水守城(つくば市水守)
 
つくば市立田水山小学校の地が城址である。
 城は桜川の南岸にあり、北側の桜川低地に突き出た比高10mの半島状台地の先端部に位置し、台地側は深い堀で遮断している。
 立地条件としては若森城と同じである。多気山城の南西2.5kmに位置し、東側を国道408号が通る。

 築城は天慶3年(940)に平将門を倒した平貞盛(国香の子)の弟繁盛の子維幹という。
 維幹は常陸大掾職に任じられて常陸国のナンバーワンとなり水守城で勢力を振るった。
 その後、北条に移り多気太郎と称し、多気山城を築いた。
 その子孫は鎌倉時代、小田氏の先祖八田氏に石岡に追われたが、その子孫は大掾氏として佐竹氏に滅ぼされるまで続いた。
 戦国期の水守城の状況は良く分からないが、地理的に考えると小田城の支城ではなかったかと思われる。
 多賀谷氏の勢力範囲の接点に近く、争奪が繰り広げられたものと推定される。

 城域は200m四方程度でありそれほど広くはない。
 本郭と腰曲輪からなり、本郭があった田水山小学校には古墳を利用した高さ5m位ある大きな櫓台が2基ある。
 通常、古墳は耕地化に伴い破壊される場合が多いが、このような形でも古墳が残ったのは幸運かもしれない。
 腰曲輪は住宅や畑となっている。南側の台地に続く部分には大きな堀があり、堀内は竹林となっている。
 堀底はそのまま北側の腰曲輪につながる。南側の台地とは土橋でつながり、土橋の本郭側に土塁がある。
 本郭の南東側に大きな櫓台が堀の中に突き出るように残る。
 この櫓台は古墳を利用したものではなさそうであるが、草木が鬱蒼としており登れる状態ではない。

本郭内北側の古墳を利用した櫓台。 田水山小西側の古墳利用の櫓台。 南側の土橋。藪内に土塁と堀がある。 西側から見た城址。木の部分が櫓台。

水守城再訪(つくば市水守)2019年4月21日
つくば市立田水山(たみやま)小学校の地が城址である。
このため、前回は訪問が平日であったこともあり校内には入らず、校外からの写真撮影に留めた。
当時は親父が小学校の校内にカメラを向けるのは怪しい。
危険な行為である。

しかし、その田水山小学校、再訪した時は廃校になっていた。
2018年3月に廃校になったのだそうだ。
ここ「つくば市」は茨城県内では人口増加地帯である。
それなのに廃校?
確かにここは市の北端の田園地帯ではあるが。少子化の要因の方が大きいのだろうか。

1年しか経っていないのに既にかなりの時間が経過したような寂れ方であった。
このままだと直ぐに廃墟状態になりそうである。
主人公の子供がいなくなるだけでこうなってしまうのか?
悲しい姿である。

そのおかげでもあるが、今回は校内への立入は気にすることはない。
十分に見ることができた。

北と西にある古墳転用の櫓台、かつては父兄が草刈りをしてすっきりしていたが、今では草茫々の状態であった。
南側の櫓台は以前来た時と同様の相変わらずの草茫々のド藪、堀も鬱蒼とした竹林、これは昔のままだった。
@南東端の櫓台。堀底からは15mほどの高さがある。 A南西側の箱堀の底は竹林になっている。
B西側の古墳転用の櫓台。かつては接近不能だった。 C北端の古墳転用の櫓台と旧田水山小の校舎

手子生城(つくば市手子生)
 「手子生」と書いて「てごまる」と読む。
 この地名には、女性の股に手を添えたら子供が産まれたという由来があるそうである。
 余りにあっけらかんとした大らかな話で思わず笑ってしまう。
 添えたのは手だけじゃないだろう。
 しかし、昔の人はこの由来をよくも真面目に今日まで伝えてきたものである。

その手子生城であるが、つくばの中心地から県道24号線を岩井方向に6qほど行った場所にある。
 西約500mを西谷田川が流れ、その支流が東側を南流し、城の南約1kmの地点で合流する。
 城は2つの川に挟まれた微高地上に築かれていた。
 城域は300m四方の大きさという。

