行方市(旧北浦町)の城

内宿館(行方市内宿)
木崎城の北西1q、武田川を挟んだ斜め対岸の北側の台地にある。
国道354号線と県道184号線の交差点の北東200mの自性寺が建つ場所である。

ここは南側の武田川の低地に張り出した標高30m、比高25mほどの尾根状台地の先端部であり、東西両側は侵食谷になっている。
南側と東側は急斜面であるが、西側の傾斜は緩い。
境内は100m四方程度の広さがあり、土塁@を巡らす。
ここが本郭である。

土塁は台地続きの北側が特に高く、南側は低い。
東に虎口があり、途中で北から回り込む横堀Cが合流する。
さらに道がジグザクになって下って行く。

その西側に4mほど低く平地Dがある。
ここが二郭である。
ここにはかつて小学校がありかなり改変されているようである。
本郭との間には堀があったように思える。


本郭と二郭の北側、台地の基部を遮断する高さ4m以上の大きな土塁または曲輪がある。
本郭北側は堀Cとなっている。
この堀が本郭の東側まで覆う。

台地に続く部分は二重堀となっているが、二重目の北側は自然の谷津を利用したもののようである。
この付近の土塁または曲輪は幅10m程度あるが、今の通路は後世のものであろう。
本来の通路である土橋が少し東側にある。
@本郭(自性寺)南側の土塁 A寺の山門であるが、なぜか駐車場に。この部分の土塁が
折れており、この部分も当時からの遺構らしい。
B曲輪Uから見た自性寺入口は坂虎口になっている。
C本郭北側の巨大堀はド藪。 D曲輪Uには小学校があった。この土塁は遺構か? E曲輪U北側、右の本郭との間には堀があったのか?

この付近が搦め手口であり、櫓台あるいは門があったように思える。
館と言うが、規模も大きく、土塁、堀も立派であり、神明城より堅固である。
城と言うべきであろう。
歴史等は不明であるが、木崎城や神明城の対岸にあるため、これらの防衛用の出城であったと思われる。

神明城 (行方市両宿)
木崎城の西2q、武田川上流側に武田氏が最初に本拠としたという神明(しんめい)城がある。
北を流れる武田川が開析した水田に南から張り出した河岸段丘を利用して築かれる。

二等辺三角形をしており、高さが南北300m、底辺が東西200m程度の規模である。
城址南側を国道354号線が分断して通る。
城の本郭部の標高は11m、周囲の水田地たちの標高が6、7mであるので比高は4、5mに過ぎない。

↑北西から見た城址。中央部が本郭。左の林が神明神社のある先端部の曲輪。

木崎城同様、岡に続く南以外の3方向は水田地帯であり、これが天然の水堀となっている。
武田川がこの岡の北側から西側を蛇行するように流れる。

城址は畑であり、城址という感じはない。
しかし、空堀跡は明確に残っている。
ただし、堀底は小竹や葦が茂った状態である。

当時はもっと深く、水堀であったと思われるが、堀底はかなり埋没した感じである。
土塁も本郭をほぼ全周していたようであるが、現在は西側に見られるのみで耕地化により失われている。
残存する土塁の高さは3mほどある。
本郭の神明神社側に櫓台がある。

基本的に3つの郭からなるが、先端部に本郭から堀を隔てて神明神社がある林がある。この部分は低い。
ここは曲輪というより氏神を祀った神聖な場であったのであろう。
この構造は木崎城が本郭に香取神社を置いていることにも似ている。ここも低い土塁がある。

一方、国道354号線の南側に高台がある。
ここは物見台であり、標高は18m、主郭部よりも約7m高い。
ここには櫓があったのではないかと思われ、南側に堀がある。

ここに防御施設がないと城内は一望の下に置かれることになってしまうので城の南側の防衛拠点であろう。
しかし、岡に続くこの方面、防御施設はこの高台程度で非常に貧弱な感じである。
(宅地化等で堀、土塁が破壊されてしまっている可能性もある。)
@曲輪U内部はヘリポートになっていた。 A本郭西側に残る土塁。 B本郭と曲輪U間の堀なのであるが・・・藪!
C本郭と神明神社間の堀 D先端部の神明神社。ここは神聖な場なのだろう。 E南端の物見台。国道354号線が堀跡を通る。

