菅生城(常総市菅生)

常総市役所から南西へ約5kmの台地が入り組んだ場所に位置している。
西2.5kmに菅生沼を介し茨城県自然博物館がある。
城址のある台地は、水海道厚生病院の北側の台地であり、城址の北には、谷津を挟み、島崎製作所の工場がある。
菅生小学校からは東に1qである。
ここに行くには、守谷方面から国道329号線を茨城県自然博物館方面に走り、菅生南交差点を右折し、県道58号を北上、1kmにある平松の交差点を東に入る。すると島崎製作所が見えて来るのでこの工場を目標にすればよい。
工場の南側一帯が城址であるが、あたり一面は畑と牧場であり、ほのかに牛糞の臭いが台地上に漂う。
こんなのどかな場所に城があるのであるが、行ってみると場所が良く分からない。
とにかく行くだけでも道が細いうえ、遺構らしい遺構が見当たらないのである。
しかし、城山、舟路、舟畑、侍屋敷などの城にまつわる字名がここにはちゃんと残っているのである。
城にある台地は、東側の水田地帯からの比高10m程度の台地突端であり、その先端の小山を含めてが城域である。
東西300m、南北100m位だろうか。東の水田地帯は元々、小谷沼といっていたそうである。
先端部の離れ小島のような山、「城山」が本郭なのだが、手入れがされていない山林であり、ほとんど藪状態である。
頂上に城主大権現の石碑があるそうである。
台地間とのくぼ地は、堀というよりは自然の谷津という感じである。
郭内は凹凸や段差はあるのが目視では確認できるのだが、写真を撮るとこれがさっぱりである。
この台地であるが、東、南、西側が沼地であり、北側が台地続きである。

大きな谷津が東から入り込んでいるので、台地としては独立した感じである。
城址の西側一帯は広い平地であるが、馬場と言っているので、ここも城域であり、曲輪があったのではないかと思われる。
西端に別雷神社があるが、この付近に出城があってもおかしくはない。
平成18年度には本郭西の台地東端部、二郭の地で発掘が行われた。
この付近はほとんど畑であるが、発掘の結果、見事な堀が出てきた。
どうも、妙見社がある付近に堀が1本あったようである。さらに、東側にも1本の堀が確認されている。
台地側には少なくとも2つの曲輪があったようである。
堀は深さが4mほどもある急勾配の薬研堀であり、落ちたら登ることはできない位のものである。
東側の堀に至っては、北条系城郭のトレードマーク、畝堀が堀底から検出されている。
しかし、廃城後の耕地化では、この堀は見事に埋め立てたものである。
妙見社の前の道も堀跡らしいが、堀の痕跡も感じさせない。
この城の東にある小谷沼は、鬼怒川、利根川に通じており、水運利用した兵員輸送、物資輸送を管理する城であったようである。
その想定の敵は多賀谷氏であることは疑いないであろう。
築城者は不明であるが、守谷城を本拠とした下総相馬氏の城であったと思われる。東国戦国誌によれば、永禄4年(1561)城主の相馬越前守胤貞が猿島方面へ出陣中、横瀬長氏の奇襲を受けて落城し、胤貞一族は滅亡したとあるが、『守谷誌』によれば、落城が事実としても、一時的なものと思われると書いている。
戦国末期、相馬氏は北条氏の傘下に入るが、これは北条氏の力をバックに南下する多賀谷氏に対抗しようとした結果であろう。
その証拠が、発見された畝堀であろう。
北の大郷生城への物資補給基地であったのであろう。大郷生城が多賀谷氏の攻撃で落城した後は、菅生城が対多賀谷の最前線となり、この時に大改修が行われたものと思われる。
菅生城で戦いが行わなかったとも言うが、大郷生城を落とした多賀谷氏が攻撃し落城したともいう。
あるいは、戦いがなかったとすれば、天正15年(1587)小田原の役で相馬氏も北条氏とともに滅亡し、菅生城はこの時点で廃城となったとも考えられる。
戦国末期、関東北部は北条氏の大攻勢で、沼田の真田氏や宇都宮氏まで危機的状態に陥っているのであるが、ここ常陸南部では、佐竹氏のバックアップを受けた多賀谷氏が攻勢を強め、相馬氏、岡見氏、土岐氏が危機的状態にあり、北条氏に盛んに救援を求めていたのである。

別雷神社から見た城址方向。この畑が馬場という字である。城域なのであろう。 @曲輪V西側の堀。深さ4mの見事な薬研堀である。 A 左の堀は直角に東に曲がる。 B 曲輪U西側の堀
C 曲輪U南側の堀は畝堀である。 D 曲輪Uは堀で南北に分かれるようである。林の中に堀がある。 E曲輪U、Vの北側の谷津付け根の堀。虎口があったのだろうか。 台地西の縁にある別雷神社。ここは出城があったのではないだろうか。

