茨城町の城

飯沼城(茨城町上飯沼)REV
2020年3月19日、 年振りに訪れた。前回訪問した時、北にある川根小学校の校庭では大勢の児童が遊び、にぎやかな声が聞こえてきた。
しかし、その川根小学校は廃校になってしまい、校舎の取り壊し工事が行われていた。廃校になっても校舎は再利用されることが多いが、取り壊しということは、耐震基準を満たしていないための措置だったのではないだろうか?
悲しい光景である。

飯沼城は飯沼館あるいは桜井氏の館跡とも呼ばれている。
南北に北郭(三郭)、本郭、南郭(二郭)と3つの郭が並ぶ城である。
旧川根小学校の地は自体が城址の一部であり、北郭に相当する。

もともと丘だったようであるが、丘の北側が崩され学校の敷地になっているという。
南側部分は墓地となって残っており、本郭との間の堀は通路Cになっている。
ここには居館があったといわれている。

@本郭西側の切岸は緩やか
A本郭東側の土塁。下に堀と土塁があったという。

本郭は旧小学校の地より約7m高い位置にある。
標高は20m、かつては内部がゲートボール場等になっていたが、廃止され、公園となっている。
広さは約50m四方の大きさがあり、周囲は土塁に囲まれる。
西側の福性寺側の切岸@は緩やかであるが、他の3方向の切岸ADは急勾配であり、高さも5m以上もあり見事である。
南郭があったといい、かつては堀と土塁で隔てられていた。

土塁と堀の残痕はあるが、郭自体は墓地になって遺構は不明である。
さらにその南側は台地に続き、堀で遮断していたというが、この堀跡は道路になっている。

なお、さらに南に行くと櫓台のような盛り上がりがある。おそらく古墳のようであるが、見張台に使用していたものと思われる。
本郭の東側には腰曲輪があり、その前面には土塁があったというが、現在は失われている。
その東は水田となっている低地である。
かつては湿地であり、実質、水堀の役目を果たしていたと思われる。

B本郭内部は公園になっている。 C三郭との間の堀は道路になっている。 D本郭北側の土塁と鋭い切岸
E本郭西下、福性寺側の土塁 F城主桜井氏の菩提寺福性寺も城域であろう。 G福性寺にある中世の五輪塔、城主桜井氏のものか?

本郭の西側には福性寺があるが、寺との間には2重の堀があり、堀間に土塁が残る。堀底は道路になっている。
福性寺の地も北側、南側が低地となっている微高地であり、北側に低くなってしまっているが、土塁がある。
寺の西側にも土塁、堀があったかもしれないが、痕跡は確認できない。

寺域から平安時代の三筋壷や五輪塔などが発掘されているため、福性寺は古くから存在していたと考えられる。
土塁等もあるため、城域の一部であろう。
城の曲輪の一部に寺を置いたと思われるが、城より前から存在していたのかもしれない。
福性寺(天台宗)本堂には町指定文化財に指定されている一木造りの如来像が安置され、境内には鎌倉時代の板碑(↓の写真)や南北朝時代の五輪塔がある。


また、本堂前の観音堂は飯沼城の奥方の安産を祈って,建てられたといわれ、現在でも安産や子育てに御利益があるとして地域の人々に信仰されている。

東方の方角(鬼門)の鹿島神社は、城の鎮護のために祀られ、南北朝期に桜井尊房という人物が築城したとの伝承をもつ。
応永2年(1395)の米良文書に小田、宍戸氏の一族として飯沼山城守が登場し、彼が城主であった可能性もある。
さらには福性寺の記録では、戦国時代の城主として桜園氏の名が記されているなど、城主が誰なのかは今一つ不明確であるが、桜井氏、飯沼氏、桜園氏は全て同じ一族ではなかったのだろうか。
小田、宍戸氏系の城であったようであるが、文明年間(1500頃)には江戸氏の支配下に入り、江戸氏とともに天正18年(1590)佐竹氏に滅ぼされ廃城となったという。
北を涸沼川が流れ、涸沼の水運を管理する役目もあったものと思われる。
(茨城町史参照)36.2892、140.3835
参考:図説 茨城の城郭

