結城の城

結城城

 結城市内は城下町であったことから道も狭く、所々折れ曲がっており、車は極めて走りにくい。
 結城城は市街地の北東部城跡公園が実城の北の先端部と言われている。公園内は噴水があり、遊具等が置かれ、城址という雰囲気はない。唯一、公園入口の空堀が城の遺構として確認できる程度である。

 明確な遺構としては公園の北から東へかけての周囲の城壁である。
しかし、下の水田から郭の上までの比高は5m程度しかない。
 その北側の現在、水田となっている場所は、かつて、北側の広大な湿地、水堀の中に郭が突き出ていた様子が理解される。
 結城城と言えば関東地方の戦国時代の幕を開けた「結城合戦」の舞台であり、幕府の大軍に包囲されながら長期間にわたって抵抗した城であり、相当の要害性があったはずである。しかし、現在の姿からはそのような姿は想像できない。
 当然ながらかつての城域は市街化に伴いほとんどが失われている。
 結城城は北東の田川の湿地帯に突き出た半島状の台地先端部を島状に5つの郭に水堀で仕切り、さらに郭外周にも水堀が存在していたという。公園から南側の住宅地に入ると郭間を仕切った堀が現れる。
 田川は今は治水がしっかりしているが、かつては鬼怒川(昔は毛野川)同様の暴れ川であり、毎年のように氾濫を起こしていたと思われ、その深田状の氾濫原に突き出した城の北側、東側からの攻撃は船を使っても困難である。しかし、舟が通れる深い水堀も存在していたらしく、江戸時代にも結城城の一部に「河岸」と呼ばれる船着き場が存在していた。
 結城合戦で結城城が想像以上の抵抗を見せたのもこの湿地が大きな要因があったと思われる。また、水運による食料の運び込みが行われたのかもしれない。
 左の鳥瞰図は「城郭体系」記載の航空写真を基に描いたものである。

   

本城北側の城塁、水田はかつての
水堀(深田)の跡
本城西の西館との間を隔てる堀 本城北側の水田地帯、かつては泥沼で
あった。
本城内の城址公園 中城内 中城南の堀

