小坂城(牛久市小坂町)
小野川の低地を南に見る小坂団地の南東端外れの比高25mほどの愛宕山が城址である。
南北150m東西120mとそれほど大きな規模の城ではないが、深い堀を巡らしメリハリの利いた第一級の中世城郭である。
しかし、残念なことに、南側が国道408号の改修工事で削られてしまっている。
特に被害の大きかったのは本郭部であり、1/3程度が失われてしまっている。

城址には北側の団地側から入れるようであるが、きちんとした城への入口はない。
素晴らしい中世城郭であるが、自治体からは、無視されている存在である。

しかし、小坂団地の自治会が保護活動を行い、昨今、城内及び西側斜面の笹藪を刈ってくれたので、西側斜面から城内に突入する。

この斜面を上がった場所が、城の西側を覆う堀外側の土塁上である。
土塁上に立つと、すぐ東が堀@を介して本郭がある。
でもこの堀、深さが4、5m、幅が15mほどもあり、おいそれとは本郭に侵入できない。
これでもかなり埋没しているようであり、当時は深さ8m程度はある迫力ある薬研堀だったのであろう。

この堀は本郭の北側Aを回り、さらに本郭の北側と東側を覆う二郭の周囲を回り、さらに今は失われている本郭南側、つまり、本郭と二郭の外周をほぼ、1周覆っていたようである。

二郭の北側に40m四方ほどの二郭の馬出のような三郭Fがあり、西側に堀と土塁Bがある。
おそらく団地になって削られているが、北側にもあったのであろう。

この曲輪の土塁と堀は、本郭、二郭の周囲を回る堀、土塁に比べて規模は1回り小さい。
三郭の東側に堀とも通路ともつかない窪みGがあり、その東側も曲輪であったと思われる。
また、三郭の西側も平坦であり、ここも曲輪であろう。

二郭には三郭から入る土橋Cがあり、ここから入る。
土橋から土塁間を通り二郭に入ると、そこは二郭の一部が西側に延びた場所である。
正面には本郭北側の堀、そして本郭の切岸が聳える。つまり、侵入した敵は本郭から攻撃されることになる。
その本郭の切岸、横矢Dがかかる。
また、土塁間に切れ目がある。
ここに取外式の木橋があり、通常時は、土橋経由で最短距離で本郭に入っていたのであろう。
二郭は外側に高さ2mほどの土塁を持つ。

二郭は東側が広く、東側部分は東西40m、南北50mほどあったようである。
内部は孟宗竹が凄く、写真を撮ってもさっぱり分からない。

本郭Eには東側から入っていたようであるが、ここは堀底に一度下りてから入る方式だったようである。
本郭内は伐採されて笹が生えている程度。
周囲に土塁があるが、南半分は国道拡張工事で曲輪自体が失われていて、何だか間が抜けた感じである。
東西40m、南北50mほどあったのではないかと思われる。


左の写真は南東下の低地から見た小坂城である。標識右上部分が二郭である。

戦国時代、前期、この付近は小田氏(岡見氏)と江戸崎の土岐氏(当時は、土岐原氏)の境目、抗争の地であり、城が小田氏系の岡見氏のものとして築城されたか、土岐氏の城として築城されたのかよく分からないようである。
この城のメリハリの強さはそんな境目の城としての緊張感を、今日まで伝えているようである。
永正12年(1515)頃、小田氏の勢力が強く、江戸崎城主土岐原景成は小田氏に圧倒されるが、天文11年(1542)頃、土岐原治頼の代には勢力を回復、再度、小田氏と戦闘が始まる。
天文17年(1548)には、この小坂で戦闘があり、土岐原氏方の泉城城主、東條重定がここで戦死している。
この小坂城が舞台だった可能性が大きいという。
その後、この城がどちらの持城であったのかは分からない。
(「茨城の城郭」を参考にした。)

@本郭西側の堀 A二郭(右)北側の堀 B 三郭西側の堀 C 三郭から二郭に入る土橋
D土橋を入ると二郭、正面に本郭の櫓台が。 E 本郭内部はすっきりしているが、先端部が削られている。 F 三郭内部 G 三郭東の堀?通路?