以前の記事 飯沼城(茨城町上飯沼)
 飯沼館あるいは桜井氏の館跡とも呼ばれている。
 南北に北郭、本郭、南郭の3つの郭が並ぶ城である。
 飯沼城を目指すには、川根小学校が目印となる。もっとも川根小学校自体が城址の一部であり、北郭に相当する。
 ここに居館があったといわれている。本郭は川根小学校の南側にあり、小学校の地より7m高い位置にある。内部はゲートボール場等になっているが、この部分のみが公園として残っている。50m四方の大きさがあり、周囲は土塁に囲まれる。 

南側に南郭があったといい、堀と土塁で隔てられていた。
土塁と堀の残痕はあるが、郭内は墓地になって遺構は不明である。
 さらにその南側は台地に続き、堀で遮断していたというが、この堀跡は道路になっている。
なお、さらに南に行くと櫓台のような盛り上がりがある。おそらく古墳のようであるが、見張台に使用していたものと思われる。
 本郭の東側には腰曲輪があり、その前面には土塁があったというが、現在は失われている。
その東は水田となっている低地である。
 本郭の西側には福性寺があるが、寺との間には2重の堀があり、堀間に土塁が残る。堀底は道路になっている。
 福性寺の地も北側、南側が低地となっている微高地であり、北側に低くなってしまっているが、土塁がある。
 城域から平安時代の三筋壷や五輪塔などが発掘されているため、福性寺は当時から存在していたと考えられる。
 ここも城域の一部であろう。なお、福性寺は天台宗の寺であり,本堂には町指定文化財に指定されている一木造りの如来像が安置され、境内には鎌倉時代の板碑や南北朝時代の五輪塔がある。
また、本堂前の観音堂は,飯沼城の奥方の安産を祈って,建てられたといわれ、現在でも,安産や子育てに御利益があるとして,地域の人々に信仰されている。
本郭内北側の土塁 本郭から東下の帯曲輪を見る。土塁は
失われている。
本郭から福性寺北側の土塁を見る。

 東方の方角(鬼門)の鹿島神社は、城の鎮護のために祀られ、南北朝期に桜井尊房という人物が築城したとの伝承をもつ。
 応永2(1395)年の米良文書に小田、宍戸氏の一族として飯沼山城守が登場し、彼が城主であった可能性もある。
さらには福性寺の記録では、戦国時代の城主として桜園氏の名が記されているなど、城主が誰なのかは今一つ不明確であるが、桜井氏、飯沼氏、桜園氏は全て同じ一族ではなかったのだろうか。
 小田、宍戸氏系の城であったようであるが、文明年間(1500頃)には江戸氏の支配下に入り、江戸氏とともに天正18年(1590)佐竹氏に滅ぼされ廃城となった。

外城(茨城町上石崎)36.2813,140.4581
伝承も記録もなく、存在すら知られていなかった城館である。ただ、その場所の字名が「外城」、それだけの情報で発見されたという。
しかし、存在が知られていなかったはずである。この程度の遺構なら忘れられても不思議ではない。
その程度の遺構である。
長い時間を経て破壊されてしまった可能性もあるが、その破壊の痕跡も感じられないので始めからこの程度のものであったのかもしれない。
当然ながら城に名前はついていない。とりあえず字名を取り「外城」と書く。

場所は茨城町上石崎、県道50号線と106号線が交差する上石崎十字路から、県道50号線に入り約200m北上し、丘の上に達した付近である。
この県道50号線はこの城の主郭を真っ二つに縦断しているのである。
丘上で南西から旧道が合流するが、この旧道は堀跡を通っているのである。
その部分が少し窪んでいる。
しかし、新旧の道路の合流点に立っても城郭遺構がどこにあるか分からない。
ところが、県道50号線の東側の藪の中を覗き込んでみると・・・。
そこには帯曲輪がある。
ちょうどその場所は曲輪の角に当たり、旧道になっている堀が北端の谷部と合流し、角部が直角に折れた部分から帯曲輪に変わっているのである。
県道の東側に回ってみると、曲輪の角部がちゃんと残っており、切岸が急勾配に加工され、約4m下に帯曲輪が巡っている。
この帯曲輪は少し東で道跡に合流して消える。