築城は小山下野大掾政光の四男朝光が養和元(1181)年、志田義広の乱鎮圧の功により下総結城郡の地頭職に任ぜられ、結城氏を名乗って居館を構えたことによる。

永享10年(1438)に有名な結城合戦が起こる。
この合戦は足利持氏と関東管領上杉憲実が対立し、持氏と嫡子義久が自刃する事件が起こり、持氏の次男・春王丸(十三歳)、三男安王丸(十歳)、四男永寿王丸(三歳)は鎌倉を逃れ、結城城の結城氏朝に匿われたことに始まる。
氏朝は遺児を奉じて決起することとなり、これに古河城の野田氏行、関宿城の下河辺氏らも加わった。
 これに対して将軍足利義教は前関東管領上杉憲実に征討を命じ、関東管領の上杉清方、扇谷上杉持朝らが永享12年(1440)武蔵・上野・信濃の諸将を率いて結城城を囲んだ。
 幕府の大軍は結城城、古河城、関宿城を包囲して攻撃。
古河城、関宿城は落城するが、結城城は陥落せず、篭城軍の一部は降伏したが、篭城したまま年を越した。翌年、嘉吉元年(1441)年、幕府軍の総攻撃で、氏朝・持朝父子は自刃。春王丸・安王丸は城外で春王丸・安王丸は捕らえら、後に殺され結城城は落城した。
 しかし、落城の際に氏朝の末子、七郎は脱出し佐竹義憲に保護された。
遺児の一人永寿王丸は嘉吉の乱により、命拾いし文安4年(1447)永寿王丸により鎌倉府が復興され、鎌倉公方足利成氏として復活した。
これにより七郎が結城氏を再興した。その後、成氏は享徳の大乱により鎌倉を追われ、康正元年(1455)本拠を古河に移し、以降「古河公方」と呼ばれた。
結城氏はその後、多賀谷氏、山川氏、水谷氏、岩松氏等の「結城洞中」をまとめ、宇都宮氏、小田氏と抗争を繰り広げる。
弘治元(1555)年、結城政勝は伊勢参内の帰りに北条氏康に誼を通じている。
その留守を狙って小田氏治が結城領内に侵攻する意図を見せたため、翌弘治二年(1556)、政勝は結城城に水谷、山川、岩上、多賀谷らの重臣を参集、北条氏康も援軍を派遣し小田方の海老ヶ島城を攻撃、小田氏治を第一次山王堂の戦いで破り、小田城も陥とした。
この年、政勝は有名な「結城氏新法度」を出している。政勝の死後、相続する者がいなくなったため、小山高朝の次男晴朝が相続した。
小田氏治は政勝急死の報を得て結城城を攻撃したが、小山高朝、水谷治持、真壁氏幹らの援軍で小田軍を破った。
永禄3年(1560)、結城晴朝の留守を多賀谷政経が離反し小田氏治、佐竹義昭、宇都宮広綱の攻撃を受けるが和睦。
この年、長尾景虎(上杉謙信)が関東に出陣、結城氏も上杉軍に参じた。
永禄6年(1563)の謙信の関東出陣では、謙信は北条に寝返った小山秀綱を攻め、晴朝は援軍を派遣したが、小山秀綱は降伏開城、謙信は晴朝の籠る結城城を攻めようとしたため上杉軍に下った。
しかし翌永禄7年(1564)、謙信が越後に帰ると北条氏政は20000の兵を率いて結城城を攻撃、晴朝は氏政に降伏した。
しかし永禄8年(1565)年、謙信が関東に出陣すると今度は上杉に降伏、謙信が帰ると今度は北条に下るという河原の葦のような変わり身ようであった。
天正2年(1574)年、北条氏政は結城晴朝に兄・小山秀綱を攻撃させ、降伏させた。
しかし、晴朝は裏で上杉、宇都宮・佐竹勢に同盟を求めている。
天正18年(1590)、小田原の役が起こると結城晴朝は素早く秀吉に誼を通じ、北条氏照配下祇園城を攻め落城させたが、どさくさにまぎれて宇都宮領にも侵攻、鹿沼・壬生などを横領した。
晴朝は奥州討伐に下向する秀吉を結城城で饗応、養子の斡旋を嘆願し、家康次男で秀吉の養子に入っていた秀康を養子に迎えた。
結城秀康の下、秀吉から宇都宮領横領分を含む十万一千石を安堵された。
結城晴朝はコロコロ主を変えた人物として有名であり、このため評判は悪い。
しかし、周囲を上杉、北条、佐竹、宇都宮といった強力な大名に囲まれ一族を存続させるにはこの方法しかなかったであろう。
近隣の佐野、壬生、皆川氏等も似たり寄ったりである。ただし、晴朝の読み手は全て的中しているのが並みの能力ではない。
慶長6年(1601)、結城秀康は越前福井城に転封し、松平姓に戻り結城氏は歴史から姿を消した。
秀康移封後、結城城は廃城となったが、元禄13年(1700)水野勝長によって再興され、明治の廃藩置県に至るまで水野家の居城となった。

結城城は一方で「結城埋蔵金伝説」でも有名である。
これは越前移封に乗り気でなかった晴朝がいつしかの結城の地への復帰を夢見て結城城内に金を埋めたというものである。
本城の城址公園の南に堀のような窪地があるが、ここが埋蔵金を探すため掘った穴の跡と言う。

結城長塁(小山市萱橋)

結城城の北東2q、結城市街と小山第二工業団地の中間、小山市萱橋地区にある。
すぐ東にはストーンサークルで有名な寺島東遺跡が田川に面して存在する。
この付近は南北に延びる台地となっており、長塁は日鷲神社を起点に東に延びる土塁と堀であったようである。すなわち、この台地を分断するものであったようである。
長さは500mほどだろうか。
日鷲神社境内東側に土塁と堀が残り、神社南側にも堀跡らしいものがある。
神社境内は平坦であるが、西側、南側の低地側はだらだらした斜面であり、この境内が曲輪なのか、東側が曲輪なのかよく分からない。
(神社境内が曲輪だったら周囲は切岸にすると思うのだが?)
堀は神社境内東側を南北に100mほどはしり、東に折れて台地と東西に走っていたようである。
台地中央部は宅地、道路、畑で遺構は確認できない。
台地東縁にある墓地まで行ってみると、墓地の北側に100m弱にわたり土塁が残っていた。
しかし、この境内、鬱蒼としており藪蚊の襲撃に閉口する。

結城城と言えば「結城合戦」が有名であるが、結城城から離れすぎておりその時代のものとは思えない。
復活した結城氏が結城城防衛のため、小山氏や宇都宮氏に備えて築いたものではないだろうか。
(参考:「図説 茨城の城郭」p169)