大生郷城(常総市大生郷)
この城もわかりにくい場所にある。常総市役所(旧水海道市役所)から北西へ約5.5km、東仁連川の左岸、北から延びる台地南端部にある。
大生郷天満宮や坂野家住宅を目指していけばよい。
もっとも、大生郷天満宮の境内自体が城址であり、坂野家住宅のある丘の南側が城址にあたる。
主郭は丘末端部であり、水田面から6mほど高く、縁部は切岸になっている現在は宅地、畑となっている。
航空写真を見ると本郭は正方形をしており、明らかに人工的であることが分かる。
この本郭に向かって台地続きの東北方向から馬場と言われる道(幅11m、長さ約200m)あるいは土橋が通じる。
北の台地には堀と土塁が台地を遮断するように存在する。
城址一帯は宅地化され、かなり改変を受けているようである。
台地側部分は武家屋敷があったと思われる。

一方、天神城とも呼ばれる大生郷天満宮の地は台地側から1本の道でつながっている。
これが現在の参道である。大生郷天満宮の境内は直径80mほどの広さがあり、比高は15m。完全な独立丘である。
土塁等は見られないが、切岸は人工的に削った感じである。
周囲には堀が存在していたように思える。この天神城は支城であったというが、この地の方が本郭の地よりはるかに要害性が高く、こちらが本郭であったのではないかと思う。
なお、大生郷天満宮の西側にも小さな丘があるが、ここも城域であろう。
『南方紀伝』によると「興国年中高師冬下総飯沼城に拠る」と書かれている城がこの城であったという。
『下総旧事考』はこの記述をもとに「飯沼古城跡は大生郷に在り・・・・けだし是なり」としている。
(なお、飯沼城はここではなく、逆井城である可能性も大。)
もしそうなら南北期の城ということになる。
戦国末期、天正元年(1573)ころ、ここには北条氏の武将江戸宮内が城主としていたという。
しかし、この方面では多賀谷の攻勢が強まり敗退し、武州小机城主の北条氏政の弟、氏尭が入ったという。
これを多賀谷氏が攻撃、氏尭は敗れ、大生郷城、天神城も落城し灰燼に帰したという。
この時点で廃城になったのであろう。
(逆井城は北条氏の侵略拠点であるという説が有力であるが、この城の攻防戦を見るとその逆であり、多賀谷氏の攻勢に対する防衛拠点ではなかったのだろうか?)
本郭の地は江戸時代には大生寺(上野寛永寺末寺、寺領30石)が建てられたが、明治に廃寺となり、その後は菅原小学校の敷地として最近まで使用されたという。
(「茨城県 重要遺跡報告書U」参照)
大生郷天満宮は独立した台地にあり、ここを天神城ともいう。 大生郷天満宮の境内。土塁があったのかどうかは分らない。 天満宮から東の大生郷城の二郭があった岡を見る。参道は堤防のような道であり、主郭のある岡とつながっていたらしい。 天満宮の西側にも小さな岡があり、ここにも曲輪があったと思われる。

おまけ 坂野家住宅
大生郷城のある台地続き、少し北側にある豪農の住宅で重要文化財。
大生郷城はほとんど見るところはなく、がっかりするが、ここはお勧めである。ここを見るだけでも価値はある。
飯沼干拓の中心人物であったという坂野氏の邸宅だそうだ。
500年ほど前に土着したというから戦国時代、多分、武士が帰農した家なのだろう。
今ある家は18世紀の最盛期の姿に復元修理したものだそうだ。
城壁のような板塀、城門のような薬医門、母屋。これが農民の家と言えるのかというほどの高い格式を感じる。
武家屋敷よりも遥かに立派である。
多くのロケにも使われ、NHK大河ドラマ「武蔵」もここで撮影したとか?
坂野氏が常総市に寄贈し、市により良好に管理されている。
いかに重要文化財とはいえ、現実にこの住宅を維持するのとここで生活するのは大変だったろう。

南側の土塀。切岸は城郭のようである。 母屋。 母屋西側にある住宅は明治時代のもの。これまた格調が高い。 城門を思わせる薬医門

逆井城(坂東市猿島)
中世戦国時代の城を結構忠実に再現していることで有名な城である。
きれいに公園化されており、藪も一切ない。雨でもなんとか見学できるのがうれしい。
訪れたのは生憎の台風が接近した大雨の時、さすがに誰もいなかった。しかし、地面はつるつる、ぐしゃぐしゃ、良く転ばなかったものである。
期待を裏切らない素晴らしさである。
もっとも実際あんな櫓があったのかは分からないが、もしあったとしたらあんな感じの建物であったはずである。
なぜか移築城門があったり、堀の内大台城の御殿を再現した建物があり、ごった煮状態ではあるが、イメージは間違いなく戦国時代。
この基本方針は貫かれている。実際、戦国時代の城はこんな感じであったのであろう。まさに戦国の城の野外展示!
一昔前だったら間違いなく、鉄筋三階建ての鯱を載せた白亜の模擬天守が建てられていたことだろう。

