行方市(旧北浦町)の城

木崎城(行方市内宿)
北浦に向かって東流する武田川右岸の比高25m台地上に築かれた常陸武田氏の本拠である。
武田氏といえば甲斐の武田氏が有名であるが、この常陸武田氏も甲斐武田氏の系統に属すると言われる。

この地に来た経緯は、甲斐の武田信春の子信久が上杉禅秀の乱に関係して敗れ、嫡子の成信とともに甲斐を追放され、まず、姪の嫁ぎ先である千葉氏を頼る。
その後、常陸の国に移り、当時、強力な豪族がいなかった(烟田氏がいるのだが・・)武田川沿いに定着したというものである。
ひたちなか市武田が甲斐武田氏発祥の地であるのでその子孫の一部は、おそらく知ることはなかったと思うが、偶然に一族発祥地の直ぐ近くまで戻ってきたということになる。

しかし、かつて「香取の海」と言われ広大であった現在の霞ヶ浦、北浦の北半分は大掾氏系氏族の領土であり、そう簡単に他の氏族が入ることは可能であっただろうか。

ただし、船子城の下川辺氏の例があるように例外もある。
湖内水運の関係から沿岸の各地に散って根を下ろした氏族もいたようであり、同じ水運の関係から香取の海の南側にいた武田氏が北部に移ってきたのかもしれない。
それとも婚姻関係により大掾氏の1氏族が武田氏より跡継ぎを迎え累系を変えた可能性も想定されるだろう。

それとも大掾氏の1氏族がこの地を流れる地名を採って武田を名乗り、後に甲斐武田氏に結びつけただけなのかもしれない。
(地名を姓にすることは多く見られるが、その逆に氏族の姓を地名にしたのは奥州の相馬等、例が少ない。)

ともかく、武田信春親子は、まず神明城を築いて根拠地とした。
その後、付近の豪族と協調、抗争を繰り返し、この武田川流域から鉾田町野友付近までの地域を領地とした。
木崎城を築いたのは、八代目通信であり、戦国の動乱を考慮して要害性に難がある神明城からより要害性が高い城に本拠を移す必要があったからと言われる。

確かに神明城は低地の中の岡を城としたものであり、周囲が湿地帯であったと思われ、それなりの要害性はある。
しかし、周囲の山からは城内が丸見えである。
その点、この木崎城は南から張り出した岡の末端を城としているため比高も高く、要害性は見るからに神明城よりは優れる。
おそらく、本拠移転以前から神明城の出城として存在していた可能性もある。


この武田氏、所詮は小豪族に過ぎず、天正19年(1591年)の佐竹氏による三十三館主謀殺事件で滅亡し、廃城となった。
鹿行大橋から国道354号線を約3q西に行った場所、武田川河口から2.5q上流の位置にある。
城は国道354号線北側の武田川に張り出した比較的平坦な台地にあり、城域は南北400m、東西250mほどある。 

@南側に位置する三角形をした馬出状曲輪W、土塁を持つ。 A曲輪V、W間の巨大な堀 BAの堀には土橋がある。(階段がある場所)
C曲輪Vから見た南側の土塁。この南にAの堀がある。 D曲輪V内部は広大である。 E曲輪U(右)と本郭間の土塁と堀
F曲輪U内部は竹林。居館があったのか G本郭西側の横堀 H岡西下の北西端部のここは船着き場のように見えるが?


I岡西下の台地西側に残る堀跡には水が残る。
右が城址部分。
↑北側武田川から見た城址。

←北西側の岡にあった支城の西館は土取りで湮滅してしまった。






本郭に香取神社があるので目印となるが、そこまでに行く道(参道)が分かりずらい。
今の道は車が通れる後付のものである。

 国道側から見ると1段高くなった北側以外を土塁で囲んだ馬出状の曲輪@があり、その北に大きな堀Aがある。
幅20m、深さ10mほどはあろうか。
参道が堀を横断する東側に土橋Bがあり、これが本来の大手道であったようである。

