下吉影城と富田城

戦国時代の常陸国は戦国末期まで佐竹氏を中心とした統制の弱い大名連合という形であった。
国内に半独立の小大名が林立し、一応、佐竹に従い、北条との戦いなどには出兵したが、小大名間の抗争が絶えず、いつも佐竹が仲介に奔走していた。
最も仲の悪かったのは水戸の江戸氏と石岡の大掾氏であるが、ここに登場する常陸武田氏と大掾氏も微妙な関係であったようである。
その両者の境界が巴川沿いのこの地区である。
なんの変哲もないド田舎なのだが、川を挟んだ東西の岡に今の鉾田市側に富田城と今の小美玉市側に下吉影城がある。
この両城が両者の境目の城だったと思われる。
今ののどかな田舎の風景からは想像できない緊張した世界があったかもしれない。
最後は両者とも佐竹氏に滅ぼされ、漁夫の利を奪われてしまうのである。

(昭和54年撮影の国土地理院の航空写真を使用)

下吉影城(小美玉市下吉影)
「しもよしかげ」と読む。
小美玉市の北東端、百里基地の北東、下吉影小の北東500mにある鹿島神社とその北側が城址ということになっているが、明確な遺構は確認できない。
茨城県重要遺跡報告書Uには次ぎのように記述されている
「『新編常陸国誌』に、「下吉影荒地坪に新堀という所あり、新堀権守と言う人の居址なり」とある。
しかし、城跡の詳細については地元でも知る人なく不明である。

下吉影荒地に隣接する山林内に、空堀らしき遺構(上端幅8m、探さ2〜3m)が南北150mにわたってはしり、その外側に土塁(高さ3.5m)が築かれている。
空堀の西側は緩斜面の山林に連なり台地上へ続いている。
新堀の地名は台地西側の隣接地に残っているが、台地をとり囲む東と西の山林中に戦時中の掩体壕(えんたいごう)跡があるほかは城跡に伴う遺構は確認できない。
なお、下吉影城と称する野口右兵衛館については、下吉影本田に堀之内の地名と八幡宮の小社が残るのみで詳細は明らかでない。

さらに『新縞常陸国誌』は下記のように記載している。
(1) 城主(新堀権守利氏)について…「大中臣民ナリ、鹿島大宮司公利ノ後ナリ、元弘ノ比ノ人、鹿島尾張権守利氏卜云、鹿島南篠ノ内、宮本郷ノ内、岡野、葺前、益田等ノ村ヲ領ス、又、元行ノ勲功ニテ、南郡吉景村地頭トナリ、彼地二移り住ス」

(2) 下吉影館址について…「アラチ坪、新堀卜云所アリ、新堀権守卜云人ノ居址ナリ、
一中略−、又、町新田二御厩跡卜云地アリ、権守厩跡アリシ所也卜申伝り」
(注)御厩跡は城跡の北東に地名のみ現存する。
(3) 下吉影城跡(野口館)について…「茨城郡下吉影村ニアリ、野口右兵衛アリ、佐竹氏之ヲ遂テ舟尾山城守ヲ置ク」
(注)野口館については、下吉影本田に堀之内の地名が現存するが、八幡社の小さな祠が残っているのみで、城跡の遺構は知られていない。 」

@鹿島神社の東側は城の塁壁のようだ。 A神社北側の谷津部、正面の林に堀がある。 B北に延びる堀と土塁?

この新堀権守は、鹿島氏の出というので同じ系統の大掾氏の家臣であったと思われる。
巴川を挟んで東側の岡の上には富田城がある。
この城は鉾田方面の者の城と考えられ、武田氏の城と推定される。
この下吉影城とは対立する関係にあった可能性がある。
今の平和な田園地帯にそんな緊張があったとは信じられないが・・・。

茨城県重要遺跡報告書U掲載の図によると、鹿島神社からその北側の谷部が城域になっている。
それでまず、鹿島神社に向う。
ここは城址の南の外れということになっているが、行ってみて驚く、神社への階段がある場所が切岸になっているのである。
まるで城って感じだ。しかし、神社境内の裏側はただの台地続きでがっかり。堀らしいものがない。やはりここは城域ではないのか。
遺構はこの神社の北側の谷津沿いに掘があるというので、細い農道を行く。
確かに台地の裾に浅いは堀と土塁がある。これがどうも遺構らしい。
結局、この城は台地裾野に堀を置いた長塁のような感じのものだったように思える。
その塁の向きが東方向に対してである。やはり対岸の富田城に対する城なのか?