←北側から見た先端部、その手前を武田川が流れる。
(注 イラストの県道は国道の間違いです。)

小貫館(行方市小貫)
木崎城、神明城がある武田川の谷の上流部、小貫地区にある。
神明城の西約1qの場所である。
この地区にある小貫郵便局の西側の道を北側の台地上に登った場所から西側に農道が延び、その先の畑が館跡である。
この畑はけっこう広い。
鉤型をしており南北150m、東西50m程度はある。

明瞭な遺構が確認できるのは畑の南側@部分周辺であり、畑の西側に土塁Aの残痕がある。

土塁のかなりの部分は畑を広げた時に破壊されたものと思われる。

さらに西側の谷部に2重の横堀、東の谷部にも横堀が確認できる。
それらの横堀が合流した南側には腰曲輪がある。
横堀内部は竹が密集した状態である。

今の姿は非常に不自然であり、おそらく畑中央部北側に堀があったように思える。
また、東に続く農道沿いも曲輪だったように思える。
この部分は改変されているのではないかと思われる。

その南側の民家の場所も国道354号線からは一段高く居館の地のように感じられる。
この場所は北に岡がある南向きの場所であり、居住性に優れる。

館の東端は小貫郵便局西から登る道路が堀切だったのではないかと思われる。

木崎城、神明城の西を守る城館であり、常陸武田氏家臣の館であろう。
@館主郭部の畑、撮影位置付近に堀があったのでは? A畑西側に残存する土塁。この後ろに堀がある。

↓は南側、国道354号線側から見た館跡、林部分が館跡、民家の地が居館の地ではないかと思われる。

山田城(行方市(旧北浦町)山田字妙義山)
北浦が西側に入り込んだ山田地区の北側の標高40mほどの山にある。
場所は県道2号線と、183号線とが交差する「山田」の交差点の北東一帯の山である。

この山、南側は崖状、北東側に尾根が続く、そしてこの尾根続きの部分を遮断するように3重の見事が横堀が構築される点が見所である。

しかし、ほとんど全ては藪の中である。
ただし、幸いなことに見所の3重の横堀部分がある北側は日当たりがよくないためか、比較的藪は少ないのが救いである。
麓に北裏保育園があり、八坂神社がある。

八坂神社前の未舗装の道を東に80mほど行くと、民家間に北の山に登って行く道が見える。
その道を進めば城址である。
多分、この道@自体が登城路の1つであったと思われる。
主郭部はかつては畑であったが、すでに耕作は放棄され、藪状態となり、探索はかなり困難である。
坂をあがると畑の跡の平坦地に出るが、そこが曲輪Vである。目の前に高さ7mほどの土壇Aがある。櫓台であろう。

南側に廃墟状態の三峰神社があり、石段を登れば櫓台の上に行ける。
そこには羽黒神社の社殿が建っている。
頂上部は10m四方ほど。天守台のような場所であり、当時は天守閣に相当する井楼櫓が建っていたのであろう。
現在は木が邪魔であり、北浦は望めないが、ここからは北裏が一望の下であり、湖上水運に係る城であったことは明白である。
おそらく南の山田の南側付近に北浦水運に係る港があったのであろう。

この櫓台の北と西が曲輪U、すなわち本郭なのだが凄まじい、藪。とても入れる状態ではない。
土塁があったかどうかも分からない。
この櫓台の南側、東側が曲輪V、二郭であるが、この曲輪は本郭の東側から南側、そして西側半分を覆う。
南側は孟宗竹の林である。
そこから南斜面を見ると凄い急であり、防御上も問題はなく、帯曲輪も下には確認できない。

この曲輪Vから西側に下りる道がある。
この付近に物見があったらしい。
西に迂回すると1本目の横堀の入り口部がある。この堀Cが本郭の北側にかけて回る。
西側の入り口部は孟宗竹が密集し、枯れた竹があり歩きにくいが、北側に行くと幾分、すっきりして歩きやすい。
横堀は深さが5m、幅が7mほどある。