堀を越えると一面の広い畑が広がる。南の堀側に面し曲輪内から高さ3mの土塁Cがあり、土橋の東西は櫓台のように広くなっている。
この広い畑Dが三郭に相当し、約200m四方ある。
政庁的な建物があった場所であろうか?。ここの標高は25m、国道が通る部分が18mであるので一段高い。
なお、周囲の水田地帯の標高は2〜3m程度であるので比高は20m以上ある。
戦時の領民の避難場所であった可能性もある。

三郭東側に工場があり、その場所は三郭より一段低くなっているが東に50mほど張り出している。ここから東下に下る道がある。
本郭と二郭は三郭の北側、台地縁部に東西に2つ並んでいる。
両郭とも大きさは50m×60m程度である。
郭間と三郭の間には堀があるが一部は浅くなっていたり、失われている。
 三郭側以外には横堀Gと土塁Eが巡らされる。
本郭内には香取神社が建ち、古墳を転用した櫓台と思われるものが西側に2つある。
 二郭内Fは特徴的なものはない。
おそらく二郭は城主の居館があったプライベートエリアであろう。
本郭は最後の抵抗線、あるいは切腹の場所であり、かつ、氏神が祭られた神聖な場所ではなかったかと思う。

主郭部西側に標高8mの平場が広がり、ここに家臣団の屋敷等があった根小屋だったのではないかと思われる。
西側の水田地帯との間は高さ4mほどの切岸になっており、堀Hがあったようである。
また、北端部Iが抉れた形になっており、ここは舟付場ではなかったかと思われる。
同様に城のある岡の東下にも一段高い場所があり、ここにも根小屋であったと思われる。

神明城の要害性を懸念して武田氏が木崎城に本拠を移したというが、両城の立地条件は良く似ており、両城とも南側以外を天然の水堀と言うべき湿地帯で囲まれている。
確かに木崎城のある台地の方が比高が高く、塁も高く要害性は優れてはいるが、それでもそれほど堅固とも言えない。
要害性をもっと優先させるなら山城の方が望ましい。
木崎城の郭は広いことから、要害性を考慮したと言うより領土支配の政庁的性格が強いように思える。
かつて、北浦はこの付近まで入り込んでおり、「小舟津」という地名もあるように港もあったようである。
政庁としての有利さもあるが、港を持つ経済的利点も大きかったのではないだろうか。
神明城が手狭になったため移転したというのが本当であろうが、その要因は港、経済的側面があったのはないのだろうか。
木崎城、神明城の防御面での弱点を補完するための城郭が周囲の岡に造られた内宿館、西館等であろう。 

内宿館(行方市内宿)
木崎城の北西1q、武田川を挟んだ斜め対岸の北側の台地にある。
国道354号線と県道184号線の交差点の北東200mの自性寺が建つ場所である。

ここは南側の武田川の低地に張り出した標高30m、比高25mほどの尾根状台地の先端部であり、東西両側は侵食谷になっている。
南側と東側は急斜面であるが、西側の傾斜は緩い。
境内は100m四方程度の広さがあり、土塁@を巡らす。
ここが本郭である。

土塁は台地続きの北側が特に高く、南側は低い。
東に虎口があり、途中で北から回り込む横堀Cが合流する。
さらに道がジグザクになって下って行く。

その西側に4mほど低く平地Dがある。
ここが二郭である。
ここにはかつて小学校がありかなり改変されているようである。
本郭との間には堀があったように思える。


本郭と二郭の北側、台地の基部を遮断する高さ4m以上の大きな土塁または曲輪がある。
本郭北側は堀Cとなっている。
この堀が本郭の東側まで覆う。

台地に続く部分は二重堀となっているが、二重目の北側は自然の谷津を利用したもののようである。
この付近の土塁または曲輪は幅10m程度あるが、今の通路は後世のものであろう。
本来の通路である土橋が少し東側にある。
@本郭(自性寺)南側の土塁 A寺の山門であるが、なぜか駐車場に。この部分の土塁が
折れており、この部分も当時からの遺構らしい。
B曲輪Uから見た自性寺入口は坂虎口になっている。
C本郭北側の巨大堀はド藪。 D曲輪Uには小学校があった。この土塁は遺構か? E曲輪U北側、右の本郭との間には堀があったのか?