この城が築かれたのは鎌倉末期頃という。小山氏の一族の逆井氏であったらしい。
逆井氏は古河公方の部下であったが、天文5年(1536)、北条氏康の家臣大道寺駿河守に攻められて落城したという言い伝えがあるが、これが事実かどうかははっきりしない。
この時、城主の妻智御前が先祖伝来の釣鐘を被り池に入水したとの伝承が残る。
しかし、天文5年の段階では関宿城、岩槻城も健在であり、北条氏の勢力がこの地に延びることはありえない。天文はおそらく天正の誤りであろう。

この地を確保した北条氏は天正5年(1577年)、佐竹氏や多賀谷氏などと対抗するため、玉縄城主の北条氏繁を城主にし、城を整備し反北条勢力との境目の拠点にしたという。
氏繁は藤沢より鋸曳き職人らを呼び寄せて大規模な改修を行ったという。これが今に伝わる遺構である。
北条の忍者といえば風魔が有名である。その風魔の忍者集団300が駐屯していたという。
氏繁没後は、息子の氏舜・氏勝が後を継いで城主となった。
小田原の役で北条氏が滅亡するが、その時、この城で戦いが行われたことはなかったようである。
おそらく城兵は関宿城に集められ、放棄されてしまったのだろう。

この城は文献には「飯沼城」という名で登場する。
しかし、その飯沼城が場所が分からず、この城と判明したのは昭和57年から始まった発掘調査によってという。
発掘の結果、規模が明らかになり、付近これほど規模の大きな戦国期の城は存在しないのも根拠の1つであろう。それ以前は逆井氏の逆井城があり、ここをベースの整備したものという。おそらく、逆井氏の逆井城は本郭付近の規模ではなかったかと思われる。 

東二郭東側の堀に面した土塁。 東二郭東側の堀。 東二郭内部。結構広く多くの兵が駐屯できる。
本郭南の馬出にかかる木橋。 本郭東側の堀。 本郭東、北端部、横矢がかかり堀が大きく湾曲している。
本郭東の門。 本郭周囲を覆う土塁。高さ1.5mほど。 西二郭北端部、この付近にも船着場があったのだろう。
西側を回る西外堀。 西二郭南の堀。中央部が比高二重土塁の一部。
この付近が船着場か。
有名な風景。櫓と城壁、雨で写りは今一。

城は北側に南北30km、東西1kmという大きさの飯沼があり、そこに望む比高20mの岡にある。
この沼は江戸時代の新田開発(干拓)により水田になってしまっているが、かつての姿は北浦のような感じであり、縄文時代は太平洋の入り江であったらしい。城の西側は谷になっており沼の入り江になっていた。
ここに船着場があった。当然ながら、この城への物資搬入のメインは沼による湖上水運によっていたのだろう。この点では関宿城と同じである。

城は本郭(一曲輪)の周囲を、東二郭、西二郭が取り巻き、その間に馬出がある。
形式的には梯郭式である。
西二郭には観音堂が建つ土壇がある。ここに櫓が建っていたのであろうか。
現在、外郭部は畑となっているが周囲に三郭に相当する曲輪があったらしい。
本郭は直径60m位であり、内部は結構凹凸している。北側を除いて土塁と空堀が巡らされ、東側に虎口があり、門と木橋が再現されている。
南側の馬出間にも橋があったと思われる。東西二郭は合計、東西180m、南北320mほど、面積は約58000uあり、かなりの兵が駐屯できそうである。
外郭部を含めれば城域は400m四方程度の広さであろうか。
この城の最大の見所は西二郭南側に再現された城壁や櫓であるが、その手前の堀が豪快そのものである。
深さは12m位だろうか。
ここに北条氏の優れた築城技術の売り物の1つ、比高二重土塁というものがある。
堀の中の土塁はどちらかというと堀の中に柵を作った時の土台という感じである。
全く同じものが福島県塙町の狐屋(こや)館にある。
こっちの方がはるかに豪快である。
しかも狐屋館は佐竹系城郭である。
なんで北条氏の築城技術という比高二重土塁が、同時期の奥州の城にあるのだろうか。
比高二重土塁は当時の一般的常識的技法に過ぎなく、北条氏の築城技術というのは常識の嘘に過ぎないのではないだろうか。

沼に面した部分は入り江の船着場に向かう通路以外は乱杭が打たれていたのであろう。

この城の位置付けは北条氏の下野・常陸侵攻のための拠点というが、はたしてそうなのであろうか?
確かに戦国末期、北条氏は上野のほぼ全てと下野の半分は制覇する。
しかし、常陸にはほとんど手が付けられない。
何度か侵略を試みるが、佐竹、宇都宮、多賀谷氏の連合軍に撃退される。
逆に戦国末期には、佐竹氏をバックにして、鉄砲集団を主力に勢力を拡大する多賀谷氏が大きな脅威になっていたのではないかと思われる。
これを考えるとこの城は、侵出拠点というより、防衛的な城であり、関宿城の防衛拠点という位置付けであったのではないだろうか。
発掘によれは堀底には夜襲を警戒して焚いた火の跡があり、風魔が駐屯していたという。
これは、南進を狙う多賀谷氏に対する備えの要素の方が大きかったように思える。

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