 県道から南に入った場所に立派な城址碑が建っているが、この付近が本郭であったという。
 碑の北側が窪んでいるが、これがかつての堀跡である。
 堀と土塁が周囲を囲んでいたというが、土塁を崩して掘を埋め耕地や宅地にしてしまったらしく何もない。
 
しかし、湮滅城郭でも捜せば結構遺構が見つかることが多い。
 でやはりあった。碑の南200m地点の民家北にちゃんと高さ2m位の土塁が残っていた。
 外郭南側に相当する位置である。
 

 また、そこから少し東の寺の西側には堀が浅くなってはいるがちゃんと残っていた。
 当時は北以外の3方を湿地帯に囲まれ、土塁も高く、堀も深く、幅もかなりあったようである。
 現在は若干の起伏のある平地であり、城の存在さえ感じさせず、かつての要害性も想像も付かない状況である。
 左は重要遺跡報告書掲載図を参考に描いたものであるが、輪郭式の城であったようである。

本郭は長方形であるが、これが築城当時の方形館の姿を伝えていると思われる。
ここを中心に周囲に二郭を拡張したようである。
この姿は笠間市(旧友部町)の小原城とそっくりである。

畑の中にポツンと建つ城址碑。
背後が本郭の堀の跡と言う。
照西寺に残る堀跡。 城址碑の南側200mの民家に残る土塁。

築城は正治年中(1199〜1201)常陸守護職八田筑後守知家の子知重によるものという。
 言うまでもなく小田氏の先祖である。
 以後、廃城まで小田氏の支城であり、建長年中(1249〜1256)には菅谷孝久、正平年中(1446〜1370)には赤松某が城主であったという。
 大永2年(1522)矢口主膳正治重が若挟守に任ぜられて入城し、以後、天文から天正年間にかけて代々小田氏の旗本クラスが城主を勤めた。
 場所的には小田領の西端に位置し、下妻の多賀谷氏との境目の城であった。

 天正元年(1573)小田氏治が佐竹義宣に敗れて小田城が落城し、以後衰退の一途をたどり、天正16年(1588)手子生城に篭るが佐竹軍の前に攻撃を受け 和議という名の降伏を行い、完全に押し込まれる。
 小田氏治が佐竹氏に降伏後、どこの城にいたか分からないが、この城にいたともいわれる。
 それでも虎視眈々と密かに小田城奪回をねらっていたらしい。
 一説によればこの城から最後の奪回戦に出撃するが果たせなかったともいう。
 そして、小田原の役で完全に豪族としての命を絶たれる。
 この城が小田氏滅亡の城であったのかもしれない。

 同年、小田氏の部下であった菅谷範政は滅亡を免れ、土浦から国替となって手子生城主となった。
 範政から5代後、範平の時、元禄11年(1698)遠江に移り、旗本堀田大五郎の陣屋となったという。
 したがって完全に廃城となったのは明治始めということであり、650年近い歴史があったことになる。

若森城(つくば市若森)
 
若森城は桜川右岸の半島状台地先端に築かれた連郭式の平山城(あるいは丘城?)であり、小田城の西2kmに位置する。
 城址の東側を県道19号線がかすめて通る。

 城址の比高は約10m程度で南を除く3方は現在、水田であるが、当時は深田であったと思われ、現在の姿から想像する以上に要害性はあったものと思われる。
 築城時期は不明であるが、下妻城主の多賀谷政経が築城し、白井対馬守が城主という説もある。
 しかし、小田城に近すぎこの説はどうかと思われる。
 むしろ小田城の西を守る支城ではなかったかと思われる。

小田氏の勢力が衰え、この付近まで多賀谷氏の勢力が伸びると、両者間で争奪戦が行われたことと思われるが詳細記録はない。
 ただし、永禄12年5月に佐竹義重が小田氏攻略のため在城したという記録が残る。