この付近が搦め手口であり、櫓台あるいは門があったように思える。
館と言うが、規模も大きく、土塁、堀も立派であり、神明城より堅固である。
城と言うべきであろう。
歴史等は不明であるが、木崎城や神明城の対岸にあるため、これらの防衛用の出城であったと思われる。

神明城 (行方市両宿)
木崎城の西2q、武田川上流側に武田氏が最初に本拠としたという神明(しんめい)城がある。
北を流れる武田川が開析した水田に南から張り出した河岸段丘を利用して築かれる。

二等辺三角形をしており、高さが南北300m、底辺が東西200m程度の規模である。
城址南側を国道354号線が分断して通る。
城の本郭部の標高は11m、周囲の水田地たちの標高が6、7mであるので比高は4、5mに過ぎない。

↑北西から見た城址。中央部が本郭。左の林が神明神社のある先端部の曲輪。

木崎城同様、岡に続く南以外の3方向は水田地帯であり、これが天然の水堀となっている。
武田川がこの岡の北側から西側を蛇行するように流れる。

城址は畑であり、城址という感じはない。
しかし、空堀跡は明確に残っている。
ただし、堀底は小竹や葦が茂った状態である。

当時はもっと深く、水堀であったと思われるが、堀底はかなり埋没した感じである。
土塁も本郭をほぼ全周していたようであるが、現在は西側に見られるのみで耕地化により失われている。
残存する土塁の高さは3mほどある。
本郭の神明神社側に櫓台がある。

基本的に3つの郭からなるが、先端部に本郭から堀を隔てて神明神社がある林がある。この部分は低い。
ここは曲輪というより氏神を祀った神聖な場であったのであろう。
この構造は木崎城が本郭に香取神社を置いていることにも似ている。ここも低い土塁がある。

一方、国道354号線の南側に高台がある。
ここは物見台であり、標高は18m、主郭部よりも約7m高い。
ここには櫓があったのではないかと思われ、南側に堀がある。

ここに防御施設がないと城内は一望の下に置かれることになってしまうので城の南側の防衛拠点であろう。
しかし、岡に続くこの方面、防御施設はこの高台程度で非常に貧弱な感じである。
(宅地化等で堀、土塁が破壊されてしまっている可能性もある。)
@曲輪U内部はヘリポートになっていた。 A本郭西側に残る土塁。 B本郭と曲輪U間の堀なのであるが・・・藪!
C本郭と神明神社間の堀 D先端部の神明神社。ここは神聖な場なのだろう。 E南端の物見台。国道354号線が堀跡を通る。

←北側から見た先端部、その手前を武田川が流れる。
(注 イラストの県道は国道の間違いです。)

小貫館(行方市小貫)
木崎城、神明城がある武田川の谷の上流部、小貫地区にある。
神明城の西約1qの場所である。
この地区にある小貫郵便局の西側の道を北側の台地上に登った場所から西側に農道が延び、その先の畑が館跡である。
この畑はけっこう広い。
鉤型をしており南北150m、東西50m程度はある。

明瞭な遺構が確認できるのは畑の南側@部分周辺であり、畑の西側に土塁Aの残痕がある。

土塁のかなりの部分は畑を広げた時に破壊されたものと思われる。

さらに西側の谷部に2重の横堀、東の谷部にも横堀が確認できる。
それらの横堀が合流した南側には腰曲輪がある。
横堀内部は竹が密集した状態である。

今の姿は非常に不自然であり、おそらく畑中央部北側に堀があったように思える。
また、東に続く農道沿いも曲輪だったように思える。
この部分は改変されているのではないかと思われる。

その南側の民家の場所も国道354号線からは一段高く居館の地のように感じられる。
この場所は北に岡がある南向きの場所であり、居住性に優れる。

館の東端は小貫郵便局西から登る道路が堀切だったのではないかと思われる。

木崎城、神明城の西を守る城館であり、常陸武田氏家臣の館であろう。
@館主郭部の畑、撮影位置付近に堀があったのでは? A畑西側に残存する土塁。この後ろに堀がある。

↓は南側、国道354号線側から見た館跡、林部分が館跡、民家の地が居館の地ではないかと思われる。