戸崎城(かすみがうら市戸崎)
土浦に行った2020年3月21日の帰り、2004年6月以来16年ぶりに立ち寄った。
今回は出城部を確認するのが目的である。

戸崎城は霞ヶ浦を南に望む土浦側から北に延びる半島状台地の先端部にある。
台地の標高は約24mであり、霞ヶ浦に流れ込む沢により谷津が発達し、複雑に谷津が入り組んでおり、その地形を上手く利用し築城している。

北側には川尻川の低地があり、西側には谷津があり台地を遮断し、北端の主郭部はほぼ独立した状態となっている。

本郭が北端に位置し、堀を介して南側に二郭、さらに堀を介し、南側にのびる台地の続きに三郭や根小屋、宿を展開させている。

根小屋地区内部にも堀で区画しているようであるが、東に下る道がいくつか見られるがその残痕であるらしい。

本郭の南東側直線距離で約600m、宿地区東端の尾根状台地先端部に山崎出城が位置し、城域は南北約1q、東西約800mの広範囲に及ぶ。
ここも宍倉城や三村城同様の城砦集落である。
周囲に出城があるので総構を持つ城と言える。
@北から見た蓮田に浮かぶ本郭(2004.10撮影) A本郭内部は広い畑 B本郭と二郭(右)間の横堀
C二郭内部も畑。写真の先に本郭がある。 D二郭(左)と三郭間の堀 E二郭(手前)と三郭間の土橋から見た三郭内の城下町

残念ながら城下の部分は宅地化しておりほとんど遺構は失われている。
しかし、根小屋地区Eの中を通る道路、久々に通ったが狭く、曲がりくねっており車では通りにくい。
対向車がきたら民家の庭を借りてすれ違うしかない。
前回はこの道を日産ホーミーで走ったっけ!

しかし、本郭、二郭部分はまだ宅地化が及んでいなく、畑となっているので遺構は良く残っている。
16年前と全く変わっていなかった。
本郭部は標高30m、比高20m程度あり、前回、訪れた時、周囲は一面のレンコン畑であり、まるで海に突き出た半島のような見事な風景@であった。
当然、当時も似たような景観であり、レンコン畑がそのまま水堀の役目を果たしていたのであろう。

本郭A内部は畑であり土塁は見られない。
本郭は約100m、幅約30mの楕円形をしており、標高は24.2m、低地からの比高は約16m。
周囲は帯曲輪が一周しており、二郭側との間には幅約15mの堀Bが築かれている。
二郭Cは100m四方くらいの広さか?形は不整形である。
二郭と三郭間東側にも堀Dが見られる。
西側は道路になっている。

応仁の乱(1467〜1477)の頃、小田氏の家臣戸崎大膳亮が城主という記録がある。
当然、築城はそれ以前と思われるが、はっきりした記録は確認できない。
いずれにせよ小田氏系の城郭として築かれ、この出島半島南部方面の支配拠点であったことは間違いないと思われる。
霞ヶ浦が望める台地上にあるため、霞ヶ浦の水運を管理・監視することが目的の城と想像するが、どうも違うようである。
その場合は霞ヶ浦側に本郭を置くはずである。

しかし、実際、本郭の位置が霞ヶ浦に面しておらず、北側にある。
これは、想定する敵の方向が築城時は石岡の大掾氏だったことの反映ではなかろうか?

戦国時代になると小田氏は佐竹氏と対立関係となり、抗争を繰り返すが、両氏のパワーバランスは徐々に崩れ、佐竹氏の勢力が小田氏を圧倒し、小田氏の勢力は減退の一途をたどるようになる。
小田氏15代氏治の時代になると、本拠、小田城が奪われ、小田氏はそれまで対立していた江戸崎の土岐原氏と提携する。
その背後には北条氏の存在がある。
霞ヶ浦(当時はもっと広く、香取の海とも言った。)が両者の勢力の境界であった。

小田氏が土岐原氏と提携すると出島半島が北条氏の勢力範囲となる。
このため、佐竹氏が戸崎城を攻略し、出島半島を勢力下に置こうとすることを考えたようであり、戸崎城が攻撃を受ける。そして天正元年(1573)についに戸崎城は佐竹氏の手に落ちる。
その後、小田氏が奪回を試みるが、佐竹氏の支配は覆すことはできなかった。

本郭から西側の谷津を挟んだ西側に松学寺があり、土塁と堀が存在するが、これは佐竹氏の城代が小田氏による奪還のための攻撃を防御するために築いたものでないかと思う。
結局、佐竹氏は霞ヶ浦の南岸まで侵攻しなく、戸崎城の占領は霞ヶ浦南岸の木原城等に対する牽制であろう。
逆に木原城が巨大化した理由や阿見台地に多くの街道閉塞土塁が存在する理由も戸崎城の存在によるものであろう。

史実としてこの地では佐竹氏と北条氏との抗争は小田原の役が起こるまではなかった。
衝突した場合、お互い大きな損害が生じることを恐れたことと、霞ヶ浦周辺の土豪が佐竹方(鹿行の鹿島系一族含む。)と北条方に分かれるが、湖内水運を通じて、経済的な相互依存や婚姻関係があり、それらの破壊による混乱を暗黙の了解のうえで避けたのであろう。
文禄4年(1595)佐竹氏の家臣飯塚兵部少輔が城主となったが、慶長7年(1602)佐竹氏の秋田移封により廃城になった。

山崎出城
宿地区東端部が北に湾曲し、その先端部に位置する。戸崎城本郭からは直線距離で約600mの位置にある。
戸崎城を攻略する場合、南に迂回して背後から攻撃することが想定される。
それを考慮し、宿地区の東端に築かれたのであろう。
築いたのが小田系戸崎氏か佐竹氏城代飯塚氏かは分からない。

