小田城2007

2007年3月に筑波梅林に行った。
そのついでに久々に小田城に行ってみた。

小田城は茨城県つくば市の北部、筑波山の山麓にある1q四方もある巨大な平城である。

我が恵愛する戦国最弱武将、小田氏治氏が小田氏として最後の城主だった。
この方、戦は連戦連敗、小田城も何度か奪われるが奪還するというスッポンのような粘りを発揮するが、最後はその願いが叶うことはなかった。
弱小の身でほぼ単独で上杉謙信や佐竹義重とガチンコ勝負を演じた。
もちろん、敵うはずがない。
身の程知らずというか・・・。
でも、凄いのはこんな殿様を部下と領民は最後まで見捨てなかったのである。

多くの戦国武将は落ち目になると、部下に見捨てられ、裏切られ、領民からも支持されなくなり武家として滅亡していった。
武田氏しかり、今川氏しかり。
しかし、氏治さんは違うのである。人気があったのである。
どうしてこのような恵愛を受けていたのか不思議である。
余程の「徳」があるのだろう。

この城を追い出され、40年間は佐竹氏が支配した。
不思議なことに佐竹さん、いつでも氏治さんを殺せたはずだが、それ以上、攻撃はせず、武家として存続させているのである。
どうやら佐竹義重も氏治さんに一目置いていたようである。

氏治さんは40年間、我が故地の城が地域支配の城として拡張されていく姿を土浦あたりで見ていたらしい。
そして小田原の役の時、北条氏に唆され?最後の小田城奪還作戦に懸けるが敢え無く挫折。
結局、氏治さんは小田原に参陣しなかったため、秀吉に潰されてしまうのである。

また、話がズレた。
小田城と聞くと、管理人、どうしても最後の当主、氏治さんを熱く語ってしまうのである。

本郭(右)北側の堀 本郭(左)西側の堀 広大な本郭内部、いくつかに区画されていた。
本郭南東端の涼台、天守相当の建物があったのだろうか。 涼台から見た東側の水堀と復元された曲輪 本郭北東端の櫓台跡から見た本郭東側の土塁と堀

城の名前は、南北朝時代、この城で南朝の重鎮、北畠親房が「神皇正統記」を書いたことで有名である。
もちろん今の姿はその時代のものではない。

廃城は関ケ原後、佐竹氏が秋田に去った時の姿である。佐竹の城の姿である。
ほとんどが市街地となり、遺構が失われているが、本郭付近はけっこう残っていた。
ここに初めて行ったのは2003年だった。
HPの古っぽい写真はその時のものである。

かつては筑波鉄道が本郭を真っ二つに分断していた酷い状態だった。
史跡などという価値観が希薄なころにそんなことをしたのだろう。
その鉄道も廃線となり、草ぼうぼうだったが、城址は発掘が行われ、復元された。
復元された姿、これが戦国の城かと思うほどの立派さである。

本郭は120m四方もあり、おそらくこの部分は築城時の大きさであろう。
方形の居館であり、北畠親房はここにいたのだろう。周囲の堀を拡張し、その土で土塁を盛ったのが今の姿なのであろう。
内部は広いが区画されており、城主の居館、政庁、客殿が内部にあったのであろう。
外郭には北条型の馬出が数箇所あるが、多重に囲む曲輪と堀も含めて佐竹氏支配時代に拡張されたものであろう。
佐竹氏の筑波方面の支配拠点として整備されたのであろう。

(以前の記事)

小田城(つくば市小田)

 南北朝時代の騒乱で極めて有名な城。
 言うまでもなくこの城の知名度は、北畠親房が「神皇正統記」を書いた城ということによる。
 城は本郭の西側と北側が小田の市街地となり、ほとんど遺構が失われている。
 しかし、本郭周辺及び南側、東側は曲輪が畑として、堀跡が水田として残っている。
 小田城跡はかつて関東鉄道筑波線(旧名 筑波鉄道)の線路が斜めに縦断し、遺構を破壊していた。(廃線は1987年)
 今は、皮肉にもその線路跡がサイクリング道路になって、道路沿いに返って遺構が見やすくなっている。