久野城(牛久市久野町)
牛久市にある牛久大仏の南西600m、乙戸川を南に臨む比高20mほどの台地に久野城がある。
この城のある台地は、北側の牛久霊園との間が侵食され、谷津になっており、西から東方向に張り出した半島状の形をしている。
牛久霊園の南側の墓地スぺースの東側が城址部分と繋がっており、そこからも城内に入ることができる。
しかし、ここから入ろうとすると、そこは倒木地獄である。

この30,40mの倒木地獄を強硬突破すれば、この城の西側の虎口Cである。
多分、そこが大手口であったものと思われる。

しかし、できればこのルートは選択せず、城址のある岡の南側の低地に面した道を走り、東側から岡に上がるのが良い。

道沿いに岡に上がるその道が見え、そこを上がると、腰曲輪らしい場所があり、土塁間に開く虎口@のような場所がある。
そこを入ると本郭部である。

内部は墓地であるが、墓碑を見ると野口さん。
この一族、どうも城主の子孫らしい。
ちなみに城主は、小田一族、岡見氏の家臣の野口式部と言われる。
野口氏は天正年間、佐竹氏家臣の江戸崎氏の攻撃を受け敗れ、滅亡したことになっている。

しかし、実際はこの地に帰農したようである。本郭部は50m四方で北側に高さ2mほどの土塁Aがある。南側には横堀がある。

西側の三郭側には、幅10mほどの堀跡Bがあるが、かなり埋まり、2mほどの深さしかない。中央部に土橋がある。

この堀は埋められているようで、本郭側に土塁があったようである。
この堀を介して西側が三郭Dである。
三郭側には堀に面し、低い土塁が残る。南北100m、東西50mほどの大きさである。
内部は杉林であり、比較的平坦であるが、北側が若干、傾斜している。

西端が牛久霊園の墓地に繋がる大手口Cであるが、ここには二重の堀切と土塁があり、馬出のような感じである。
本郭の北側が栗林と畑である。
南北150m、東西100mほどの大きさである。
本来、本郭、三郭間の堀が北に延びていた感じであり、その延長部分が若干窪んでいる。
北東端には祠があり、土塁台のようなものが残る。ここから東に下る道Eがある。

ここが搦手口(あるいはこちらが大手口?)だろう。
本郭と二郭の間に堀があった可能性もあるが、どうもはっきりしない。
(「茨城の城郭」を参考にした。)

@本郭の南虎口を入ると内部は墓地。 A本郭北の土塁 B本郭西の堀は埋められているようだ。
C西虎口は馬出状になっている。 D 三郭内部は栗林と畑 E三郭東の虎口? 

岡見城(牛久市岡見)
牛久の市街地から国道408号で東の稲敷方面に向かい2km、岡見地区の台地南、小野川の谷津に面した台地端部にある。
ここは戦国時代牛久地方を本拠にした小田一族、岡見氏が最初に居城を構えた城であるといわれる。

岡見氏は、小田氏の流れを組む家であり、戦国期には牛久、足高、谷田部等を支配下に置き、最盛期には13万石程度の実力を持ち、菅谷氏とともに佐竹氏やその配下・同盟者の多賀谷氏、真壁氏、太田氏と戦う本家小田氏を支えた。
戦国末期は対佐竹で一貫した態度を採ってきたことと、特に佐竹氏と同盟する多賀谷氏の侵攻圧力の増大に対抗する必要から江戸崎の土岐氏等と同様、小田原北条氏に組したため、天正18年(1590)、北条氏滅亡とともに改易され戦国大名としては滅亡してしまう。

