多賀谷城(下妻市本城町)
 「下妻城」ともいう。ところが大宝城も別名、下妻城と言うそうであり、ややこしい。
 言うまでもなく、戦国時代にこの地方一帯を支配した大豪族、多賀谷氏の本拠地である。
 しかし、下妻市街の中心部になってしまったため、遺構らしいものはほとんど残っていない。
 「多賀谷城址公園」内にある城址碑の建つ、土塁の一部のみが唯一の遺構らしい。
 この土塁も公園化するために造ったのではないかと思っていたが、本物なのだそうである。
 この公園が本郭の地であり、西側は低くなっているが、これが堀跡であろう。
 城域は広大で直径1.2qほどあり、城下町もすでに形成されていたという。 

城は周囲が沼となっている島状の微高地に堀を掘り、その土で土塁を築き、堀に沼の水を引き込んで郭を島状に独立させた感じであったらしい。
 城の周囲には「館沼」が存在し、その中に主郭部が浮かんだ感じであったのであろう。
 西には現在も縮小してはいるが、存在する「砂沼」が、東から北にかけては「大宝沼」が取り巻いていたらしい。
 前述のように現在、周囲の堀や沼は埋め立てられ、城址一帯は下妻市街中心部になり、城の遺構はほとんど消滅している。
 ここまで湮滅状態にあるのも珍しい位である。
 佐竹氏の本拠、常陸太田城もこれほどまでの破壊は受けていない。
 公園の外は市街地が広がるのみで、城があったことは言われなければ分からない状態であるが、市街地の東側は低地になっていたり、北西側にはかつての沼の一部、砂沼があったりして、かつての水城の姿はかろうじて想像することが可能である。
 水に守られた城であるため、さぞ堅固な城であったのであろう。
 船による攻撃を考慮し、沼内には乱杭が打たれていたのであろう。
築城は多賀谷家稙によると言われ、関城から本拠を移したことから城の歴史が始まる。
 この多賀谷氏であるが、出身は武蔵国騎西荘多賀谷郷である。
 そこで地頭職を務めていた多賀谷左衛門尉家政が結城直光の家臣となり、結城合戦を潜り抜け、結城家再興時に復活し、「享徳の大乱」の功で下妻三十三郷を与えられ、康正元年(1455)にまず、関城を居城とした。
 その後、家稙は多賀谷城を築いて本拠を移した。
 多賀谷氏は以後、山川氏、水谷氏とともに結城氏の重臣として活躍するが、寛正三年(1462)多賀谷高経が結城成朝を殺害する事件以降、次第に独立色を強め、天文三年(1534)には多賀谷家重は小田政治と連携して結城家からの独立を諮り、合戦となる。
この合戦は決着が付かないまま和睦となるが、結果として多賀谷氏の独立色は強まり、独自の行動を行うようになる。

多賀谷氏は佐竹氏へ接近し、佐竹氏に連動して小田氏を攻撃したり、北条氏と対抗する。
 佐竹氏とは隣接していないため抗争要素がなく、小田氏、北条氏とは共通の敵であったため、敵の敵は味方という感じで結びついたのであろう。
 このため、永禄5年(1562)、11年、元亀2年(1571)と3回北条氏からの攻撃を受けるが、多賀谷城の要害性と佐竹氏の後詰行動によりこれを撃退する。
 もう一つは多賀谷氏の軍事力が鉄砲を中心にしていたことも重要な要素と言われる。北条氏と佐竹・宇都宮連合軍が対峙した天正10年(1582)の沼尻の合戦では多賀谷氏は1000挺の鉄砲を動員している。これは佐竹氏に次ぐ保有量であり群を抜いている量である。 
公園内に残る本郭の土塁。 土塁上に建つ城址碑。

小田原の役では多賀谷重経は佐竹義宣とともに豊臣秀吉に謁見し、領土を安堵されるが、結城氏の臣下に組み込まれる。
 禄高は20万石程度あったらしい。
 これが不満であったのであろうか「文禄の役」では重経は病気と称して参陣せず、養子の宣家、弟の重康を肥前名護屋城に参陣させたが、秀吉の不興を買って所領の多くを没収され6万石まで減らされてしまう。
 さらに関ヶ原の役では、重経は佐竹義宣と行動をともにしたため、芦名氏や岩城氏とともに改易され、一族は離散状態となり、一部は佐竹氏に同行して秋田に去る。
 その後、多賀谷城は徳川頼房が十万石で入るが、慶長14年(1609)には水戸に移り、代わって元和元年(1615)松平忠昌、翌年には松平定綱と次々と城主が代わり、天領になったり旗本領になったりしている。
この頃にはほとんど廃城状態になっていたものと思われる。
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