日鷲神社南東に残る堀。かなり埋没してしまっている。 日鷲神社東側の堀。この部分が一番明瞭に遺構が残る。 日鷲神社社殿。この右手に土塁と堀がある。神社境内は城域だろうか? 台地東側に残る土塁。台地中央部は湮滅している。

城の内館
 結城市街の南、国道50号バイパス「とりせん」南側にある。
館内部は公園のような感じになっているが、整備された状態ではなく雑木林のようになっている。
周囲の堀は失われており、土塁は低くなってはいるが、ほぼ完存状態にある。
結城氏草創期の館の跡と伝えられ、鎌倉時代、初代結城朝光が築館したという。
東西178m、南北128mの長方形をした典型的な鎌倉武士の館である。
土塁の高さは1.3mほどに低くなっているが、南西隅部が高くなっており、櫓台があったかもしれない。
堀は西側のみ僅かに残る。虎口は南側の社がある場所と思われる。館内部は結構凸凹しているが、庭園の跡のようにも見える。
室町時代、結城氏が結城城を築いて移転した時に廃館になったという。

館西側の土塁と堀。 南に開く虎口。 館南側の土塁、堀は道路となっている。

三蔵神社館(結城市田間)

結城市の南部、三和に向かう県道結城・岩井線(旧 鎌倉街道)沿い、田間地区にある「三蔵神社」境内が城址である。
三蔵神社遺跡ともいう。西仁連川の低地を挟んで西側はすでに小山市である。
東西163.8m、南北168.8mの大きさがあったようであり、東側は台地上にあるが、西側は低くなり、池のある庭園跡が残っている。
この池の中には半島状に突き出た部分がありかなり本格的な庭園だったようである。
石は全く使っていないという。今は完全に藪状態で蚊の襲撃に悩まされた。
この池は台地斜面の湧水を利用しているらしい。
台地の斜面も取り込んで造られた変わった立地である。
土塁と堀が周囲を1周していたようであるが土塁は神社北側に残る。
堀跡は神社境内の北側と東側に残る。あとは公民館や運動場になり湮滅している。
この城についての歴史は全く不明である。
ここの地名は権見といい、付近にも権現東、権現西、湧権現という地名が残っていることから、三蔵神社もかなり古くから立地していた可能性があり、神社の神主の館なのかもしれない。
果たして結城氏とはどんな関係があったのだろうか。
館北側の土塁間に開く虎口。ここが搦手口であろう。 南側の大手口から見た館内部。奥の社殿のある場所が盛り上がっている。 館中央部下にある庭園の池。今は藪だらけで蚊の襲撃がすさまじい。 館東側の堀跡。土塁を崩して埋めたらしく痕跡が残る。


山川綾戸城(結城市山川新田)

 結城市中心外から南に約9kmの田園地帯の河川が開析した水田地帯を望む比高3m程度の微高地にある。
山川沼排水路が西側を流れ、東側も水田地帯の低地である。
南にかつて山川沼があり、沼地に突出した半島台地先端に本郭を置き、北側に二郭、三郭を置く構造である。
北側以外、の東、西、南の3方は当時、沼地であり、現在の姿からは想像も付かないくらいの要害性があったらしい。
構造上、沼を要害に利用した点では、結城城や海老が島城と同じであり、西の館林城、忍城等と同じ水城に近い。
このうち、本郭は山川区土地改良区事業で完全に湮滅。三郭も宅地化、耕地化でさっぱり遺構がわからず、かろうじて三郭の北西に西土塁、堀、虎口跡が残存し、説明板があるにすぎない。
大手は三郭北側であったらしいが、どこか場所が分からない。
天慶2年(939)平将門が出城を置き、坂田蔵人将幸に守らせ、翌3年(940)将門が敗死すると源経基の部将阿野小太郎幸光により落城し廃城になったというがどこまで真実か分からない。
寛元元年(1243)結城朝光の3男五郎(大夫判官)重光が父の譲を受けて山川荘地頭となり、この山川綾戸城を再興したというが本拠は山川館(地頭屋敷)であり、この城は支城であったようである。
山川氏がこの城に本拠を移したのは、永禄8年(1562)14代山川駿河守氏重の時である。当時は戦国時代がたけなわであり、山川館の要害性を懸念して本拠を移したものという。
三郭北西に残る唯一の遺構。 残存土塁南側の水田は堀跡、畑の位置に土塁があったらしい。 三郭北側の堀。 城址東側の水田地帯は沼跡。