富田城(鉾田市下富田)
富田城は、県道18号線の旧道と50号線とが交差する「上富田」の交差点の南東の香取神社のある地にある。
この場所は西に巴川の低地があり、西側と北側の2方向が崖である標高26.5m、比高約20mの台地の北西端部である。
巴川の西側の対岸は小美玉市であり、巴川を挟んで下吉影城がある。

香取神社の参道を行くと途中に幅4mの堀が西側から延びる。

堀の北側、神社社殿側には低い土塁がある。
この内部が二郭である。参道の東側に堀が延び、北に曲がるが、途中で消滅している。
その先には堀の痕跡は見られない。

埋められたような感じもなく、構築中に工事を中止したのではないかと思われる。

その参道で分断された堀から参道@を北に60m行くと社殿があり、社殿の西側が本郭である。

40m×25mほどの区画であり、幅8mほどの堀が東側と南側にある。

土塁Aは南側が高く、曲輪内からは約3m、堀底から約5mある。
東側の土塁Bは曲輪内からは約2mの高さである。

社殿裏に土橋があり、曲輪内に入れるが、どうもこれは後世のものと思われる。

本来は本郭南東隅部から本郭南側の堀を通り、西側に迂回して入ったようである。
本郭の南東部が突き出ており、2段の腰曲輪がある。
@香取神社参道、参道脇に土塁と堀がある。社殿左が主郭 A主郭南東端の櫓台・・であるが「藪!」

なお、香取神社の参道入り口の鳥居の西側斜面に竪堀があるが、これは堀ではなく、本来の岡から登る参道であったのではないかと思われる。
城の歴史は不明であるが、巴川上流方向を意識した造りであり、南東(鉾田側)側の勢力が北側に対して築いた城のようである。
おそらく鉾田の武田氏が大掾氏に対して築いた城とではないかと思われる。
巴川の対岸に下吉影城があるが、それに対する城かもしれない。とすれば大掾氏に対する城であった可能性が大きい。

堀ノ内砦(鉾田市青柳字堀ノ内)と蕨砦(鉾田市借宿)
冨田城のある香取神社の南1.5q、青柳集落の南にある岡の東端部が堀ノ内砦跡である。
常円寺の南側の比高15mほどの台地の東南端に30mほどを区画した小さな砦である。
しかし、夏場に行ったので堀は藪でさっぱり分からない。
南東700m、借宿地区に蕨砦がある。青柳小学校の南側の台地であるが、藪で行けなかった。
両砦は鉾田の武田氏が北方向、冨田城との繋ぎに築いたものであろう。

竹林の中が堀ノ内砦跡であるが、藪。 蕨砦跡

追加 2012年冬 堀ノ内砦 突入成功
堀ノ内砦(鉾田市青柳字堀ノ内)

2009年の夏に突入しようとして余りの藪のため断念した。
堀の内砦、2012年の冬場、ようやく突入を果たした。

北浦に注ぐ巴川南岸の比高15mほどの台地北東端に築かれた砦である。
台地の北東端部分を土塁と堀で仕切った原則的には曲輪内は30〜40m四方程度であり、全周土塁が覆う単郭の砦である。
特に台地続きの西側の土塁Aは立派であり、堀@からは5m、曲輪内からは2.5mほどある。
櫓が建っていたのかもしれない。
西側から南側にかけての堀も幅8mほどある立派なものである。
南西側には横矢がかかっている。
一方の北東側は堀は竪堀状になってくだって行く。
途中の虎口がある。曲輪内は東に傾斜しており平坦ではない。
しかし、ここも藪である。冬場に何とか歩ける程度である。
砦の西側はただの竹林であるが、土塁Bが残り曲輪だった可能性もある。
この土塁の南側の道は堀だった可能性がある。
ちなみにこの道が南側の堀と合流する。
古墳らしい土壇もあるが・・?

巴川は当時、北浦の入り江であり、北浦の水運の監視施設または東下に船付場があり荷揚げ基地だったとも考えられる。
おそらく野友城を拠点とする武田氏に属する砦であろう。
航空写真は国土地理院が昭和49年に撮影したものを利用。
余湖くんのHPを参考。
@西側の堀底 A外郭部から堀越しに見た土塁 B北西側外郭に残る土塁