笠間城(笠間市佐白山)

笠間城は茨城県内では珍しいというより唯一の本格的な石垣を持つ城郭である。
 築城は鎌倉時代に下野国で大きな勢力を誇っていた宇都宮氏の流れを汲む支族・塩谷朝業の次男時朝と言われる。
 当時、佐白山に正福寺があった。そこの僧兵と七会村にあった徳蔵寺(戸倉館)の僧兵の争いに対して正福寺側から宇都宮氏に援軍の要請があり、宇都宮頼綱は弟である塩谷時業の次男である塩谷時朝を笠間に派遣して徳蔵寺側を破った。
 この時、正福寺側は佐白山から巨石を落とし徳蔵寺側を撃退したと言われる。
 この岩が大黒石である。
その後、時朝は、正福寺も征服し笠間の地を支配下に収め、正福寺のあった佐白山に城を築いたと言われる。
 ただし、笠間城は山城のため領地支配には不便であり、このため、麓の館に居住し、あくまで笠間城は、非常時の『詰めの城』としての意味があったようである。
 塩谷時朝は以後笠間氏を称し、笠間から岩瀬一帯を支配し、独立した小大名として益子氏等との抗争を繰り返した。
 しかし、18代の笠間綱家は天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際に豊臣方に付かずに後北条氏に付いたため、秀吉の命を受けた宇都宮国綱の軍勢によって、攻撃を受け、ここに380年間続いてきた笠間氏は滅亡した。

 笠間氏の後には宇都宮氏の家臣の玉生氏が入ったが、水戸の江戸氏の攻撃を受けるが、撃退することがあった。
 しかし、慶長三年(1598)10月、宇都宮氏が豊臣秀吉に改易されると、玉生氏も所領を没収された。
 宇都宮氏の旧領には浅野長政が監視目的で入り、次いで慶長三年の三月からは蒲生秀行が正式に宇都宮城に配置された。
 蒲生秀行が宇都宮に封じられると笠間には家臣の蒲生郷成が入った。
 この時、石垣が築かれたと言われる。

 「笠間城記」には「宇都宮城主蒲生秀行 慶長三年これを領す。
 家臣蒲生源左衛門、城を守ること四年。重楼を阿武山に営む(これ殿守なり)」との記述があり、蒲生郷成が天守曲輪に櫓(天守)を建てたと読める。
 この時、石垣は本丸玄関門付近にも設けるなどの改修を行なったらしい。
 この時期はちょうど関ヶ原合戦の直前であり、この改修は家康の意向を受けた蒲生氏が上杉景勝に対しての備え、また、上杉氏に近い佐竹氏に対する牽制の意味があったものと推定される。
 その後、江戸時代には城主は八家も替わり、最後、牧野氏の時代に明治維新を迎えた。

 城は、標高180mの独立峰、佐白山山頂部を中心に約16000平方mの広さがある梯郭連郭併用式城郭であり、城の主要部は本丸と言われる場所である。
 ここには御殿(居館)があったとされ、西側には高さ4,5m、長さ70m程の八幡台土塁がある。
 この土塁の南端には八幡台櫓跡がある。
 ここからは笠間市内が一望の下に眺められる。
 肝心のこの櫓は明治13年(1880)に城下の真浄寺に払い下げられて移築され、寺の七面堂として改修されたが、笠間城の重要な建築物であるため昭和44年に県の有形文化財に指定され、昭和47年の修理で元に近い姿(入母屋風)に戻された。
 八幡台櫓は本瓦葺で漆喰塗込、二重二階櫓形式で延享4年(1747)の史料では弓や鉄砲、玉、火縄、槍、矢、胴乱、鞍などの武具類を保管していた場所という。

 本丸の北西はやや狭くなり、西側に低い土塁があり、北端に宍ケ崎櫓跡があった。
 宍ケ崎櫓も八幡台櫓と同じ形式で作られていたと思われる。本丸東側の正門である玄関門のあった場所には石垣が残る。

