えず、谷津を掘り下げたものではないかと思う。
 ただし、三郭西の巨大な箱堀は明らかに人工的であり、徳川期のものであろう。

 三郭は北、中、南の3つに別れている。中心は旧県庁の地である。
 城下は主郭部の周囲に築かれるが、主郭の周囲は家臣団の屋敷があったと思われ、商人等はその外に住んでいた。
 鳥瞰図は水戸市史掲載の江戸時代の縄張り図から再現したものであり、必ずしも中世の姿とは言えないが、基本的な部分は佐竹氏が整備したものと大きくは違わないであろう。           

本丸西の橋詰門の土塁 本丸内は水戸一高の敷地であり、手前の橋詰橋下は
水郡線が通る。
二の丸西の大手門跡
手橋より二の丸(左)と三の丸間の堀底を見る。
現在、県道市毛水戸線が通る。 
中三ノ丸北側の土塁と堀。内部は弘道館
と旧県庁
中三ノ丸(旧県庁庁舎)西の箱堀
中三ノ丸西の土塁上 中三ノ丸西の土塁 中三ノ丸南西端(県立図書館西)の土塁
下の丸(現、水戸一校校庭)東端を日赤病院側から見る。 本丸(左)と二の丸間の堀切は水郡線線路となっている。
写真は堀底北側から見たもの。
本丸の北下。道路は堀跡であろうか。

江戸氏とは?
 中世末期の常陸国は佐竹氏を中心に展開されるが、佐竹氏の家臣団の中に広大な領地を持ち家臣団の中でも特別の位置を占める半独立大名が常陸中心部に蕃居していた。
 これが水戸城に本拠を置く江戸氏である。

 言わば「織田氏」にとっての「徳川氏」的存在である。
 江戸氏は藤原秀郷の子孫であり、小野崎氏と同族ということになっている。

 南北朝の騒乱で佐竹氏を窮地に追い込んだ「那珂氏」がその先祖であるが、一度は壊滅した「那珂氏」が北朝に組みし復活したのが「江戸氏」である。
 この「江戸」という姓は、那珂氏が復活後、領地を得た那珂市下江戸から来ている。

 江戸氏は南北朝の騒乱最後を飾る難台山城の戦いの戦功で、水戸付近の鯉渕、赤尾関、河和田の地を得、ここを足掛かりに水戸城を奪取した。
 その後、江戸氏は「山入の乱」で佐竹氏が衰退する隙をねらって勢力を拡大した。
 もう少しで江戸氏も独立大名となる実力を備える可能性もあった。

 その石高は10万石程度と推定され決して少なくはないが、独立大名になるには小さい中途半端な立場であった。
 しかも北には内紛を切り抜け復活した強大な佐竹氏が居り、佐竹氏抜きにはうかつには動けない立場にあった。

 逆に佐竹氏にしても江戸氏の実力は無視できず、結果として江戸氏は佐竹氏と何の縁もないが、佐竹氏の一門待遇として家臣に迎えられる。
 家臣といっても織田、徳川の関係のような同盟関係に近いものであったようであり、佐竹氏に従って対北条戦等には軍を派遣している。

 最後は佐竹氏に滅ぼされてしまうが、河和田城や寄居城等の輪郭式平城など佐竹氏系の城郭とはまた趣が異なる城郭を築いていく。
 江戸氏が本拠とした水戸城の現在の姿は佐竹氏が完成したものであり、江戸氏時代の城の姿は分からないが、現在の本郭程度の範囲が城域であったというが、発掘の結果、それは覆される。
基本的には今の水戸城、本丸、二の丸が主体であり、三の丸が城下町だったようであり、総構を持っていたと考えられる。

千波湖と那珂川は水堀を兼ねていたが、水運の要であり、河川港が存在していたと思われる。
水運を通じて、那珂川上流、下流域、さらには那珂港から太平洋沿岸の海運と接続し、涸沼川経由で涸沼方面と連絡を取っていたのであろう。

舟の輸送力は陸路に比べてはるかに大きく、江戸氏の大きな収入元は運輸業でもあったかもしれない。
そんな想定で江戸氏時代の水戸城を左のイラストにイメージしてみた。