田伏城(かすみがうら市田伏)
霞ヶ浦大橋を渡った霞ヶ浦西岸、かすみがうら市田伏の實傳寺@の西側の山が城址という。
しかし、この山の南東に延びる尾根が墓地となり、この部分の遺構は失われている。

最北端部に本郭Aと推定される場所が残存している。
墓地の最上部から3mほど高い切岸Bとなり、墓地側が若干窪んでいる。
ここに堀があったらしく岡末端部に竪堀の残痕らしいものがある。
内部は藪。困ったことにタラの木まで生えている。
北側は崩壊しておりオーバーハング状になっており、覗き込んだら恐怖感が湧く。
約30m四方の広さがあり、標高は23m、霞ヶ浦の眺望が抜群である。↓

城址から見た霞ヶ浦の南方方向、霞ヶ浦大橋が見える。


@東下の實傳寺は居館跡だろうか?
左の岡が主郭部に当たる。

湖内監視の城であることがよく分る。
墓地になった部分の旧状は分らないが、おそらく曲輪が階段状に展開していたのではないかと思われる。
先端部の社が建つ付近Cは改変を受けていないようであるが、城郭遺構は見られない。

A本郭は残存しているが内部は藪状態。 B右が本郭部、左下は堀跡という。 C丘先端部の社付近は旧状のままのようだが、
城郭遺構のようなものは確認できない。

「新編常陸国誌」は小田氏家臣田伏氏の城であり、佐竹氏に落とされたとしている。
おそらく天正元年(1573)、小田氏方の戸崎城が落とされ、田伏城のある出島半島が佐竹氏に制圧された時であろう。
墓地には田伏氏の墓もあり、この時、田伏氏は滅亡したのではなく続いており、佐竹氏に従い、さらに佐竹氏が去った後、この地で帰農したようである。


堀ノ内館(かすみがうら市田伏)
田伏農村集落センター付近の字名が「堀ノ内」、これは城郭地名である。
したがって、この付近に城館が存在していたと思われる。
でも、それらしい場所を探してみるが、どうもはっきりしない。

その候補地が田伏農村集落センターである。
ここは昭和53年に廃校になった田伏小学校の跡地である。

元々の地形をかなり改変して平坦化し校庭や校舎を建てる場所を確保しているため、建設過程で遺構が失われている可能性がある。

しかし、東側の切岸の急勾配、南西側の堀底を利用したような切通しの道路、どことなく城郭っぽい感じがするのである。
ともかく周辺を探索してみる。

東側の霞ヶ浦が見渡せる岡の先端部に行くと祠のある土壇がある。
この土壇、堀ノ内古墳@というが、現在は木があって霞ヶ浦が見えにくいが、標高が21m。

湖内監視には適した場所であり、物見としても使っていた可能性もある。
なお、少し西側、集落センター側に堀切のような跡があるが遺構であるか確証はない。

一方、集落センターAの南西側、堀切のような切通しBの反対側に土壇が見える。
桜山古墳Cであるが櫓台のようである。

この古墳のある岡の周囲は切岸が鋭く、古墳の東側は平場もある。
古墳のある岡全体が城館としても使えそうな地形である。
@東端の堀ノ内古墳は物見台か? A主郭部と推定される集落センターの地
B小学校南側の道は堀跡だろうか? C南端の桜山古墳も物見台か?