@館主郭のど真ん中を県道50号線が分断する。 A館西側の堀跡に旧道が通る。

その登り道が丘上に出る部分は虎口のようになっているが、堀跡かもしれない。それ以外には遺構は確認できない。
県道が曲輪を分断するが、県道の東側は耕作が放棄された畑であり、県道の西側も畑である。

この畑の周囲には特段、遺構らしいものはない。
曲輪としては約60m四方の方形であったと推定される。
この外城のある場所は、涸沼の最西奥、涸沼川が涸沼に注ぐ部分であり、涸沼大橋が架かる。
この場所の標高は0m。この部分は堆積が進んでいるため、おそらくかつてはここも涸沼の一部であったのだろう。

県道50号線が涸沼大橋を渡った場所は標高10mの平坦な台地になっている。
字名は「船渡」である。字のごとく、南の海老沢とつなぐ渡場であるとともに涸沼の港があった場所である。
涸沼の湖上水運用の船と涸沼川の川船間の荷物の積み替え場であろう。
大量の物資輸送ができる水運は大きな経済的利益をもたらしたはずである。

その港湾である船渡地区を見下ろす北の標高21.3mの丘の上にこの外城がある。
おそらく重要な経済拠点、船渡の背後を守る施設であったのではないかと思われる。
南側の遺構が確認できないが、南側は船渡地区であり、元々なかったのかもしれない。
陸から攻撃を受けると想定した場合、敵が来ると想定される北側のみに防御施設を置いたのかもしれない。
港湾施設の背後を守る防塁のようなものかもしれない。外城とはそのような意味でつけられた可能性もある。
外城に対する内城は船渡内に存在したか、船渡自体であったのかもしれない。
今は田舎の農村に過ぎないが、戦国時代は違う一面がここにはあったのであろう。

三條館(茨城町中石崎)36.2831,140.4888
涸沼の北岸の台地上を通る県道106号線を上石崎方面から東の涸沼自然公園方面に走ると北側に立派な土塁がある民家が見える。
土塁は高さが約3m、真ん中が民家の入口なので土塁は分断されているが、東西方向に東側に約30m、西側に約20m続く。

@県道沿いにある西側の土塁 A東側の土塁、左下の畑は堀跡か?

どうみても中世城館の土塁に見える。
しかし、遺跡地図を見ても、ここに城館は登録されていない。「三条遺跡」として登録されている。
確かに調査中、縄文時代の立派な打製石斧を拾ったので、縄文遺跡であるのは間違いないが・・・・。

いったいこれは何だ?住人に聞こうと思ったが、あいにく留守、どにもならない。
庄屋屋敷の可能性もあるが、中世城館を引き継いだものでない限り、このような立派な土塁を持つことはないだろう。

この地は標高が27m、南には涸沼が見える。南西約1qに石崎城がある。
調査してみると、残存土塁の前の畑は堀跡だった可能性もある。
方形の館とすれば、残存土塁から直角に折れ、南北に延びる土塁が東西にあった可能性があるが湮滅しているようである。
しかし、残存土塁から北に約100m行った民家の裏手に東西に堀と土塁が約100m続く。
堀は東側の谷津が入り込んだ若干低地になっている部分にまで延びている。

また、残存土塁前から県道106号線を西側に進むと、南の涸沼側が竪堀のようになっている。
北西側の谷津部分の出口部であったと思われ、県道が通る部分は埋められている感じである。
これらを総合すると、イラストのような感じではなかったかと思う。単郭ではなく、周囲にも曲輪があったように思う。

