河和田城(水戸市河和田)

 水戸市の市街地の南西部、赤塚駅の南1.5kmの場所にある。戦国時代の常陸国北部には比較的少ない典型的な平城である。
 城は複雑に微高地が入り組んだ小河川が流れる地にあり、小河川が造る水田地帯、湿地帯を天然の防御に利用している。

 城の形式は輪郭式であり、本郭を中心にその周囲に同心円状に郭と土塁、堀を巡らせている。
 類似の形式には同じ江戸氏系の城郭である寄居城があるが、本城の規模ははるかに大きい。

 特に本郭の北側は外郭までに4重の土塁が存在し、外郭部にも一部土塁が残存する。
 城の規模は南北600m、東西500mの大きさを有し、戦国時代の平城としては規模が大きい。

 現在は市街地化が進み、遺構は失われつつあるが、天徳寺周辺、報仏寺周辺、八坂神社周辺、河和田小学校周辺に土塁、堀が残っており、城の規模と往時の姿を想像するには問題はない。
 築城時期には諸説があるが、延元元年(1336)常陸大掾氏の家臣 河和田入道鍛弾正定国がこの地を治める拠点に築城し、その後、上杉禅秀の乱による功績でこの地を得た江戸氏にとって替わられたと言われる。

 本城に入城した江戸氏はこの城から水戸城をねらい、江戸通房の時、応永33年(1426)常陸大掾氏より念願の江戸城を奪取して水戸城に本拠を移し、本城は重臣の春秋氏の城として、水戸城の南方方向の守りと領土支配の拠点の役目を担った。
 これらの経緯から江戸氏は長年、府中石岡の常陸大掾氏と敵対関係となり、これと対抗するため、佐竹氏と同盟関係を結び、佐竹一門の待遇を得て、佐竹氏の幕下で常陸大掾氏と抗争を展開した。
 しかし、天正18年(1590)水戸城をねらう佐竹氏に江戸氏は滅ぼされ、その時、河和田城も落城し、廃城となったと言われる。
都合、城が機能していた時間は250年ほどである。

築城当時の本城は本郭部分のみの館程度の規模であったと思われるが、春秋氏の下で除々に拡張整備されていったと考えられる。
 現在残されている遺構は戦国末期の姿である。

 本郭の東には現在、水田となっている低地があり、築城当時は湿地帯として天然の堀となっていたものと思われる。
 城は台地につながり遮蔽物のない北側、西側に土塁、堀を増築して防御性を高めるとともに、本郭の東側の低地を挟んで対岸にある微高地上にも本郭の防御性を高めるため、郭が築かれた。

 これが現在、報仏寺に残る遺構であり、土塁、堀はかなりの規模である。
 水が豊富な地に築城されているため、堀のほとんどは水を湛えた水堀であり、平城とは言え防御性は高かったものと思われる。
 城の大手口については八坂神社方面と報仏寺方面の2説ある。

 このように大規模に堀、土塁を巡らした城であっても、僅か1日で落城するという結果となっている。
 これは城の防御性の問題ではなく、前日の水戸城攻防戦で大勢が決し、守備する兵も逃亡し、篭城することもできない状態で自落を迎えたものと思われる。
同じ日に当時の常陸国ナンバー1の堅固性を誇る江戸氏が支配していた小幡城も自落状態に陥っている。

 上の鳥瞰図は最終期の姿を想像したものであり、本郭を中心に北側、西側に同心円状に郭、土塁、堀が巡り、低地を隔てた南側、東側に郭が配置される。       

報仏寺南の堀と土塁 報仏寺東の櫓台跡。大手門の場所と言われる。 報仏寺山門前の堀跡
報仏寺北の低地から天徳寺方向を見る。 河和田小学校東に残る本郭の土塁 河和田小学校南に残る水堀
天徳寺北の土塁 天徳寺北の道路を挟んで反対側の土塁 天徳寺東の低地東の土塁
天徳寺東の低地東の土塁 八坂神社裏の土塁 八坂神社東より報仏寺(右の林)方向を見る。

吉田城(水戸市元吉田町) 

水戸駅の南約2kmの旧千波湖を望む3方を池あるいは湿地帯に囲まれた半島状台地突端部にある連郭式の平山城。
 規模としては比較的大きく要害性も良好である。常照寺の地が本郭に当たる。

市街地がすぐ南の低地まで迫ってはいるが,城址のある台地上は寺院の敷地となり、一部は墓地になって破壊されてはいるが、鬱蒼とした森林に保護され、かなりの遺構が残っている。

 しかし、城郭遺構が良好に残っている割には、この地に城郭があったことは市民にも余り知られていない。
 千波湖を挟んで対岸には水戸城があり、水戸城の南を守る役割を負った城郭という機能を負っていたと考えられる。

平安時代に大掾盛幹が吉田氏を称して築城したと言われる。
しかし、水戸城が江戸氏に奪われると、吉田城からも大掾氏の勢力は駆逐され、水戸城の出城となった。
さらに江戸氏が佐竹氏に滅ぼされると佐竹氏の重臣 車丹波の居城となったが、佐竹氏の秋田移封により廃城となった。

城は旧千波湖の低地に鍵状に延びる台地に築かれ、北は旧千波湖の低地に面し、東には常照寺池、西には中ノ沢池がある谷に面する。
城郭遺構は墓地となっているため、一部失われているが、本郭にあたる常照寺境内の東側と西側に堀と一部土塁が良く残っている。
 本郭の東には郭が2つ、南に1郭が、西には郭Xが存在する。
郭Xとは本郭は土橋で結ばれていたようである。

本郭の北と南は低地であり、帯曲輪が存在していた。
 本郭の東側の郭Vが大手と考えられるが、ここには明確な土塁等は見られない。
また、本郭の西側の郭Xのある台地も結構広いが、土塁等は存在していなかったようである。
家臣などの屋敷があったのではないかと思われる。

 郭Xの南は台地につながるが、南の城外に当たる蓮乗寺の地との間には自然地形を利用したと考えられる大堀と人工的な掘切がある。
 鳥瞰図は水戸市史掲載の縄張図と現地調査に基づき描いた。

南東側常照寺池から見た城址。 常照寺の山門。大手口の跡。 大手口南側の腰曲輪と切岸。
本郭南東の堀  本郭 北東の堀と土塁 本郭 西側の堀