岡見城と通常いわれる遺構は、城址が建つ本城と言われる部分である。
しかし、この本城は比高15m程度の台地端部にあり、北側を除く三方は急傾斜であるが、北側は台地平坦部に続いている地形である。
北側から攻められた場合、非常に脆弱であり、通常なら北側に土塁、堀を持つ曲輪が2つ位あっても良い。
しかし、残る遺構は80m四方程度の単郭の城に過ぎず、これは館の規模のものである。北東側は二重の堀にはなっている。
周囲に帯曲輪があり、虎口は東側と西側の2箇所にある。写真は南東側から見た本城である。
この「本城」部分は精々100m四方程度の範囲であり、それほどの規模でもなく要害性は今一つである。
北側の平坦地には遺構らしいものはない。ところが東側の谷津を挟んだ反対側の岡の上にも西殿と言われる城郭遺構があり、谷津の中を連絡用の堤防道が通っている。
この2つの部分のみを見ると別城一郭と言われる城郭構造である。茨城県内では孫根城が良く似ている。
しかし、この岡見城、この2つの部分に止まらない。
本城址から南東約1200mの台地上に「南殿」という郭があり、さらに県道東側(「南殿」の西側)にも土塁や枡形遺構があり、都合、台地縁部1kmの範囲にわたり、4箇所の城郭遺構が散在している。
この4つの部分は余り連携した構造ではなく、それぞれが独立した城という感じである。
本城、西殿あたり(「西殿」が一番古い形式であるという説がある。
これに対して「南殿」の西の部分は構造上、戦国末期の特徴があるとのこと。)が岡見氏草創期の館として使われ、本拠を牛久城に移した後は一族が居館していたものと思われる。
そして、戦乱が迫る戦国末期に領土の東を守る拠点として整備している段階で戦国時代が終わり、工事が中断してしまったような印象を受ける。
もしかしたら4つの城郭部分を包む外郭の構想があったのかもしれない。
本城東側の堀。 本城東端の櫓台? 本城内部 北西側の虎口

岡見氏が始めて記録に見えるのは、永亨12年(1440)の結城合戦参陣者に上杉方として岡見大炊助の名が見られることである。
この人物が岡見氏の先祖の一人と思われる。岡見氏の起こりはいずれも小田氏が係るが2説ある。
1つは本来下総相馬氏の一族であった師長が、鎌倉末期から南北朝初期、小田治久(高知)の次男邦知(知宗)を娘婿に迎えて岡見の家名を継がせたというもの。
もう1つは、小田成治の弟義治が、ついで政治の弟治資が、それぞれ岡見氏を名乗ったというものである。
いずれにしても小田氏の一族であることは間違いないようである。
岡見氏の名が頻繁に登場するようになるのは戦国末期、小田対佐竹の抗争に絡んで多くの記録が残されるころからである。
それ以前については良く分からないのが実情である。

本当にこの岡見城の本城が始めに構えた城であるのかもはっきりはしない。すでに戦国末期には岡見氏の本拠は牛久城に移っている。
城主としては岡見治部大輔治広の名が見える。また、足高城主として中務大輔宗治が見える。
岡見氏は本家小田氏と行動をともにするが、永禄3年(1560)上杉謙信が関東へ出陣すると、謙信のもとへ参陣する。
その中に岡見山城守の名がある。
彼は小田治孝の弟、岡見右衛門大夫義治の子義綱か孫義知のいずれかであろうと言われる。
岡見治資は、元亀元年(1570)佐竹方の武将、太田三楽斎と戦い討死したという。
治資の治広は幼小のため、足高城主の一族の岡見伝喜入道(頼勝、土岐氏から養子に入った。)に養育された。
天正後半には成長した治広が牛久城主として岡見氏を束ね、足高城主宗治(岡見伝喜入道の子)がそれを支える。
このころ北条氏の勢力がこの地に及び始め、北からは佐竹氏が南下、小田氏を攻撃する。
一方では江戸崎の土岐氏とは相変わらず境界付近で対立していた。

岡見氏が北条氏に接近したのは、佐竹氏とその同盟者である多賀谷氏と対抗するうえでの必然的な結果かもしれない。
一方では仇敵であった江戸崎の土岐氏とは共同戦線を張る。
しかし、対佐竹、多賀谷氏との抗争に北条氏が支援することで、北条氏の支配下に置かれるようになる。
最後は本城の牛久城に北条氏の軍勢が駐留し、人質まで取られる始末であった。
その間にも佐竹、多賀谷の攻撃は激しさを増し、天正8年の谷田部城に続き、天正14年には小張城を奪取、ようやくのことで足高城から撃退する。
ついには板橋城、岩崎城が、そして足高城まで奪われ、牛久城も危機に晒される。
この状況の中で北条氏への依存度は高まり完全に支配されてしまう。
しかし、これが仇となり天正18年(1590)の小田原の役で牛久城は攻撃の対象となり、落城し戦国大名としての岡見氏は滅亡してしまう。
城主岡見治広はしばらく江戸崎に潜居していたが、後に結城秀康に仕えて、越前国へ移住し、その子孫が藩士として続いた。
足高城主であった宗治は、慶長6年(1601)に松平信一が土浦城主になるとこれに仕えたといわれる。

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