どういう性格の館か、何とも言えないが、涸沼に係る城館であった可能性がある。広々としているので生活はしやすいが、防御力は乏しいので居館であろう。
南下に港があり、その管理をしていたのかもしれないが、西約800mに湖内港があったという親沢鼻があるので距離が近すぎる。
親沢鼻の港を管理する城、石崎城の支城か、港管理事務所である石崎城の城主の平時の居館か?
B土塁前を西に行くと涸沼に下る自然の谷津を利用した竪堀があり、涸沼が見渡せる。

福蔵館(茨城町中石崎)
涸沼の沿岸は涸沼に流れ込む小河川が台地を浸食し、谷津が複雑に発達し凸凹した非常に分かりにくい地形になっており、道も曲がりくねり細い。
現地を知らない者が車で走ると、自分がどこを走っているか迷ってしまう。
この福蔵(ふくら)館も非常に分かりにくい場所にある。
涸沼北岸にある石崎城や三條館、外城は涸沼に近いか、涸沼が見える場所にある。
涸沼の水運に関わっていた城と推定されるので当然の立地である。

でも、この福蔵館は違う。
館のある場所は涸沼から離れており、涸沼は見えない。
涸沼に流れ込む河川が浸食した谷津の奥、三條館の北側の谷津の北側の台地の縁にある。
涸沼との関わりは想定しにくい。
那珂台地に多く見られる小方形城館と同じく、台地内部の開拓を目的とした城館のように思える。
だが、那珂台地にある城館はため池の水利権管理による水田開発のためのものと言われるが、ここにはため池はない。
台地上に水田はない。那珂台地に比べると谷津も深い。
状況はかなり違うようである。
牧場を経営し馬の飼育を生業にしていたことも想定される。

その福蔵館であるが、台地の縁部にあるが、西側、北側の台地中心部に比べて標高が少し低い場所にある。
いわゆる穴城と言った感じである。
北側と南側に土塁の一部が残存しており、その外側には堀があったようである。
北端にある残存土塁@は高さが約3mあり、上に氏神が祀られる。

@北西端に残る土塁 A南側に残る土塁

また、南側の土塁Aの外側の家の屋号が「竪堀」というそうである。
今は堀はないが、堀が存在していたことを示している。
館の正面は台地に続く西側であると思われるが、土塁、堀等は見られないが、道路が堀の位置であったと思われる。

かつての館の姿を再現するのは難しいが、東側の谷津をバックに北、西、南の3方向を土塁と堀で区画した形をしていたのではないかと思われる。
単郭であったと思われ、今は2件の民家の敷地になっている。
館内から東下の谷津に下る道があるが、谷津部の水田につながる。

大きさは東西最大約100m、南北は約80mで南東側を欠くL型をしていたと思われる。
館主は佐竹氏家臣であったという。
しかし、この地は江戸氏領であり、佐竹氏家臣が飛び地のようにこの地にいることが不自然であるが、江戸氏滅亡後、佐竹氏家臣になったということかもしれない。
36.2872,140.4884 航空写真はYahoo地図の写真を使用

天古崎城(茨城町南島田)
 「てござき」と読む。県道16号線沿いの駒場にある梅香中学校の南600m、「神宿」のバス停の西側300mのる比高20m余りの丘の先端部が城址である。
 城は南と東が低地に面し、西側のみが台地につながる。北側は谷津が入り込んでおり、尾根状となっている。小さい城であり、城域は東西150m、南北100mほどにすぎない。

2郭からなり、西側に位置する二郭は50m×25m程度と小さく、東の本郭側と西側に幅10m程度の堀を持つ。
現在は深さ2mもないが当時は深い薬研堀であったと思われる。

堀に面して郭側に土塁がある。
特に西側にある土塁は10m四方程度の大きさがあり櫓台であろう。
本郭は東西100m、南北最大50mほどの台形をしており、西側の二郭側と北側の谷津側に土塁がある。

 なお、谷津側には堀底からつながる帯曲輪があり、特に本郭側は3段になっており、最上段の曲輪には土塁がある。
東側と南側は急勾配のため土塁も帯曲輪もない。

本郭の中央西よりに7m四方、高さ1.5mほどの櫓台がある。
古墳を利用したもののようであるが、ここには稲荷神社が建つ。
当時から存在していたのかもしれず、城主の氏神を奉った神聖な場所であったのかもしれない。
 