(余湖くんのホームページを参考にした。)

宍倉城(かすみがうら市宍倉)
かすみがうら市の北部、霞ヶ浦の高浜の入り江を北に見る宍倉の丘陵部にある。
 この付近は霞ヶ浦に流れ込む河川の浸食で複雑な形で丘陵が形成されている。
城はその丘陵に築かれ、主郭がある部分は東方向のみが台地につながり、残り3方は周囲が低地となる半島状部分にある。
標高は25m、低地からの比高は15mほどである。

城のある宍倉地区は国道118号線が通るが、地区内で大きく北側に半円を描いて回りこむ形となり非常に走りにくい。
実はこの地区全体が城下町の範囲であったと言われ、ここも付近の戸崎、三村城同様、城砦集落を形成していたと言う。
その証拠に主郭部から離れた場所にも土塁と思われる遺構が点在する。

城は最東端の天王町地区から台地でつながるが、その北側が新宿、西側を馬場と言う。
馬場は城の主郭部から谷津をはさんで反対側になるが、馬場という地名から城の外郭がここにあったと思われる。
ここには「オオデ」という地名があり、これは大手がなまったものと言われている。
城主郭部西側低地部は根小屋という字名であるが、ここに城主の居館があったと思われ、当時は西側の馬場から入る道が大手道であったのであろう。
天王町地区から入る道は搦手であったという。

主郭部へは天王町地区を通る国道118号沿いに案内標識があるのでそこを西に入る。
この道はそのまま本郭に入る道であり、途中で狭くなるため、車では決して入ってはならない。
歩く以外にない。ここを入ると70mほどで大きな堀切に出る。

そこまで行く途中に堀が民家の中に見られる。
この堀切は幅20m、深さ7mほどの巨大なものであり、天王町側の平坦地との続き部分と分断している。一度、堀底に降りて本郭に入る。
この部分は土橋状になっている。
堀底で北側に下りていく道が分岐するが、この道が大手道であり、ここを降りると二郭や根小屋に行ける。

本郭は「まさかり」の刃の形をしており、最大幅は100m近くあり、結構広い。
内部は平坦で畑となっている。
土塁は(現在は)見られない。
かつて存在していたかは不明である。

 本郭の南下を見ると古墳のような小山があり、周囲はえぐられている。
これも郭であったと思われる。
 しかし、何を目的にこのように加工したのかは良くわからない。
その周囲は段々状に菱木川が流れる南の低地に向かって下がっており、曲輪であったと思われる。

本郭の最西端に城の内稲荷があり、その西側に堀を隔てて二郭がある。
この堀は本郭の北側から西側をとおり古墳状の小山のある曲輪に半円を描いて抜ける横堀である。
本郭から堀底までは10m近い深さがあり、幅は15mほどである。

二郭はこの横堀の外側に三日月状に存在するが、内部はすごい藪であり、入れない。
根小屋はさらにその下側である。(城主の居館が城下町に当たる新宿地区等より低い場所にあるのはどうも納得が行かない点である。
確かに風を防ぐには絶好の場所ではあるが。)谷津を隔てて西側に某泰寺があるが、ここも曲輪の一つであったと思われる。

本郭東の堀と土橋 本郭内部は一面の畑 本郭南下にある古墳状の郭
本郭西端に建つ城の内稲荷 稲荷から見た二郭と堀 本郭の東、天王町地区にある堀

宍倉城は、永享年間(1429〜1440)野田遠江守が築城したという。
その後、信太氏一族で、小田氏の有力家臣であった菅谷氏が野田氏に代わり城主となった。
記録によると文亀年間(1501〜1503)には菅谷隠岐守貞次が城主であった。

 天文14〜15年(1545〜1546)の上杉氏対北条氏の河越夜戦では、菅谷氏は上杉方に小田政治の陣代として参陣し、「代官菅谷隠岐守」の名が資料に残る。これ以後、小田氏の勢力は佐竹氏の圧力で徐々に衰え、天正元年(1573)にはついに佐竹氏に降伏し、その傘下に入った。
文禄の役に朝鮮に渡った佐竹氏の武将の中に菅谷隠岐守憲景の名が見える。
文禄4年(1595)には佐竹氏の家臣山田刑部が城主として移り住んだ。
慶長7(1602)年、佐竹氏が秋田へ国替えになったとき菅谷氏も秋田へ移り廃城となった。
(注 鳥瞰図はかなり以前に描いたものですので旧名の「霞ヶ浦町」になっています。)