館岸城(笠間市(旧岩間町)上郷館岸山)
JR常磐線岩間駅から県道280号線を西の難台山方面に向かう、岩間カントリー倶楽部の東側、県道の北側に標高256mの館岸山がある。
傾斜はそれほど急ではないが、けっこう堂々たる山塊である。

この城は、その館岸山頂から西側の尾根筋にかけて長さ600mにわたり築かれている。
最近、館岸山ハイキングコースが整備され、あちこちに案内板がある。
東の密蔵院から登るルートがあるが、これは山頂までの距離が長い。
南西の西寺ルートが近いのだが、その入口が分かり易そうで、意外と分かりにくい。
民家の裏に上る道があるのであるが、その道、民家に入る私道のようなのである。

しかし、その道を入ると、後、城址までの道は、藪の道ではない。
夏場でも特に問題なく歩ける道である。
今回はこの西寺コースで登ったが、20分ほど歩けば城址の入口である。
登り始めの山裾には、この地の字名にもなっている「西寺」跡がある。
常陸国分寺創設と同時期の寺院の跡といい、古代瓦などが出土するそうである。

城は3つの部分からなり、まず、標高150〜190m付近を中心とした直径150mほどのエリアがある。
ここは広く、土塁等もあるので、本郭に相当する曲輪だろう。
そして、その北側に山頂部からの尾根を分断して本郭防衛用の二郭、さらに山頂部が物見台であったと思われ、ここを三郭とする。

本郭は斜面部に直径150mの円を描いたように犬走りD(一部、横堀状)がまわり、その内部の山の斜面を削平した段々の曲輪群からなる。
北側、西側が高く、東側、南側に向かって低くなる。
山裾側の南側部分には土塁があり、横堀が構築される。
この郭は、日当たり良好な斜面を段々に造成した感じである。

南側から見た城址。洋風民家の裏に道がある。

その主体部は「希望の広場」Aとなっている部分である。
ここはかなり広く、平坦である。大きな陣屋が建てられ、大将級の武将がいた場所であろう。
この北側が段々に高くなり、その北端のピークには物見の櫓が建っていたかもしれない。
その北に二重堀切がある。B、C。

このピ−クからの深さは10m程度。切岸には石が多いが石垣ではないと思うが。
二重堀の間の土塁には大きな岩がある。
本郭側の堀底には箱堀と解説されたものがあるが、どうも井戸のような感じである。
この堀底から延びる道(犬走り)Dが本郭の周囲を1周する。
その一番、低い場所に「水の手」Eがあり、今も水が出ている。
この水、飲めるほど澄んでいる。
一見、それほど深くはないように見えるが、落ち葉や土砂で埋まっているようであり、実際はかなり深そうである。
この場所は水の手を土塁が腕で囲むように覆い、重要な場所であることが良く分かる。

北側に戻り、本郭北の二重堀の北側に二郭Fがある。
本郭側は不整地状態であるが、北東側の山頂から下る尾根を分断する堀切G部分に面した部分はしっかり造成されている。
二郭は、山頂から尾根沿いに攻撃を受けた場合の本郭の防衛陣地である。
なお、この堀底にも箱堀のような窪みがあるが、これも水を貯める施設と思われる。

ここから200mほど尾根を登っていくと山頂Hである。
ここは径20mほどの平坦地になっており、三郭である。物見台と山頂防衛陣地であろう。
北に派生する尾根に腰曲輪が2段あり、その先が堀切となっている。
この堀切が城の北端と思われる。

@本郭南側の横堀 A「希望の広場」広く平坦な曲輪である。
ここが本郭部の中心だろう。
B本郭(左)背後の二重堀切の一重目
C本郭背後の二重堀切の二重目 D本郭の周囲を回る帯曲輪 E「水の手」からは今も水が湧いている。
F本郭北東の二郭。
ここには波石という大岩がある。
G二郭北東の堀切、山頂方面の尾根を分断する。 H山頂部が三郭、周囲に腰曲輪、堀切がある。

比較的大規模な城にも係らず、その歴史については良く分からないという。
伝承によると南北朝末期、元中4年(1387)、小山義政(若犬丸)、小田五郎がが難台山城に立て籠もった戦いの時の包囲する北朝方幕府軍が置いた陣城、「朝日山御陣」がこの城ともいう。

確かに本郭部分などはかなりの軍勢が駐屯するのに適している感じである。
しかし、南北朝期の城とすると既に650年ほど前のことであり、遺構の風化が進んでいるはずであるが、そんな感じはあまりしない。
切岸等、かなり明確である。本郭背後の二重堀切などは戦国時代の城郭のものと思える。
戦国時代も利用されていた感じである。