本郭西側の堀。 本郭内の土壇に建つ稲荷神社。 本郭北側。土塁が前面にある。

本郭に神社が建つ城は宇留野城、島崎城や木崎城など多くあるが、いずれも同様に祭祀の場所を兼ねていたのかもしれない。とすれば本郭は居住の場ではない。
これは本郭内部が結構でこぼこしていて居住には適さないと思われる点からも想定される。
 二郭も狭すぎる。このため、あくまでこの城は緊急時の避難所に過ぎなかったのではないかと思う。
普段はこの付近、恐らく城の台地続きの西側あたりに居館があったのではないかと思う。
城主は海老沢氏であったという。
海老沢氏はもともとは東南の海老沢地区の領主であったが、江戸氏の家臣となって領地を拡大しこの地も領し、城を築いたという。江戸氏滅亡時に帰農し、その子孫は現在もこの地に健在と言う。


石崎城(茨城町上石崎
 
涸沼の北岸の台地先端部にある城。涸沼を介して南に宮ヶ崎城が望まれる。
 城のある台地は涸沼に北から張り出した形の岬状になっている。
南直下が親沢鼻という地名で、公園として釣のメッカになっている。 

この親沢公園の北の丘が城址であるが、丘の比高は20mほどである。
城域は直径100m位の範囲に及ぶ。
 単郭の城であるが、北側にも城域が広がっていた可能性もある。
城に行くには親沢公園の駐車場に車を置き、西側の県道を北に100mほど歩く。
 すると丘に登る小道が見える。
この道を登ると台地との間を遮断している堀の堀底に出る。

 この堀が予想外にでかい。
深さ8m、幅は15m程度ある。
この堀が折れを伴いながら50mほど続く。
 郭内には西側の斜面伝いに道を行く、そこに虎口が開いている。
 郭内は直径70mほどある。内部は雑木林になっているが、それほど荒れてはいない。

かつては畑であったようである。
 周囲には土塁がある。
北側の堀に面した土塁は大きく、郭内からも4mほどの高さがある。
この規模の土塁は小幡城級である。
 中央部は堀側に張り出しており横矢が掛かるようになっている。
ここは櫓台でもあったと思われる。
 北側以外の土塁は1mほどの高さしかない。

 虎口は西側と東南側にある。東南側の虎口は船で輸送された物資を運びこむための口ではなかったかと思う。
北側の堀。小幡城級の立派なもの。 北側の土塁。高さ4m位ある。 謎の土壇。物見台?狼煙台?

 おそらく、当時は直ぐ下に船付き場があったものと思われる。(現在は丘の麓から100mほど南が湖岸)
 やや東側に、高さ2m弱、径5mほどの土壇がある。
古墳という説もあるが、古墳にしては低い。古墳を利用したものか、始めから土壇として設けられたものであろう。似たようなものは大久保天神山城や大久保愛宕山城、天古崎城にもある。
 物見台にしては低い。宮ヶ崎城に急を知らせるあるいは、湖上の舟に位置を知らせる狼煙台であった可能性もある。
 太鼓で合図を送る方法もあったので、太鼓が置かれ屋根が覆っていた可能性もある。
 この場所なら音を遮るものはなく、涸沼一円に合図を送ることが可能であろう。

築城は良く分からないが、石川氏の一族であった石崎禅師房聖堂の居城という言い伝えがある。
  この人物がどのような者か良く分からないが鎌倉時代の人物であるらしいので、豪族の居館はあったらしい。
 南に湖を望む絶好のロケーションであり、居館には絶好の場所である。
 今残る遺構は、明らかに戦国期のものである。
 江戸氏が整備し、涸沼の湖上交通支配の拠点、物資集積場、あるいは宮ヶ崎城、天古崎城、小幡城へのつなぎの城として使っていたのではないかと思う。