その場所に入ったのであるが、2010年頃までは管理されていたようであり、藪もなくすっきりしていた。
(かなり以前は小屋(豚小屋?)があったと地元の人が言っていた。)しかし、それ以降、無管理状態になり、藪と倒木で歩くことも困難な状態であった。
堀や土塁は目視では確認できるのであるが、写真を撮るとさっぱり分からない。
このため、この出城については、写真は掲載できない。
約60m四方の方形の曲輪があり、堀を隔てて北西側にも曲輪が存在する。

↑戸崎城主郭部から見た山崎出城(右から突き出た丘)2004年6月撮影

八坂出城
宿地区西側にある八坂神社付近が出城である。西側に「霞ヶ浦環境科学センター」がある。
戸崎地区は周囲からほぼ独立した感じであるが、ここ南西端部は西側の台地とつながる。その台地と遮断するのがこの出城である。
総構えの西の入口、木戸というべきであろう。
それとともにここは標高が24.8mあり、南が崖、神社からは霞ヶ浦一体が眺められる。
霞ヶ浦の監視所でもあったと思われる。

↑八坂出城から見た南の霞ヶ浦、対岸が木原城。
F八坂神社(左)西側の堀 G神社側丘縁に残る土塁 HGの反対側の畑に残るこれは土塁か?

この出城は想定する敵が霞ヶ浦南岸方面及び西側の土浦方面に変わったため、佐竹氏の城代飯塚氏が整備した可能性がある。
八坂神社西側に幅約7mの堀があり、土橋がある。
神社側に土塁がある。
堀と土塁は北に延び土塁が市道北にも延びる。
一方、堀西側の畑の南にも土塁が見られ、馬出があった可能性もある。

松学寺出城
本郭の西側、谷津を挟み松学寺がある。この寺の西側から南側をU字方に丘が覆う。
窪地に寺がある感じである。
この丘の上部に横堀が存在する。

本郭部の西を守る防塁である。
当然、想定の敵は西側である。
前述したように佐竹氏奪取後の小田氏による奪還を考慮して、城代の飯塚氏が増築した遺構ではないだろうか?

J松学寺西の山に弧状に存在する横堀と土塁

中根長者屋敷(かすみがうら市上土田)

常磐自動車道石岡ICを下り、国道6号に合流し、土浦方面に向かう1つ目の信号の西側、水田を挟んだ岡に住西寺の参道の石段が見える。
この住西寺の場所が中根長者屋敷跡である。
寺の建つ岡は東側の水田からの比高が15m、西側から張り出した台地の先端南側である。
寺の境内がほぼ城館に相当する。広さは東西80m、南北40mほどである。
長者屋敷という名前であるが、これは誰が館主であったか分からないことでありこう呼ばれているものであろう。
おそらくは位置的関係から大掾氏の家臣関係者の館ではないかと思われる。
境内は墓地造成で形は変わっているが、東側以外に横堀がまわっている。
堀の幅は5m、深さは1.5mほどに過ぎないが、かなり埋没している。
外部側には土塁があり、郭側にも本来は土塁があったようである。西側に虎口がある。北側に土橋のようなものがある。
石段の参道の途中にも小さい曲輪がある。北側は民家になり、堀は失われている。
この民家と梨畑のある地は寺側より若干地勢が低いが、ここが二郭に相当する場所であった可能性がある。

下の水田地帯との勾配は急であるが西側は緩斜面である。西側に堀、土塁が回っていた可能性もあるが、畑となっており遺構は見られない。
民家と寺の間の東側斜面は竪堀状になっており、寺の周囲を回る堀はここで竪堀になっていたようである。
あるいは、ここが登城路であったのかもしれない。
予想外に遺構が残っているので驚いたが、墓地が拡張されたら、堀は埋められてしまう心配がある。

東側から見た城址。斜面は結構急である。 南側の堀跡。幅4m程度。右側が主郭側。 北西側の堀。先に土橋がある。

笠松城(かすみがうら市中佐谷)
この城に行くには七会小学校を目指すのが良い。小学校の北東側は天の川の低地であり、その対岸の岡が城址である。
この岡の東側はまた低地となり、東側に「第2常陸野公園」がある。
岡は比高10mの半島状であり、先端部が城址である。
岡の下に町指定史跡と書いた解説板と城址碑があるが、板の前の道を上がっていくと何と民家である。かなり立派な民家である。
これではどうにもならない。遺構は北側に土塁があるだけと解説板に書いてあった。
正元元年(1259)、大掾氏一族で、石岡城主馬場資幹の孫佐谷次郎左衛門尉実幹によって築かれたという。
城というより館程度の規模である。
佐谷氏は2代で滅び、一時、廃城となったが、慶長7年(1602)には志築藩主本堂氏の陣屋となり、40年間使用されたという。
いずれにしても居館程度のものであり、戦闘を意識した城ではない。
せいぜい土塁程度があっただけで堀などの厳重な防御施設はなかったのかもしれない。

岡南下にある城址の看板。先に見える林が主郭部 東側の低地越しに見た主郭部。

安喰館(かすみがうら市安食)

霞ヶ浦を北に見る出島半島の安食地区にある大宮神社付近が館跡である。
西1.5kmが宍倉城である。
この地は北に霞ヶ浦、南が菱木川の低地に挟まれた東西に長い比高20mほどの岡である。
肝心の遺構であるが、大宮神社付近に土塁や堀の残痕らしきものが見られる程度である。
他にも民家内に土塁が残存するという。
館主等は分からないが、宍倉城がすぐ近くであるので、宍倉城主の家臣の館かもしれない。
館跡という大宮神社 神社境内に残る土塁