小栗城(筑西市(旧協和町小栗)

「小栗判官物語」、最近では猿之助のスーパー歌舞伎「オグリ」により、小栗氏は地方の1土豪に過ぎないが、知名度は抜群である。
その小栗氏の本拠がこの城なのである。
しかし、その居城は藪化し、ほとんど整備されていない状態である。
冬場以外は行っても全貌を掴むのは無理だろう。

南から見た城址。 北東側から見た城址。北を小貝川が流れ、天然の水堀。

城は旧協和町の北、栃木県境の小貝川に東から突き出た半島状の尾根の突端部、標高100mの山にある。
城のある突端部の山付近で小貝川は南から西に向きを変え大きく蛇行し、川が天然の水堀の役目をしている。
城のある山の北面は崖状になっている。川面の標高が50mであるので、城のある山の比高は50mほどである。
東を除く3方は完全な平野であるので、城のある山は平野部からも良く見える。
逆に、城からの眺望も良いので、ここは天然の物見台である。
城を置く場所としては最高である。城があって当然といえる山である。

城に行くには、東の内外大神宮に車を置いて歩くのが良い。
そもそもこの神宮付近も城域であり、西側の民家の敷地もかつては城主や家臣の居館跡に建っていた地のようである。
ただし、こちらの方面はかなり改変を受けているものと思われる。
北西に高圧鉄塔が見えるが、その鉄塔が建つ場所が二郭である。そこまで行こうと思うがさてどう行っていいのか分からない。
民家の人に聞くと、鉄塔のメインテナンス用の道が南側にあるというのでそこを登る。
この道はかなり急であるが、プラスチックの階段がついている。
登り口から既に平坦地が確認でき、途中にも数段の平坦地があるが、これは曲輪である。
これらの曲輪は、南斜面の日当たり良好で、風も防げる場所であり、居住性は良い。

鉄塔のある場所が、内外大神宮の入り口にある公民館前の解説板にあった二郭(U)であるが、鉄塔建設でかなり改変されているようであるが、それでも北側と東側に土塁が残る。
この南側、1段下が三郭(V)であるが、ここは小竹の密集地獄である。内部を確認しようにもどうにもならない。
鉄塔の西側が一段高くなり、本郭(T)である。
二郭(U)からは5mほどの高さがある。本来、西側以外は堀が取り巻いていたようであるが、東側は鉄塔建設で失われている。
しかし、それ以外は完存している。北側の横堀は比較的、藪が少ない。
本郭(T)は40m四方程度の広さであるが、やはりここも藪である。
北側に櫓台のような土壇がある。
ここが山の最高地点でもあり、結構な広さもあることから、城のシンボル的な櫓が建っていたのではないかと思われる。

二郭(U)から東は山が低くなって行く。この方面は尾根続きであるため、堀と曲輪、土塁が多重にかつ、複雑に配置され厳重に防護されている。
二郭の東側に土塁間に開く虎口があり、土橋があり、腰曲輪(W)がある。
この土橋の南側は幅10mほどある竪堀が下っている。さらに東は高さ6mの切岸となり、その下に堀があり、さらに曲輪(X)がある。
ここからも南方向に幅10m以上もある大きな竪堀が下る。
最後の東側の土塁を下りると 「境堀」と通称される道として使われる横掘に出る。
この堀は長さが南北100m以上ある。境堀の東側は一旦、高くなり、「馬場」があったらしい。
その東が内外大神宮の地である。
大手道は内外大神宮西側から馬場を通り、木橋で境堀を越え、二郭に出るルートか、境堀の堀底から二郭に出るルートのいずれかではなかっただろうか。

この城は小栗判官で有名な小栗氏の城であるが、小栗氏は戦国時代前半の康正元年(1455)足利成氏との戦いに敗れ、武家としては滅亡している。
今残る城は戦国時代後半の遺構と考えられる。
したがって、小栗氏滅亡後も使われる。これはこの城の立地条件から考えて当然であろう。
天文年間には宇都宮領であったらしく、小宅尚時が城主の時、天文21年(1552)年、結城氏に攻められ、結城領となるが、永禄3年(1560)宇都宮広綱が奪還し、以後、宇都宮氏が改易されるまで宇都宮氏の東端の城として、対益子、笠間氏、結城(水谷)氏との境目の城であったものと思われる。
今残る遺構は、宇都宮氏が整備したものであろう。
(図説 茨城の城郭、城郭大系を参考にした。)

下の写真の番号は鳥瞰図中の番号と撮影位置が一致します。

@ 本郭の土壇。櫓が建っていたのであろう。 A 本郭北側の横堀。 B二郭は鉄塔建設で改変されているが、東側に土塁が残っている。 C二郭の一段南下にある三郭は、小竹地獄である。
D二郭の東に虎口があり、土橋がある。
その土橋の南側に豪快に竪堀が下る。
E さらに東側は高さ5mほどの切岸となり堀がある。 F 本城部最東端は境堀であるが、境堀の西側に高い土塁が置かれる。 G これが境堀。現在でも堀底は道として使われている。