この城が本格的に整備されたのは氏重以降であろう。しかし、16代の讃岐守朝貞の時、結城氏の越前移封に同行する。
しかし、これで廃城となったわけではない。
山川氏の後に伊東備前守、松平越中守、水野監物、太田備中守が城主となり、寛永16年(1639)に一度廃城となるが、正徳元年(1711)鳥居伊賀守が壬生藩主となり山川を領すると代官所が置かれ、明治維新まで続く長い歴史を持つ。


山川館(結城市上山川)
山川氏の綾戸城以前の本拠地が地頭屋敷と呼ばれる東持寺が建つ地である。
場所は結城市街から南に約6kmの鬼怒川右岸の台地上である。遺構はほぼ完存する。
単郭方形の館であり、東西約150m、南北約187mの大きさを持ち、全周を土塁と堀を巡らせる。
虎口は南と西の2箇所であったといい、現在もここが寺への入口である。
堀には現在は水はないが、南側の堀は「十四ケ用水」の用水路として現在も使われている。

東持寺の入口はかつての虎口。 西側の堀と土塁。堀はもっと深かったであろう。 館内の土塁。

寛元元年(1243)朝光の3子山川五郎左衛門尉重光が山川庄の地頭に任ぜられここに住み館を構えたといい、14代山川駿河守氏重が綾戸城に移るまで山川氏の本拠であった。
16代朝重が結城秀康に従って越前福井に移ると、代官伊東備前守等が居住したので「代官屋敷」とも称せられる。
元和元年(1615)水野監物忠元が山川三万石の城主になった時、家臣横田次郎兵衛が居住したが、横田氏が水野家の移封で去る時、屋敷が東持寺に寄進され、寛永3年(1626)山川原にあった東持寺が、ここに移転し現在に及んでいる。
遺構が完全に残っているのは寺院の境内になったからである。
もし、寺院の境内にならなかったらこの館の遺構はまず残らなかったであろう。

山川氏は、秀郷流藤原氏の流れを組む小山政光の子孫、結城朝光の四男重光が興した家である。
結城氏の分家であるが、半独立の大名であり、本家分家の関係で結城氏と行動をともにすることは多かったが、同盟者に近い立場にあったらしい。
「結城合戦」では山川氏も小山氏らとともに、結城氏朝・持朝父子に味方し、結城城に籠城するが、敗れて一族はばらばらになってしまうが、結城成朝が結城氏を再興させると山川氏も復活。
しかし、結城氏内で成朝と兄の長朝との間で家督継承をめぐる対立が生じ、これに巻き込まれ、山川氏義と結城氏との間にも確執が生じる。
結城成朝は結城氏の勢力回復につとめたが、重臣多賀谷和泉守に殺され、子がいなかったため、家督相続問題が再燃、結局、成朝の兄長朝の子氏広が家督を継いだが、氏広も直ぐに死ぬ。嫡男の政朝が継ぐ。
この相続騒動は山川景貞主導で決着させるが、子の基景を結城氏に送り込む。
一方、小山氏にも男子がなかったため、弟景胤を養子として送り込むという暗躍をし、山川氏の最盛期を演出し、結城氏に対しても絶大な影響力を持つようになる。
山川景貞は明応八年(1499)、死去する。その四日前、政朝は多賀谷和泉守を多賀谷家稙の応援を得て殺しているので、政朝による結城氏の勢力回復の目指した暗殺とも考えられる。
景貞の死と政朝の暗躍により、結城氏が再び優位となり、山川氏はその影響下に置かれる。
以後、結城氏は山川氏を、多賀谷氏、水谷氏らの有力国人領主連合「結城洞中」の盟主として戦国大名化するが、この洞中というのは極めて緩やかな同盟関係であり、結束も強固なものではなく、直ぐに崩壊してしまう性格のものであった。
山川氏は戦国末期まで結城氏と行動をともにし、北条方、上杉方ところころ立場を換える。
天正2年(1574)、以後は一貫して、反北条氏の立場をとり、小山氏、佐野氏、由良氏、皆川氏、足利長尾氏が北条氏の軍門に下る中、佐竹氏、宇都宮氏らの支援を受けて切り抜けた。
天正18年(1590)、小田原の役で北条氏が滅ぶと、結城晴朝は家康の次男秀康を養子に迎える。
このころになるともはや山川氏が大名として独立する余地は全くなく、完全に結城氏に従属する。関ヶ原の合戦後、結城秀康は越前に移封され、当主、山川晴重も同行し、晴重の子讃岐守朝貞は、吉田郡花谷に17000石を与えられ重臣に列し、以後、山川氏は越前家の家臣として続く。