吉沼城塞群
つくば市西部の小貝川を西に見る東の台地上、吉沼地区に5つの小城館が存在する。
この5つの城館は南北1km、東西500mほどの狭い地区に集中している。
現在の吉沼地区自体が城塞都市であり、その周囲を守る城塞であったようである。
しかし、この5城館は同時に存在した訳ではないようで思われる。
始めは小田氏家臣の豊田氏の流れを組む藤原氏、原氏の名に関わる城があり、この地を多賀谷氏が攻略後は、多賀谷氏が継続使用した城及び新規に築城したものがあったようである。

栗崎城(つくば市吉沼)
吉沼地区北端にある正福寺の北側が城址である。
城のある台地は南から半島状に北に延び坂本の集落があり、その北端に寺がある。
寺周囲は下から比高15mほどある。
平成に入り、寺の南側を切通しにして県道56号のパイパスが開通した。

正福寺の裏に駐車場があり、そこに入ってみると東以外に郭内@からの高さ2mほどの土塁が巡らされている。
東側にも土塁はあったのだが破壊されたそうである。さらに北下5mに腰曲輪がある。
北端に下に下りる口があったようであり、ここから腰曲輪に入り、西側を廻って城内に入ったらしい。
このため、北東から西側にかけては通路状の横堀Aとなっている。
さらに南西端部ではクランクBになっている。南側の寺本堂側は堀は埋められ、痕跡だけが残る。
その駐車場になっている郭は40m×30mほどの広さである。
台地先端部下には水堀があったという。南側の正福寺の本堂のある場所が二郭なのかもしれないが、その南には堀切などは存在しないという。
バイパスの切通しも堀の跡ではないという。直ぐ南東300mにある大坪城が出城という。
永正年間に、豊田氏の家臣の原外記によって築かれ、天文4年、多賀谷重政に攻略され討死したという。
残された遺構はかなり先進的な感じであり、多賀谷氏が継続して整備して使用していたのではないかと思われる。
なお正福寺は天文12年、多賀谷重政の子政経が正福寺を建立したものという。
@郭内、周囲に土塁が巡る。 A北西の横堀?帯曲輪? B南西側はクランクになっている。

大坪館(つくば市吉沼)

吉沼地区の北、県道56号線の旧道とバイパスに挟まれた地区にある金蔵院付近が館跡であり、下の写真のように金蔵院北側に高さ2mほどの土塁が巡る。

この付近は周辺の低地は水田で、これは当時、湿地帯であったようである。
南側に堀があったと思われるが確認できない。埋められてしまったのだろう。
栗崎城の支城だったと思われる。

 「多賀谷七代記」によると、文明15年、多賀谷家植はこの城を攻撃し、城主原外記、その子弥五郎を殺害したと言う。

の航空写真は平成2年国土地理院撮影のもの。

↑は西側、栗崎城側から見た城址。周囲が湿地だったことが分る。
←は金蔵院、この背後にU字形に土塁が回る。

大祥寺城・館宿城・笠根城(つくば市吉沼)

吉沼地区の南西部にこの3城が集中する。
大祥寺城の東側以外は低地であり、それを囲むように館宿城、笠根城が堤防状に存在する。

大祥寺付近が中心部であるようであるが、堀とか土塁などの遺構は確認できない。
地形のみがまずまずといった感じの地である。
大祥寺にあった解説板によると「永正元年、豊田氏の臣、藤原清知が築城し、天文2年に大祥寺が現在の地に移ってきた」とあるので、戦国時代にすでに廃城になっていたようである。

 笠根城は、大祥寺の南西側の南側から北に突き出た半島状台地である。
台地上は笠根の集落となっていて遺構は分からなかった。

おそらく、台地を連郭式に堀で分断した形式であったものと思われる。
大祥寺城の支城だろうか。

笠根城のすぐ北側にある台地が館宿城である。
地名からして城館に関わるものであることは良く分かる。
大祥寺城の根小屋を称しているものと思われる。
城内は集落になっており、遺構は分からない。

南から見た笠根城、台地上は集落になっている。
大祥寺、この付近が城だったらしい。

稲荷神社の地が高台のようになっているが、櫓台の跡かもしれない。
この館宿城は、天文4年、栗崎城を攻略した多賀谷重政が、家臣の渡辺道金に命じて築かせた城であるという。
航空写真は平成2年国土地理院撮影のもの。


今鹿島館(つくば市今鹿島字新田)

手子生(てごまる)城の北1.8km、県道45号線と24号線の交わる豊里交差点から県道45号を1.8kmほど北上すると新田地区に鹿島神社がある。
県道の少し西側で分かりにくい場所である。
この付近の地形は緩やかな微高地があるだけの平地である。
多分、低地部分はかつては湿地、沼地であり、それなりに要害性はあったかもしれない。
神社参道西側に高さ1mほどの土塁があり、その西側は2mほどの段差がある。
下が堀跡だったようである。参道西側100mほどに渡って段差が存在するが、それ以外の3面には痕跡すら確認できない。
平地であり埋められてしまったのだろうか。
おそらく100m四方ほどの大きさがあったのではないかと思われる。
城主等は不明であるが、おそらく小田氏家臣の館であろう。

大砂館(つくば市大砂)
今鹿島館の北1.5kmほど、県道56号線沿いにあるの市営アパートの南の水田に沿った道路の東側角部の民家が館跡である。

この民家60m四方ほどの立派な敷地であるが、方形館であり、南側に堀跡が残る。
かつては土塁と堀が1周していたようである。
戦国時代の武家居館跡、または名主屋敷か。

航空写真は平成2年国土地理院撮影。


長高野館(つくば市長高野)

長高野は「おさこうや」と読む。
吉沼地区から東に約3km、前野小学校と日枝神社の間にある正方形をしたた高さ7mほどの台地が館跡らしい。
一見、土砂置き場のようにも見えるのだが、それにしては高すぎる。
私有地らしく入れない。
岡法面が草だらけであり、内部は藪のようである。
写真は西側から見た館址。


日輪寺館(つくば市金田)
金田の栄小学校の南400mにある日輪寺が館跡という。
お寺の周囲には高さ2mほどの土塁があり、南側の山門脇に堀が残る。
もともとは二重方形館だったようで、水田に面した部分が外郭部であったらしい。
小田城の出城であり、日輪寺ももともとは小田にあり、小田城の出城をここに築いた際に寺院も移ったという。

日輪寺山門、門の両側に土塁がある。 山門東側の土塁上には鐘楼がある。 山門東側の堀跡

大曽根城(つくば市大曽根字中城)

県道128号線と県道53号が交差する付近の南東側、千光寺や常福寺(右端の写真)のある地が城址という。
桜川を挟んで北東の対岸は小田城であり、直線距離は1.8km、その間の桜川の低地に面した比高10mほどの台地縁部に当たる。
地名もずばり「中城」である。
しかし、遺構らしいものは宅地化と寺院のためほとんど分からない。常福寺の南側の池(右の写真)が堀跡かもしれないが、その対岸の南側の方が、何となく城っぽい感じであるが・・・
小田城の支城と推定されるが、北1kmの若森城同様、小田城を包囲する佐竹氏の付け城であったのかもしれない。

花畑城(つくば市花畑3丁目花畑公園)

筑波学園都市のメインストリート東大通りから300mほど東に入った花畑3丁目の花畑公園が城址である。
100m四方ほどの方形館だったと思われるが、公園化で遺構はほとんど破壊されてしまったようである。
右の写真に示すように公園の東側に土塁と堀の痕跡が残るのみである。