宝筐山城(つくば市小田)36.1675、140.1301
小田城の北東に聳える標高460.7mの堂々たる山が宝筐山である。
山頂部に電波塔が建つのですぐ分かる。

↑ 小田城から見た宝筐山、電波塔が建つ場所である。ここからの比高約450m。高い!バカバカしくて登れるか!
あの山に陣取られたら、城内を覗き込まれるので嫌だったであろう。その間の崖が見える山の上が小田城の外郭出城、前山城。
この宝筐山という名前、山頂に鎌倉時代作の宝筐院塔が建てられているので、名前が付いたという。小田山ともいうそうである。
この山、ハイキングコースとして多くの客が来る。
何しろ眺望が抜群である。
でも、この山、城でもある。
城となるとそそられる。
行ってみたい・・・。しかし、標高460.7mである。
小田城の標高は13mである。比高が450mもある。これは高い。

ハイキングコースガイドを調べたら山頂まで2時間もかかる。
冗談じゃない。俺は登山趣味はない。2時間・・往復したら3時間以上、半日かかるではないか!

こういう時はどらえもんの「どこでもドア」かガミラス帝国の「瞬間物質移送装置」があればいいのだが・・・・。
「竹コプター」でもいいが、俺は高所恐怖症なんでだめだ!

そこで、裏道を探す。
電波塔があるのでメンテ道路があるはず。そこを使えば楽に行けるはず。
探すと表筑波スカイラインの途中から行く道がある。そこを行けば約2qで行ける。

スカイラインからの分岐位置は36.1737、140.1417である。
ここの標高は360m、ともかくここまでは車で来れる。
メンテ道路は閉鎖されているが、歩くのには問題はない。
山頂までの比高は約100mあるが、麓から登るのに比べると1/4以下である。
ということで、この道を30分ほど歩く。楽に山頂に到達。

1月の日曜日だったが、いやはや登山客が多いこと。
昼食を食べるベンチも満杯、途中すれ違った人も含め、6,70人の人に会った。結構な人数である。

山頂に山の名前となった宝筐院塔@が建つ。高さが2.5mもある立派なもの。
700年以上もここに建っているのだ。
おそらく、この山の石を加工して造ったものと思われるが、職人はここに泊まり込んで造ったのだろうか。
その南側には電波塔が建つ。
山頂部、直径約70m、ここが、本郭と言えるだろうが、物見の場だろうか?

ここからは関東平野や背後の筑波山が良く見える。
冬の晴れた朝なら富士山や都心までくっきりと見えるという。
まさに天然の展望台である。

@山の名前の基になった山頂に建つ宝筐院塔 A山頂北側の平地が二郭であろう。 B二郭から下る尾根末端には堀切がある。
C山頂の南下の平場、三郭が実質的な主郭だろう。 D三郭下の大堀切西側 E三郭下の大堀切東側
F大堀切南側の緩斜面は兵の宿営地だろう。 山頂から見た南東方面、霞ヶ浦が望まれる。 山頂の北西には筑波山が見える。

山頂の北側に細長い尾根が続く。ここが二郭Aと言えるだろう。
北側、2つに分岐する尾根末端にそれぞれ堀切Bがある。

一方、山頂、南下30mは鞍部になり、その南側の三郭Cとも言うべき曲輪がある。
100m×50mほどの広さがあるが平坦ではなく、巨石がある。
標高は山頂部より30m低い430m。
ここに「宝筐城」の標識がある。南側に数段、曲輪がある。ここは兵の宿営地か?

ここの下、標高406m地点に大規模は堀切DEがある。
幅は20mほどあり、外側に土塁がある。
その南側が緩斜面Fになっているが、ここも兵の宿営地だろう。

南北朝の争乱において、南朝方の小田城を攻める北朝方の高師冬が陣を敷いたと言われる。
当時、小田城には北畠親房が滞在しており、師冬はここで小田氏に圧力をかけたらしい。
小田氏に取っては山上から大軍に覗かれているため、かなりの心理的圧力があったであろう。

今に残る堀切がこの時、造られたものとは思えず、後世、小田氏により整備されたのではないかと思われる。
ここを占領されると小田城にプレッシャーとなるため、小田氏に取ってはここを確保しておきたかったであろう。
城番もいたかもしれない。
戦国時代、小田城は佐竹氏に何度も攻められるが、佐竹氏がここに陣を置いた可能性もあろう。