本郭北側から二郭の東側部分間に虎口、あるいは堀のようなものがある。
本来は堀が本郭と二郭の間に存在していた可能性もある。堀に面した曲輪V側には土塁Dが構築されている。
この横堀の本郭北側部分に虎口のような切れ目があり、そこから2本目の横堀Eが東に延びる。
深さ3m、幅5mほどの見事なものであり、風化はしていない。
1本目と2本目の横堀の間の土塁は東側になると幅が広がり、曲輪Wとなる。
東西50m、幅30mほどの広さである。
ここを三郭とする。

東端は1段低くなり、周囲をU字形に土塁Gが覆う。
2本目の横堀の三郭の北側位置に土塁の切れ目があり、3本目の横堀Fが東に延びる。
2本目と3本目の横堀間の土塁は段々となり、小曲輪となっている。
尾根続きの北東側からの侵入に対する崩御用のものであろう。

この城の横堀の総延長は300m程度はあると思われる。
しかも3重にも巡らせており、技巧的かつかなりの工事量を投入した城である。
城主は名前のとおり、山田氏の城である。
上の写真は南の北浦湖畔から見た城址の山である。
右の写真は登城路の途中から見た北浦である。ここに港があったのだろう。

「重要遺跡報告書U」では、山田氏について「山田城に関する確かな資料はない。
軍記物で疑義は残るところであるが、『行方軍記後世鑑』には、「天慶3年(940)伊予の藤原純友は六孫王源経基に討滅ぼされたが、武州埼玉郡の山田美濃守はその子孫で、長元元年(1028)源義家の軍に参じ武功を樹てた。寛治元年(1087)再び養家に従がい清原武衝、家衛を滅ぼした。
行方郡山田郷を領したのは、山田太郎幹国である。その後胤が山田八郎で山田館主と成った。(以上要略)」と記述されている。
さて、『茨城県史料・中世編』の『行方郡鳥名本文書No31』「土岐景秀書状」によれば、土岐氏、鳥名木氏、山田氏の関係がわかる。
下って、「天正14年(1591)9月、石岡の大掾清幹は玉造、武田の両城を功め、進んで現鉾田町の高田塁を攻めたとあるが、山田城の動揺も充分推察出来る。

続いて、天正19年(1591)佐竹氏は南部33館を攻略し、余勢が札、島並、八甲、芹沢、山田の諸堡を解散す」で滅亡した。」と記されている。

どこまで本当か分からないが、平安時代のことは眉唾である。
古くからこの地にいた土豪であり、佐竹氏による33館攻略で滅亡し、廃城になったことだけが確かな歴史である。


航空写真は国土地理院が昭和49年に撮影したものを利用。
余湖くんのHPを参考。



@城への登り道、当時からの登城路であろう。 曲輪Vから見た曲輪Tの土壇
B曲輪V南側は孟宗竹が密集している。 C西側から1本目の横堀が東に延びる。 D1本目の堀の東端を曲輪Vの土塁から見る。
E2本目の堀、東端部。 F2本目の堀の途中から3本目の堀が延びる。 H曲輪W東端の土塁に囲まれた部分。


木崎城(旧北浦町両宿)

北浦に向かって東流する武田川右岸の比高25m台地上に築かれた常陸武田氏の本拠である。
 武田氏といえば甲斐の武田氏が有名であるが、この常陸武田氏も甲斐武田氏の系統に属する。
 この地に来た経緯は、甲斐の武田信春の子信久が上杉禅秀の乱に関係して敗れ、嫡子の成信とともに甲斐を追放され、まず、姪の嫁ぎ先である千葉氏を頼り、その後、常陸の国に移り、当時、強力な豪族がいなかった武田川沿いに定着したというものである。
 ひたちなか市武田が甲斐武田氏発祥の地であるのでその子孫の一部は、おそらく知ることはなかったと思うが、偶然に一族発祥の地の直ぐ近くまで戻ってきたということになる。
 武田信春親子は、まず神明城を築いて根拠地とした。その後、付近の豪族と協調、抗争を繰り返し、今の北浦町から鉾田町野友付近までの地域を領地とした。
木崎城を築いたのは、八代目通信であり、戦国の動乱を考慮して要害性に難がある神明城からより要害性が高い城に本拠を移す必要があったからである。
もしかしたらそれ以前から神明城の出城として存在していた可能性もある。
 武田氏も所詮は小豪族に過ぎず、天正19年(1591年)の佐竹氏による三十三館主謀殺事件で滅亡し、廃城となった。
 玉造町から国道354号線を北浦方面に進み、武田川に沿い、北浦町役場を過ぎ、神明城跡をとおり、後2kmで北浦に出る位置にある。
 鹿行大橋までは3qの位置にある。
 城は国道354号線北側の武田川に張り出した比較的平坦な台地にあり、城域は南北400m、東西250mほどある。 