「小栗判官物語について」
「鎌倉大草子」によると、小栗氏は上杉禅秀の乱で禅秀方に味方し、足利持氏に敗れ小栗城は落城。
城主満重と子助重(小栗判官)は、小栗一族の住む三河の国を目指して逃れる。
相模の国に潜伏していたとき、権現堂にて郡代・横山一統の命を受けた盗賊に毒を盛られた。
しかし、横山の娘、照手姫に救われ、藤沢に逃れ、遊行上人に助けられる。
その後、毒により病が重くなり、遊行上人の導きと照手姫をはじめ多くの人々の情けを受けて熊野に詣で、権現の加護と湯の峰の薬湯の効き目により全快し、小栗城15代当主に復帰するが、康正元年(1455)足利成氏との戦いに敗れ、再度城を追われる(自害?)。
これが「小栗判官物語」のおおよそのあらすじであるがは、色々なバリエーションがある。
時代により様々な尾ひれを付け、娯楽として脚色していったようである。
「小栗実記」では、毒を盛られた小栗判官は一命は取りとめ、藤沢へ逃れ遊行上人の助けを受けたが、毒のため目も見えず、耳も聞こえず、口もきけず、といった餓鬼病の姿となる。
一方、照手姫も家を追われ、流浪の身となり、苦難に満ちた日々を過ごしていたが、家臣らの助けもあり小栗判官との再会が叶う。
しかし小栗判官の病は意外にも重く照手姫の強い思いで、治療のため、歩行もかなわぬ小栗を土車に乗せ、人の情けを頼りに熊野湯の峯を目指しての道行きとなる。
熊野権現の霊験と湯の峯での湯治が奇跡を呼び本復がかない、元気となる。
二人はその後、幸せなくらしを取り戻したとしている。
この照手姫についても横山の娘という話もあれば、持氏とともに小栗城を攻撃した敵方の佐竹の姫という設定の話もある。
宗教的意味あいを持つこの物語は説法として説かれ、僧や説経師、又、熊野比丘尼によって語りひろめられ、時を経て説経淨瑠璃や歌舞伎など芸能化し、民衆に愛される物語として定着、江戸期にはずいぶんと盛んに演じられたようである。
その筋立ては、小栗判官助重の一代をモデルとして創作された宗教説話「説経をぐり」が一般的である。
このように広く流布したため「小栗実記巻之十(「紀伊名所図会」嘉永4年(1851)」には小栗判官、照手姫、その子大六の三人が熊野の山中で熊野権現の霊夢を授かる記述と挿絵があるそうである。
また、照手姫の故郷、相模原市、遊行上人と深く関る藤沢市、照手が水仕女として苦難の日々を送った美濃の大垣市周辺、滋賀県、京都府、大阪府、和歌山県などにもこの物語にまつわる史跡や伝承が数多く残されているそうである。

なお、猿之助のスーパー歌舞伎「オグリ」は正式には「當世流小栗判官」(とうりゅうおぐりはんがん)という。
愛し合う小栗判官正清と照手姫(てるてひめ)が諸国を流浪しすれ違い、辛苦の末に熊野権現の霊験によりようやく結ばれるという、江戸初期の説教節や御伽草子で全国的に親しまれた説話を元にしたものを、猿之助が昭和58年7月にアレンジして初演したもの。
当時は猿之助の小栗判官と照手姫の児太郎で、二人で宙乗りと云うのが話題になった。
「小栗判官」は明治の中頃までは盛んに演じられていたが、その内容のきわどさもあって次第に演じられなったという。
(藤沢市の公式HP、全国をぐり連合(フォーラム)公式サイト http://www.sukuma.or.jp/oguri/index.htm等から引用)


小栗判官助重ばかりが有名であるが、この小栗氏は平氏の系統である。
将門を滅した平貞盛は弟繁盛の子維幹を養子として、常陸に置き常陸大掾となる。(以後、大掾の職が家名となる。)
小栗氏はこの常陸平氏大掾氏の出であり、維幹の孫繁幹の子重義が皇太大神宮の管理人として、常陸国真壁郡小栗邑に移り住み、小栗氏を名乗ったという。小栗氏は源平の合戦、鎌倉時代は大掾氏とともに行動し、室町時代を迎える。
上杉禅秀の乱に呼応して、重政の曾孫重弘の弟重満は応永18年(1411)挙兵。足利持氏の攻撃で同20年敗れて、満重は自殺。
満重の子助重(小栗判官)は結城合戦の功で故郷の小栗城に復帰するが、康正元年(1455)足利成氏との戦いに敗れ滅亡したという。
または、京に逃れ、入道して宗丹と号し足利将軍家に仕え、絵が上手かったという。
一方、重弘の四世重昌が三河国に土着している。重昌の孫、正重が徳川家康に仕え、以後子孫は旗本家として続く。
(三河の小栗氏は源氏を称しているが、徳川氏を配慮した詐称らしい。)
幕末に徳川埋蔵金伝説に係わる小栗上野介(忠順)が出るが、彼がその子孫である。
なお、徳川埋蔵金伝説と小栗上野介は無関係であり、彼は軍艦奉行を務め、横須賀造船所を創設し明治期の産業勃興の基礎を築いた功労者であった。しかし、官軍に対して徹底抗戦を主張したため、引退していたにも係わらず、恨みをかって無実の罪を着せられ、殺害されたというのが真相らしい。
さらに小栗家の家系は続く。子孫が競走馬「オグリキャップ」の馬主であるそうだ。