この城の最大の見所は本丸の南に聳え立つ山、佐白山にある天主曲輪である。
天主曲輪は本丸の地より30m程度の比高があり、傾斜は急勾配である。
本丸とは竪堀が両側にある土橋でつながっているが、かつては木橋が架かっていたと言われる。
 天主曲輪への登城路は石段であるが、何箇所も折れ曲がり、防備を考慮したつくりとなっている。所々に巨石がゴロゴロしている。
山頂近くの天主曲輪は三段となっており、石垣造りであり、頂上に佐志能神社が祀られている曲輪に着く。
天守があった場所は一段高く、そこに現在は神社本殿が建っているが、当時は二層の天守櫓があった。
南側には巨石がいくつも見られ、その下は急勾配である。下にも曲輪があったのかもしれない。
付近には巨石が多く見られ、これらの石をこの場で整形して積み上げたものと思われる。
石垣の積み方は野積みに近いものであり、松の根が張り崩壊の恐れがある。
 この天主曲輪と本丸の関係は、水府村にある山入城と非常に良く似ている。
本丸まではかつて、車で行けるようになっていたため、その間にある曲輪の形状は大きく変わってしまっているが、帯曲輪や二の丸等があった。

二の丸の一部は車道のロータリーとなっているが、残りは藪に埋もれている。
当時の登城路は現在の的場丸(千人溜)から本丸に登る歩道と一致していると考えられ、石畳の道の途中に二の門や中門があった。
的場丸(千人溜)南には大手門があり、両側の土塁がせまり、道はS字状となっている。谷側は竪堀、西側に土塁と堀が見られる。   
その先が現在、駐車場となっている的場丸(千人溜)と呼ばれる武者溜まりである。
ここから西側の林道を行くと、三の丸となる。曲輪の周囲には低い土塁が見られる。
的場丸から北側に一段下がると登城道が東西に分かれ、道を西側の笠間市内に向けてに降りると黒門があった。
その場所は現在の大黒岩のある場所と言われる。
鳥瞰図は 図説 茨城の城郭掲載図及び現地調査を基に描いたものであるが、本丸から的場丸までの郭配置は車道ができたため、かなり変わってしまい正確性に今一つ自信がない。
                   

南から見た佐白山 @駐車場になっている的場丸(千人溜) A的場丸の南にある大手門跡。
B中門の石垣 C本丸内部、西側を八幡台土塁が覆う。 D八幡台櫓跡
E宍ヶ崎櫓跡。 F天主曲輪への石段   G天主曲輪の石垣。
H天守台に建つ佐志能神社社殿。 I天守台の南側には巨石がゴロゴロしている。 大黒石、黒門があった場所

大渕館(笠間市大渕)
笠間市街地から国道50号線を挟んだ北側の大渕地区に大井神社がある。
延喜式にも登場する古い神社である。この大井神社の社殿の西側にこんもりした杉林がある。
この杉林のある山が茨城県遺跡地図では大渕館としている。
この山は北側から南の平地に張り出しており、末端部で大井神社のある尾根とこの山がある尾根に分岐する。
標高は70m程度、比高は20m程度の山である。
西側からこの山に突入する。すると、堀がうねうねと山に続いている。
長さは50mくらい。深さは2m、幅は5m程度であるが、かなり埋没している感じである。
この堀は山の頂上部では曖昧になって若干窪んだ道となっている。埋められた感じである。
遺構はこれだけである。この山の南側の集落の字を「堀の内」という。
言うまでもなく城館を示す地名である。どうもこの館とは、主郭部がこの集落であり、その南側、東側、西側は水田地帯で湿地。
山続きの北側をこの堀で遮断した構造であったようである。
館の来歴は不明であるが、笠間氏家臣の居館と考えるのが妥当だろう。

下左がこの館?のイメージ図である。

南から見た城址。右の民家付近が居館跡?
正面の木の左に横堀の出口が見える。
これが、山中を這い回る横堀。


福田館(笠間市福田寄居)

