笠間市(旧岩間町)の城

愛宕山(笠間市(旧岩間町)泉)

JR常磐線岩間駅の西にやたらと目立つ山がある。
これが標高305mの愛宕山である。
右の写真は南東側から見た愛宕山である。

この山、西側から張り出した尾根末端が盛り上がった形をしていて、尾根筋に堀切を入れれば立派な城郭となる立地である。

しかし、山頂には古い時代から愛宕神社が建っているのでいわゆる城郭ではなかったようである。
山麓からは比高260mほどあるが、ちゃんと車で頂上直下まで行ける。
本殿は入母屋造の屋根を持つ。
本殿の裏には奥社の手力男命を祀る精銅造の六角堂の飯綱神社がある。
境内自体が段々状になっており、凄く城っぽい。
大同元年(806)に筑波山知足院の開基徳一大師が創建という。
中世は宍戸氏の崇敬を受け、江戸時代には幕府より朱印地三石が与えられていたという。

昔からここ愛宕山は密教系修験道の霊山であったといい、岩間山といわれていたころ、常陸の国では、筑波山、加波山と並んで、天狗の修験道場の一つであったという。

ここに十三人の大小天狗が住み羽団扇を持って雲にのり、大空を矢よりも早く飛び妖魔を打ち払い、厳しい修行で身につけた術によって重い病人を救ったり、天候を予知して作物の豊凶を占ったりして、人々を幸せにしていたという伝説が残る。
飯綱神社の裏側に「十三天狗の祠」と言われる十三個の石の祠や、天狗の修行の地と言われる石尊などが残る。

こんな感じの山であるが、天狗伝説があるので、ここは僧兵(神社ではないので僧兵とは言わないとは思うが・・)を抱えた武装寺社ではなかったかと思う。
おそらく神主も半独立の領主的存在であり、宍戸氏などの領主と同盟を結んだりしていた関係があったのかもしれない。

それなら城と見ても差し支えないかもしれない。
西側の尾根部分、現在は駐車場であるが、鳥居が建つ場所付近には堀切があったのかもしれない。
この尾根筋は南に迂回しており、尾根を進むと泉城に行けるが、泉城との関係は果たしてどうであったのか?

愛宕神社本殿 神社境内は石垣があり、城みたい。 西側の駐車場から見た神社境内。
鳥居付近に堀切があったかも?
愛宕山からの南方方向の展望。
遠く霞ヶ浦が望まれる。
この愛宕神社のもっとも城郭らしい部分が、愛宕神社本殿の北にある一段高い部分にある飯縄神社のある場所である。

その概略を右に示す。

愛宕神社本殿の位置から10mほど高く、本殿裏から石段が飯綱神社の社殿に延びている。

その飯縄神社が建つ境内は30m四方であるが、その周囲には2mほど低く帯曲輪がある。

さらにその西側と北側に、一段低く、土塁を持つ帯曲輪(堀?)がある。
岩間町史はこれが城郭遺構ではないかとしている。
愛宕神社本殿の地から見た飯縄神社。
愛宕神社からは10mほど高い場所にある。
@飯縄神社社殿の周囲には帯曲輪が。 Aさらにその外側に土塁を持つ帯曲輪(堀?)が。

仲村館(笠間市(旧岩間町)泉)

泉城があったというNTTの電波塔の真東の山麓、仲村集落にあったという。
集落の北側が少し沢状の低地になっており、少し東に池がある。
この低地に面した南側の微耕地が館跡なのであるが、ほとんど集落になって湮滅したと思われた・・・
と思ったら、道路際の林の中に土塁のようなものが。
何と言う動体視力の良さ。

確認すると1.5mほどに低くはなっているが、土塁が50mほど東西に続いている。
これがどうやら館遺構のようである。
まだ、人家宅地内に遺構は残っているのかもしれない。
城主等、歴史は未詳であるが、泉城の麓にあるので、泉城を詰の城とした平時の居館ではなかっただろうか。

花園館(笠間市(旧岩間町)上郷字花園)
愛宕神社のある愛宕山の真北、館岸城の東の山麓にある。
この館のある花園集落は低地からの比高15mほどの台地状になっており、周囲を土塁で囲んだ有力農民の居館がいくつかあり、花園館群とも言うそうである。

中世城館ではなく、江戸時代の庄屋屋敷とその分家の屋敷、あるいは裕福な農家であったのかもしれない。
確かに庄屋屋敷と思われる立派な民家があり、その裏手の台地などに土塁などがちらほら確認できる。
岩間町史によると、下左の写真の現在、民家が建っている場所自体が当時の館の主体部という。

しかし、さらに裏手の方は右のような土塁を越えると、ただの畑であって、古墳群がある他、特段なにもない。
庄屋屋敷とすればこんなものかもしれない。
なお、この集落の北方に密蔵院跡があり、そこからハイキングコースが館岸山に延びている。

下郷館(笠間市(旧岩間町)下郷)

JR常磐線岩間駅の西にある岩間第一小学校の南西側一帯が下郷館の跡であるが、ほとんど遺構は湮滅しており、写真に示す西側の土塁が残存している。
道が堀跡という。
この他に東側に堀が残っているというが、良く分からなかった。
館としては100m四方程度の大きさで、周囲に土塁と堀がある方形館であったという。
しかし、館についての伝承はなく、岩間町史は戦時の陣城のような臨時的な城ではないかと述べている。
軍勢移動時の大将級武将の宿城か?
それなら宍戸氏が江戸氏、佐竹氏の軍移動時用に整備したものであろうか?

古市城(笠間市(旧岩間町)下郷)

JR常磐線岩間駅から上野方向に600m線路の東側が城址である。

南が桜川が流れる湿地帯であり、その北の微高地にある。

100m四方の大きさであり、北側に高さ4mほどの立派な土塁があるという。
しかし、そこは民家の敷地内であり、竹林、おまけに竹の子ドロボーを警戒してか、トタンの塀で囲まれており確認できない。

居館と推定されるが、館主等は不明という。

写真は館北側、竹林の中に土塁があるはずなのだが・・・。

下安居(笠間市(旧岩間町)安居
笠間市の最東端、茨城町との境、安居地区にある。この「安居」、「あご」と読むのだそうである。まず、読めない。
したがってこの館の名前「しもあごやかた」と読むことになる。どこにでもある名であるが「堀の内館」とも言う。
場所は県道52号と県道43号が交差する下安居地区、法音寺の北東、南川根郵便局の北西側である。
館自体は100m四方の方形の館だったようであり、南西側に小さな副郭らしい部分が付属し、そこに土塁@が残る。

しかし、肝心の館跡は民家の敷地である。
久保田さんという方の家だそうである。館主の子孫かどうかは分からない。
北は涸沼川の低地であるが、その低地に面した台地の縁にはなぜか遺構はなく、遺構は少し南側の台地の奥である。

上の写真に示すように、そこには高さ3mほどの土塁@が100mほど東西に続く。
その前、北側には堀があったようだが、かなり埋まっている。
この土塁は西側から南側にまわる。
一方、館の南側の東半分にもにも堀と土塁があったらしいが湮滅している。
館の東側は一段低くなっているが、この方面にも土塁と堀は存在していたのではないかと思われる。
この地は古代の東海道「安侯の駅家」の東側に位置し、「堀の内」「宿」といった地名が残り、古くからの交通の要衝であったという。
街道を管理する役目があったと思われるが、詳細は分からないそうである。

(岩間町史参考。鳥瞰図に描いた虎口の位置は現在の位置関係であり、本来のものかは分からない。)

@南側に残る土塁。 A北側の土塁、堀は埋められている。