戸崎城(かすみがうら市戸崎)
霞ヶ浦を南に望む土浦側から東に延びる半島状台地の先端部にある。
北側には川尻川の低地があり、西側には台地をさらに細かく刻む谷津があり、本郭部が独立した状態となっている。
本郭はこの台地の北側に位置し、南側にのびる台地の続きに二郭や城下町を展開させている。
本郭の東側の低地に延びる尾根状台地にも出城があったと思われ、これらを合わせて考えると城域は南北1q、東西800m程度の広範囲に及ぶ。

ここも宍倉城や三村城同様の城砦集落である。
残念ながら城下の部分は宅地化しておりほとんど遺構は失われている。
 しかし、本郭、二郭部分はまだ宅地化が及んでいなく、畑として遺構は良く残っている。
本郭部は標高30m、比高20m程度あり、訪れた時、周囲は一面のレンコン畑であり、まるで海に突き出た半島のような見事な風景であった。
本郭内部は畑であり土塁は見られない。本郭の周囲は帯曲輪が一周しており、二郭側とは堀が築かれている。二郭と三郭間にも堀が見られる。
 当然、当時も似たような景観であり、レンコン畑がそのまま水堀の役目を果たしていたのであろう。
応仁の乱(1467〜1477)の頃、小田氏の家臣戸崎大膳亮が城主という記録があるが、築城はそれ以前と思われるが、はっきりした記録は確認できない。
いずれにせよ小田氏系の城郭として築かれ、この方面の拠点であったことは間違いないと思われる。

 しかし、常陸の北と南に君臨する小田氏と佐竹氏のパワーバランスは戦国時代に入ると徐々に崩れ、佐竹氏の勢力が増し、それに対して小田氏の勢力は減退の一途をたどった。
 小田氏15代氏治の時代になると、佐竹氏に圧迫は強くなり天正元年(1573)についに戸崎城も佐竹氏の手に落ちる。
その後、小田氏による奪回も試みられるが、佐竹氏の支配は覆すことはできず、文禄四年(1595)佐竹氏の家臣飯塚兵部少輔が城主となったが、慶長7年(1602)佐竹氏の秋田移封により廃城になった。
本郭入口 本郭を取り巻く帯曲輪 北側からみた本郭部。蓮田の中に浮か
ぶ島のようである。
本郭と天神郭間の堀 二郭と中城間の堀 外城のあった前原の集落

(注 鳥瞰図はかなり以前に描いたものですので旧名の「霞ヶ浦町」になっています。)

中根長者屋敷(かすみがうら市上土田)

常磐自動車道石岡ICを下り、国道6号に合流し、土浦方面に向かう1つ目の信号の西側、水田を挟んだ岡に住西寺の参道の石段が見える。
この住西寺の場所が中根長者屋敷跡である。
寺の建つ岡は東側の水田からの比高が15m、西側から張り出した台地の先端南側である。
寺の境内がほぼ城館に相当する。広さは東西80m、南北40mほどである。
長者屋敷という名前であるが、これは誰が館主であったか分からないことでありこう呼ばれているものであろう。
おそらくは位置的関係から大掾氏の家臣関係者の館ではないかと思われる。
境内は墓地造成で形は変わっているが、東側以外に横堀がまわっている。
堀の幅は5m、深さは1.5mほどに過ぎないが、かなり埋没している。
外部側には土塁があり、郭側にも本来は土塁があったようである。西側に虎口がある。北側に土橋のようなものがある。
石段の参道の途中にも小さい曲輪がある。北側は民家になり、堀は失われている。
この民家と梨畑のある地は寺側より若干地勢が低いが、ここが二郭に相当する場所であった可能性がある。

下の水田地帯との勾配は急であるが西側は緩斜面である。西側に堀、土塁が回っていた可能性もあるが、畑となっており遺構は見られない。
民家と寺の間の東側斜面は竪堀状になっており、寺の周囲を回る堀はここで竪堀になっていたようである。
あるいは、ここが登城路であったのかもしれない。
予想外に遺構が残っているので驚いたが、墓地が拡張されたら、堀は埋められてしまう心配がある。

東側から見た城址。斜面は結構急である。 南側の堀跡。幅4m程度。右側が主郭側。 北西側の堀。先に土橋がある。

笠松城(かすみがうら市中佐谷)
この城に行くには七会小学校を目指すのが良い。小学校の北東側は天の川の低地であり、その対岸の岡が城址である。
この岡の東側はまた低地となり、東側に「第2常陸野公園」がある。
岡は比高10mの半島状であり、先端部が城址である。
岡の下に町指定史跡と書いた解説板と城址碑があるが、板の前の道を上がっていくと何と民家である。かなり立派な民家である。
これではどうにもならない。遺構は北側に土塁があるだけと解説板に書いてあった。
正元元年(1259)、大掾氏一族で、石岡城主馬場資幹の孫佐谷次郎左衛門尉実幹によって築かれたという。
城というより館程度の規模である。
佐谷氏は2代で滅び、一時、廃城となったが、慶長7年(1602)には志築藩主本堂氏の陣屋となり、40年間使用されたという。
いずれにしても居館程度のものであり、戦闘を意識した城ではない。
せいぜい土塁程度があっただけで堀などの厳重な防御施設はなかったのかもしれない。

岡南下にある城址の看板。先に見える林が主郭部 東側の低地越しに見た主郭部。

安喰館(かすみがうら市安食)

霞ヶ浦を北に見る出島半島の安食地区にある大宮神社付近が館跡である。
西1.5kmが宍倉城である。
この地は北に霞ヶ浦、南が菱木川の低地に挟まれた東西に長い比高20mほどの岡である。
肝心の遺構であるが、大宮神社付近に土塁や堀の残痕らしきものが見られる程度である。
他にも民家内に土塁が残存するという。
館主等は分からないが、宍倉城がすぐ近くであるので、宍倉城主の家臣の館かもしれない。
館跡という大宮神社 神社境内に残る土塁