笠間市街地から国道50号線を越え、涸沼川に沿って県道61号を城里方面に走行すると、西側の水田地帯の西端の山ろくに福田寄居地区があり、ここに香取神社がある。

茨城県遺跡地図ではこの境内を福田館としている。
ここに行ってみるが、境内は西側からだらだら下る山の斜面末端にあり、本殿までの間に2段の段差がある。
この段差は神社ならどこにもあるようなものであり、遺構とも思えない。
不思議な遺構は、本殿の左右に延びる堀である。
本殿で一度切れるが全長は70mほどある。南側の堀は特に明瞭であり、深さ4m、幅10mほどある。
さらに、この堀に平行して西側の山側に土塁と堀(土塁を作った時の溝か?)がある。
遺構はそこまで。そこから先の山には何もない。
館があったとすれば岡の末端部の本殿の東側と思われ、その背後の防御用に造った堀がこの遺構と思われる。
ここの字名の「寄居」、この地名は城館に係わることが多い。やはり館が存在した可能性は高い。
右の図は、もし館があったとしたらこんな感じではないかという想像図である。
でもこんないい加減な造りの館などあるのだろうか?
神社がいつ建てられたか分からないが、館があったとしたら、廃館となった後であろう。
笠間氏家臣の居館だろうか。

香取神社の位置口。境内は3段になっている。 社殿の脇にある堀。結構、立派なものである。 左の堀の西側には土塁があり、その外にも堀がある。


金井館(笠間市金井)
笠間市街地から国道50号線を越えた北側、金井地区にある。
西側から傾斜する山の斜面末端部にあり、東側は水田地帯である。
東西2つの館があるが、いずれも郭内に民家が建っている。
明瞭な遺構が見えるのは東館である。西館は土塁が石垣のようにされており、良く分からなくなっている。
福田館や大渕館が本当に館であるのか疑わしいところがあるが、この金井館は疑いもない中世の城館という感じである。
東館は50m×70mの広さの方形館であり、北側に折れがある。
周囲には堀が回っていたようで痕跡が残る。土塁は高さ3mほどあり、ほぼ完存である。
東側に虎口が開く。西側にも虎口があったという。
館の来歴は不明であるが、笠間氏家臣の居館と考えるのが妥当だろう。

東館内部は民家である。 土塁の高さは3mほど。北側に折れがある。

飯田城もどき?(笠間市飯田)
笠間市街地から国道50号線を越え、県道36号線を七会方面に2.5qほど走ると新屋地区に至る。
この西側の山に飯田城があったという。

しかし、困ったことに茨城県遺跡地図と茨城県重要遺跡報告書の城の位置の尾根が違うのである。
これは困った。とりあえず、茨城県遺跡地図に示す山に突入。
この山、先端部に墓地がある。ここから登るが、すぐに倒木地獄にはまる。何もない。
さらに登っていくと尾根上に出るが、そこに高さ1.5mくらいの土壇がある。
これが城郭遺構か古墳かは分からない。
その先に尾根に沿って100mほどにわたり、深さ1m程度の浅い溝がある。
これが堀なのかは良く分からない。
の先に平場があり、その北側に土塁を持つ堀切がある。
ただし、この堀切、土塁が北側の山側にあるので、北側に主郭があると思って向かうが、行けども行けども何もない。
結局、これだけである。さっぱり訳が分からないが、堀切は本物である。
先に述べた溝もあわせて考えると、東下の山口集落を守るため、背後の山に構築したものではないかと思う。左の左の図は上に書いたことを図にしたものである。
だいたいこんな感じの山である。およそ城らしくは感じられない。
この構造、福田館や大渕館の構造と良く似る。
しかし、茨城県重要遺跡報告書に示す場所の城は何だろう。

こちらの方が城らしい感じを受けるが。
鎌倉時代、笠間氏4代目、笠間朝貞の家臣、大嶺広基が、飯田を領し、陣営を前原の地に築いたという。
この居館が山口地区にあり、その背後を守る城がこの城であった可能性もある。
大嶺氏は笠間氏滅亡後は、宍戸城の秋田氏に仕えたという。

その後、分かったが、茨城県重要遺跡報告書に示す場所の城が本当の飯田城だった。
こっちの飯田城もどきは出城?それとも獣避けの柵列があったのかな?

城址の南端。先端に墓地がある。 北端にある堀。明瞭な城郭遺構はこれだけ。 左の堀の100mほど南にある土壇。古墳か?