 江戸時代には若森城に旗本の堀田氏の陣屋が置かれ、明治維新後、筑波・真壁・西茨城・東茨城・行方・稲敷・鹿島郡28万石を統治するため「若森県」が置かれ、その県庁が二の丸に建てられた。
 しかし、わずか3年弱で若森県は新治県に吸収され、さらに新治県も茨城県に統一された。

現在の若森城跡は堀田氏陣屋時代及び若森県庁時代に大きな改変を受けている。
 このため、戦国時代当事の姿をどの程度まで留めているか疑問である。
 しかし、江戸時代、明治時代は土塁等の防護施設は不用な施設であったため、壊すことはあっても作ることはなかったと思われる。

 こう考えると現在残る土塁や虎口等の施設は戦国時代の姿をそのまま伝えているものと思われる。
 城址には本丸と二の丸が残されているが、かなり土塁は破壊されているようであり、本来の遺構はもっと多かったと思われる。
 しかし、残された土塁等は高さが3m程度はあって立派である。
 本丸部分は杉林であるが、土塁や二の丸部分は草刈等が行われ良く管理されている。

二郭東の土塁と堀跡。 本郭南の土塁。 本郭虎口から見た二郭。 本郭内から見た二郭側の土塁。


大島城(つくば市上大島)

大島城は西に桜川を望む筑波山西麓の微高地に位置する平城である。この場所は小田城から真壁、海老ヶ島城への交通ルート上にあり交通の要衝であった。
 このため、海老ケ島城、小田城の攻防において、大島城も争奪や前進基地として軍勢の駐屯地となった。
 大島城に係わった大名としては海老ヶ島、小田城攻防戦の当事者である小田氏、真壁氏、結城氏、多賀谷氏、太田氏ばかりでなく、小田城を攻める上杉謙信という大物の名も資料に見える。

 大島城は当初、小田氏が北方の守りの拠点として築かれたと思われるが、小田氏の勢力が衰え小田城付近に押し込められると、小田氏攻略のこの方面の先方である真壁氏の前進基地となった。
小田城から小田氏が追い出された後は真壁城の支城となり真壁一族が居城した。
 廃城は佐竹氏に真壁氏が同行して秋田に去った後と推定される。
現在の大島城は、遺構がほとんど分からない。
もともと居住しやすい微高地上の城であるため完全に市街化して大島の集落になってしまっている。
城の規模は500m四方程度もある大型のものである。
真壁氏時代に拡張された姿であると思われる。
集落の中に堀切跡が田畑になって残っていたり、土塁の一部が残っているというが、ほとんど分からない。

かろうじて郭跡と堀跡と思われる場所が見られるが、幻の城と化している。
 完全な平城であるが、現在の姿からは要害性の微塵も感じられない。
おそらく桜川の湿地帯に囲まれ、水堀を巡らしていたものと思われる。

佐城(つくば市佐)

 若森城の北900mにある。城は西側から続く台地東端にあり、比高は15mほど。
東側は桜川の低地であり南東2kmに小田城がある。
 城の西側には自然地形を利用したと考えられる大きな堀跡があり、主郭部には土塁がある。
 城主や築城等については不明であるが、小田城の支城であったと推定される。
西側から見た城址。 西側の堀跡。

沼田竜貝城(つくば市沼田)

 多気城の北2km、筑波山の南西山麓端部の半島状台地にあり、直ぐ南には溜池がある。

東西50m、南北100m程度の大きさである。
 北側を除く三方は水田となっており、北側は堀によって遮断される。

 畑と宅地になりかなりの遺構は失われているが、北側に土塁と虎口が残っていた。
城址北側に残る土塁と虎口。 西側から見た城址。

神郡館(つくば市神郡)
 
多気山城の北東1.6km、田井小学校の東700mに神郡の集落があり、この集落全体が館跡である。
筑波神社の神職の居館跡と言われており、西側に土塁がある。
かつてはもっと遺構があったものと思われるが宅地化等にともない遺構は失われている。

集落西側に残る土塁。 西側から見た館跡。

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