本戸城(笠間市本戸)36.3607、140.2021と物見 36.3633、140.02225

田利城とも言う。
JR水戸線稲田駅の南約1km、東の三峯山(標高177.8)から西に張り出した尾根末端の台地上の平坦部にある。
標高は約75m、西下の水田地帯からは比高約25mである。

城は直径約200mの規模がある。
台地上の東西約200m、南北約100mの平坦部が主郭である。
かつて丘上は畑だったため、平坦部の遺構は耕作によりかなり曖昧になっている。

最もはっきりした遺構は丘先端部の南側及び西側の帯曲輪及び切岸である
そこは杉林や竹林になっている。
帯曲輪は2段になっており、切岸@、Aの高さは約3〜4m、勾配は急である。
南側には坂虎口が残る。


南側の坂虎口はこんな感じ。
帯曲輪を半周させてから主郭に入れる構造だったと思われる。

主郭部は耕作により改変されているが、西側に高さ1mくらいの低い土塁Bが残る。
ただし、この土塁は外側は切岸ではなく、帯曲輪である。
犬走りと言っていいかもしれない。

坂虎口を入ったら帯曲輪を通し主郭内部に入れたものと思われる。
主郭部は西側が若干高く、東側に続くが、浅い堀Cのようなものがある。
堀にしては埋没しすぎており、これは根切堀ではないかと思う。

@1段目の切岸、高さは約4m。鋭い! A2段目の切岸、これも鋭い。高さは約3m。上が主郭。
B主郭西側の土塁、高さ1mほどと低い。 C主郭内には浅い堀が縦横に走るが、根切堀じゃないか?

西側に突き出した部分がくびれた部分にも浅い堀があるが、これも城郭遺構か根切堀か判断できない。
ここから東に広い平坦な尾根が続くが遺構はないようである。

ともかく、主郭東側には遺構と断言できるものはないのが現状である。
耕作により湮滅している可能性があろう。
遺構があったとしても東側部分はかなり防御が甘い。

しかし、ここから尾根を約600m行った山に物見があるという。
そこに行こうとするが、藪がひどく行けない。
地図を見ると東側の岩谷寺の西に林道があり、それを利用すると比較的簡単に行けそうなことが分かる。
林道の最高箇所付近に車を置き、尾根を西に約300m行くと、堀切があった。


↑ 物見の唯一明確な遺構である堀切。
← 物見はこんな概観、頂上部はただの自然の山である。
 古道が山頂部を迂回して通る。左下に進むと岩谷寺に着く。

しかし、その西側の本城から東に約600m、比高約100mの標高160.6mのピークはほぼ自然の山だった。
結局、この程度のものだった。

この程度のもので東からの本城への接近が防げるものだろうか?
なお、この物見から道を東に延び、道の先を行くと岩谷寺に出、笠間城がその先に見えるのである。
笠間城への最短距離がこの物見を通る道である。
当然、東の麓の岩谷寺は中継点であろう。
笠間氏家臣、本殿高朝が城主と言われる。
(笠間市史、日本城郭大系参考)

上加賀田城(笠間市上加賀田) 36.3403、140.2660
北関東自動車道笠間ICと笠間PA間の中間部の南側にあり、城のある北側を北関東自動車道が横切る。
北側から東側にかけて涸沼川が流れ、水堀の役目を果たす。
西側と南側は水田地帯であるが、当時は湿地だったのだろう。

四方が河川と湿地帯に囲まれてかなりの要害性があったと思われる。
城は標高約55m、比高約30mの東西約200m、南北約300mの大きさの独立した丘にある。

西側から見た城址、麓の民家が居館か?撮影位置は府中街道にあたる。水田地帯はかつては湿地帯であろう。丘の裏側に涸沼川が流れる。

丘上一帯はかつて畑、果樹園だったようであるが、現在、ほとんど耕作は放棄され藪化が進んでいる。
耕作により土塁が崩されたり、堀が埋められたと思われる部分もある。
藪化がひどいため、遺構の確認は非常に困難である。

西側から北側にかけて横堀が覆う。
南北に3つの曲輪が並び、北端が本郭で約50mの方形に西側が突き出した形である。
二郭側以外を横堀が覆う。
その南側が2mほど低くなり二郭、25m×30mの広さを持つ。

その南西側が、さらに低くなり三郭、ここは70m×30mの広さを持つ。
内部は段差がある。
三郭は横堀が全周していたようである。

ほとんど藪状態で写真はほとんど撮れない。

本郭内部、栗林であるが藪化が進んでいる。 本郭北下を周る横堀。 三郭内部も栗林であるが、3段ほどの緩斜面になっている。

三郭南側の墓地やその南側の段々状の平坦地も曲輪であろう。
一方、三郭の東側、二郭の南東側は特段、城郭遺構は見られなく緩斜面である。

三郭東側も耕作により遺構が湮滅している可能性もあるが、もともと遺構が存在していない可能性もある。
虎口は二郭と三郭間の西側ではないかと思われ、西下の集落のある地が居館であろう。

笠間市史によると宍戸氏の西を守る城と言われ、構造上、北側の防衛を強く意識している。
当然、意識する相手は笠間氏であろう。
御城、古屋、堀の内と言った城郭地名が残る。
なお、城の西側の水田地帯の中を通る農道が「府中街道」という。
街道を抑える関所城の役目もあったと思われる。

下市毛館(笠間市下市毛)
笠間駅の南、下市毛公民館付近が館跡と言われ、約40m四方の方形館であった。
微高地に位置する。公民館前に土塁の残痕がある程度で周辺に遺構は確認できない。
笠間氏家臣の居館という。