 城の歴史は古く、鎌倉時代初期、文治元年(1185)頼朝より常陸守護に任ぜられたこの地の豪族 八田知家の築城と言われる。
 八田氏は2代目知重より小田氏を名乗るようになり、御家人として承久の乱等に出陣している。
 鎌倉末期になると当主治久は南朝方となり、常陸に来た北畠親房を助けて北朝方と激戦を交えたが、興国3年(1341)小田治久は北朝方の軍門に下った。
 以後、小田氏は常陸守護職を奪われ、室町幕府の下で細々とこの地を支配していく。
 戦国時代になるとこの地は中小の領主が乱立して、ある時は味方、ある時は敵となり激しい戦乱が起こる。
 各勢力は結局は上杉、北条、佐竹等の大勢力と結んで、それらの軍事力に頼るようになる。

 小田氏はその中で、独力で領地拡大により戦国大名化を図るが、対立する結城氏、真壁氏等が佐竹氏と結ぶようになると佐竹氏が全面的な相手となり、佐竹の客将、片野城の太田三楽斎との間に抗争が繰り広げられる。

 対抗手段として小田氏治は佐竹氏と対立する北条氏と結ぶようになる。

 この中で小田城は落城と小田氏による奪還が幾度も繰り返されるが、最後は佐竹氏に圧倒され、永禄12年(1568)を最後に小田城は完全に佐竹氏のものとなる。

 小田氏の支配は約380年で終止符を打つが、小田氏はその後もしばらく土浦付近の領土を保全する。
最後は豊臣秀吉の小田原攻めに参陣しなかったことにより、戦国史から小田氏の名は永久に消える。

佐竹氏のものとなった小田城には太田三楽斎の子、梶原政景が入城し、整備が図られるが、慶長元年(1596)磐城 窪田城に移され、替わって小場義宗が入るが、慶長7年(1602)佐竹氏とともに秋田に移り、廃城となる。

この間の城の歴史は420年程になる。
 

小田城の歴史は長く、南北朝史、戦国史に輝かしい名を残す。
しかし、何度も落城を繰り返すように決して堅固な城ではない。
桜川の上の微高地に築いた平城であり、南方は湿地帯に囲まれていたものの、北側は筑波山系に続く台地であり脆弱である。

当初は本郭を中心にした2,3郭程度の館に毛の生えた程度の城郭であったと思われる。
何度も落城を繰り返しても小田氏が滅亡しなかったのは桜川方面の水運を利用して脱出できたためと思われる。
北畠親房がこの城に来たルートも桜川の水運によると考えられている。

現在、左の写真のように、小田城は150m四方もある広大な本郭を中心に発掘調査が行われており、本郭内部は区切られ、居館エリア、政庁エリア、倉庫エリア庭園が存在していたことが分かってきている。

現在の小田城は南方、東方の水田、畑地帯に郭と堀が確認されるが、堀は水堀であり、船着き場があったものと思われる。
 堀の幅は30〜50m程度はあり、いずれも広い。
 堀跡は水田となっているので痕跡が確認しやすい。
 また、郭跡は畑となっている。
@ 本郭南東隅の涼台 A 本郭南西隅部 B 本郭西側の水堀

城の北、西は小田の街が出来て遺構は隠滅状態であるが、この方面にも郭が存在していた。
伝えられる城郭の範囲は北側の山を含めた大規模なものであり、小田の街がこの総構えの中に収まる。
大きさは直径1000mほどに及ぶ。

このように大規模に城を拡張したのは、梶原政景であると言われる。
彼は城の弱点である北側を補強するため、山も含めた大城郭に整備した。

小田城イコール小田氏という印象が強いが、現在見られる小田城の遺構は、小田氏の支配していた頃の小田城の姿ではなく、佐竹氏が支配していた頃の姿である。
その証拠に角馬出など、戦国後期の特徴的遺構が何箇所も見られる。

C本郭東側の堀 D丹後屋敷跡。手前は本郭南側の堀 E 南東端の外郭との堀跡

 さて、なぜ小田氏はこの城に固執したのであろうか?
先祖代々の城ではあるが、要害性は低い。
戦国時代に城を築くのなら山城や平山城の方が防御には有利である。
この疑問についてはやはり穀倉地帯を治める経済的有利性があったことと、桜川の水運を利用していつでも脱出可能という要因があったのではないだろうか?
逆にこれに固執し、小田城を捨てきれなかったことが小田氏の戦国武将としての限界であったのかもしれない。
地理的に有利な土浦あたりに本拠を移してしていれば、より飛躍のチャンスはあったかもしれない。

F 信太曲輪の堀と土塁跡 G 四郭南東端の堀と曲輪 H 五郭西の堀跡

(鳥瞰図中のマル付き番号は、写真の撮影位置の番号を示します。)