でも、この周辺は戦国時代もそれほど大きな騒乱はなく、この地の領主だった宍戸氏の本拠とも離れている。
考えられるとすれば、小田氏攻撃等、南方方面に向かう佐竹氏の軍勢の宿城、または地元の民衆の緊急時の避難城として、南北朝期の城を拡張整備した姿ということではないだろうか。
岩間町史によると、関が原前夜、東軍に属した笠間の蒲生氏に対するために佐竹氏が整備したとしている。
しかし、笠間からは場所が離れているし、間には山がいくつもある。
蒲生氏を牽制するなら、内原地区や友部地区の山の方が地理的に適していると思うのであるが。

泉城(笠間市(旧岩間町)泉)
岩間駅の南西に見えるNTTの無線中継所(標高120m)から下の山麓部とその西の標高218mの鐘転(かねころばし)山の山頂部の2つの部分からなる城。

下の写真は南東側から見た城址である。
右の電波塔が建っている部分が山麓部の主郭部、左の山が詰の城、山上部遺構がある鐘転山である。

山麓部遺構

まず、NTT無線中継所に向かうが、その道路、途中で封鎖されている。

しかし、その封鎖地点(標高60m)の脇に大きな堀@がある。
この堀は幅10m、深さ5mほどの見事なものであり、東側は2つの折れを持って、150mほど続く。
堀の両側は土塁が築かれている。

南側はかつて畑だったこともあり、堀が不明瞭であるが、本来は南側にも繋がっていたものと思われる。
この堀は、NTT無線中継所から延びる尾根末端部を守る施設であろう。
さらにこの封鎖地点から西に向かって昔の山道の跡とも横堀とも思える溝Aが延びているが、これが遺構であるか分からない。

この溝の南側にも虎口のような部分があるが、これも遺構との何とも言えない。
封鎖地点から徒歩で無線中継所まで向かうが、その間の山の斜面には特段、遺構は確認できない。
無線中継所B付近は中継所の建設でどの程度、地形が改変されたのかは不明であるが、中継所の東側には帯曲輪Dが認められ、また、西側、鐘転山側にも平坦地Cがあり、この場所は曲輪であったことが分かる。
さらに西側は堀切状になっている。
一方、やや南、隠沢観音の裏から登ると広い平坦地がある。東側の斜面側には高さ2mほどの土塁がある。
ここが曲輪か!と思いきや、石切場の跡であり、がっくり。

城の歴史は今1つ不明確であるが、城主は、中世この辺りを領していた宍戸持里であったという説がある。

南北朝時代には難台山城を巡る戦いにも係るともいう。
しかし、山麓のカクカクとした土塁を持つ堀、あれは戦国時代のもののように見えるのだが?
やはりここも戦国時代、住民が緊急時の避難城として再利用したものなのであろうか。


下の写真は東の山麓部の堀@である。
A山麓を西に延びる溝。堀?山道? B主郭部に建つ無線中継所の電波塔
C無線中継所西側には平坦な曲輪が残る。 D無線中継所東の帯曲輪

山頂部遺構

一方の山上部遺構は鐘転山の山頂から愛宕山方面に続く尾根にかけて300mに渡って存在する。
しかし、鐘転山、山頂南東部は石切場となって遺構が隠滅しており、どうなっていたのか不明である。
山頂部が数段の段郭で構成されていたようであるので、この方面にも曲輪はあったと思われる。

この山頂部には東の麓の隠沢観音から遊歩道があるので、これを行けば良いのであるが、城の遺構だけを見るなら、愛宕山方面から林道が延びており、その途中で遊歩道が合流する。
その場に車を置いて、尾根伝いに南側の鐘転山方面に向えば、わずか5分で@の堀切に到着である。
その遺構であるが、尾根にまず@の遺構が現れる。
高さ5mほどの切岸になっているが、ここは鳥瞰図に示すような構造になっている。
側面に竪堀のようなものが見られたが、これは虎口であった。

この尾根を南に進むと土塁を持つAなどの堀切が2箇所現れ、最後にBの結構大きな堀切がある。
幅は15m、深さは5mほどのものである。その先が山頂部であるが、段々構造になっているが、頂上部は直径40mほどであるが、平坦ではない。
ほとんど自然地形に近い感じである。どうも南東側にも一段低くなっており、これは石切の遺構ではなく、本来の曲輪の一部であるようである。
この山頂部、尾根筋の遺構はしっかりしているが、最高個所の山頂部が自然状態。やはり、詰の城程度の施設であろうか。

C鐘転山の山頂
@北端にある土塁を北側から見る。
側面に虎口がある。
A山頂まで堀切が3箇所ある。その真中の遺構 B 山頂北側の堀切は非常に大きい。