本郭に香取神社があるので目印となるが、そこまでに行く道(参道)が分かりずらい。
この道は後付である。
 国道から見ると1段高くなった曲輪があり、その北に大きな堀がある。
幅20m、深さ10mほどはあろうか。
 参道が堀を横断する東側に土橋があり、これが本来の大手道であったようである。
 堀の南側に一辺50mの三角形をしたテラス状の馬出郭があり、北側以外が土塁で囲まれる。
 堀を越えると一面の広い畑が広がる。南の堀側には高さ3mの土塁があり、土橋の東西は櫓台のように広くなっている。
 この広い畑が三郭に相当し、200m四方ある。政庁的な建物があった場所であろうか?。
武田氏の領土はせいぜい1,2万石程度であったと思われる。
その割にはこの城は広く、特に三郭とその東の曲輪は広い。
どちらかというと三郭は戦時の領民の避難場所ではなかっただろうか?
 東側に工場があり、その場所は三郭より一段低くなっているが東に50mほど張り出している。
本郭と二郭は三郭の北側、台地縁部に東西に2つ並んでいる。

 両郭とも大きさは50m×60m程度である。郭間と三郭の間には堀があるが一部は浅くなっていたり、失われている。
 三郭側以外には横堀と土塁が巡らされる。本郭内には香取神社が建ち、古墳を転用した櫓台と思われるものが西側に2つある。
 二郭内は特徴的なものはない。おそらく二郭は城主の居館があったプライベートエリアであり、本郭は最後の抵抗線、あるいは切腹の場所であり、かつ、氏神が祭られた神聖な場所ではなかったかと思う。

本郭と二郭(右)間の堀と二郭側の土塁 本郭の西側にある櫓台。 本郭南側の土塁。
広い三郭から本郭を見る。 三郭南にある巨大な土塁。 神明城から見た木崎城。

神明城の要害性を懸念して武田氏が木崎城に本拠を移したというが、両城の立地条件は良く似ており、両城とも南側以外を天然の水堀と言うべき湿地帯で囲まれている。
 確かに木崎城のある台地の方が比高が高く、塁も高く要害性は優れてはいるが、それでもそれほど堅固とも言えない。
 要害性をもっと優先させるなら山城の方が望ましい。
 木崎城の郭は広いことから、要害性を考慮したと言うより領土支配の政庁的性格が強いように思える。
 神明城が手狭になったため移転したというのが本当ではないのだろうか。 

小幡城 (旧北浦町小幡)
 この城も場所が分かりにくい。ともかく観音寺と要小学校を目指せば正解である。
 しかし、小幡城というが、茨城町の小幡城と間違うと大変である。
 あちらの小幡城に比べたらこちらの小幡城は、ほとんど城郭遺構が失われてしまっている。
 県道134号線と184号線の交差点から県道184号線を南に進むと細道となり、坂を上がる。
 この途中も城らしいあやしい雰囲気がある。
 坂を登りきった比高15mの台地上にある観音寺や要小学校が城址の中心部である。
 台地先端にある小学校が本郭であったと思われ、観音寺との間には高さ3mほどの土塁がある。おそらくは堀もあったと思われる。
 小学校の北側にも遺構があるような気がするが、さすがに平日でもあり徘徊はできない。
 カメラを持った男1人がうろついていたら間違いなくパトカーが来る。
 観音寺境内には東側に土塁が残り、その東側は切岸になっている。
 南側に土壇の上に建つ鐘衝堂があるが、これは櫓台であろう。
 寺の西側は曖昧な感じで城郭という感じはない。土塁があったのであろうか?
 南側がどこまでかは分からないが山門あたりで、その前の道が堀跡であろうか?
  歴史等も分からないが、地理的に山田氏か武田氏のいずれかに属する城であったと思う。

観音寺の鐘衝堂。櫓台上に建つ。 観音寺東側に残る土塁。 要小学校側に残る土塁。