真壁城(桜川市真壁町)

 真壁市街地の東、筑波山塊から北西に延びる尾根が平地に至る微高地を利用して築かれた平城。
 東西400m、南北850mの規模を持ち、輪郭・梯郭併用式城郭。
 本郭を中心に5郭よりなり、本郭の西側の五郭は市街地となり隠滅状態であるが、本郭の東側は良く残っている。

 現在は国の史跡指定を受け、発掘調査と並行して整備が進められている。

 築城は一度没落した真壁氏を復興した13代朝幹の時代と推定され、朝幹は西側の亀熊城から真壁城を築いて本拠地にしたと言われる。

 真壁氏は常陸平氏の流れを組む一族であり、浮沈を繰り返した後、朝幹以後、真壁城を中心に勢力を拡大していった。

 その結果は南の小田氏と勢力を接するようになり、小田氏が北条氏と同盟するようになると対抗上、真壁氏は佐竹氏と同盟を結ぶようになる。
 以後、真壁氏は一環して佐竹氏と協力して小田氏、北条氏との抗争を繰り広げることとなる。

 そして、最後は18代房幹の時、佐竹氏の幕下として秋田移封の憂き目に会い、真壁の地を去ることになる。

この時、真壁氏は大量の古文書を携えて秋田に行き、この文書がこの地の歴史を解明する上で重要な役目を果たすことになる。 
真壁城は元々は本郭と二郭程度の小規模な城郭であったと思われるが、17代久幹の時代、真壁氏の勢力拡大に伴い拡張が図られていったと思われる。
 久幹時代の真壁氏は江戸氏、小野崎氏と共に佐竹一門の待遇を受ける「佐竹洞中」の有力な一員であり、その実力は天正10年の北条氏との対決である沼尻合戦では鉄砲200挺を持って参加している。
この軍事力は江戸氏に次いで額田小野崎氏と同程度であり、有力な軍事力を備えていたものと考えられる。
 そして佐竹氏の常陸平定後は家臣団最高の禄高を与えられている。 


真壁城の建物はほとんど存在しないというが、右の雨引山の山門が真壁城の城門と伝えられる。

真壁城の特徴は西側の五郭が武家屋敷等を含む城下町を囲む総構えを持っていることである。
 実際はさらにその西側の城外、現市街地の場所にも街が形成されていたと思われる。
 このため当時は真壁城下は、常陸太田、水戸、府中、下妻に次ぐ規模の城下町が形成されていたものと推定されている。
 これは城が平地にあり城下町が発展する余地が大きかったことも一因にある。

@本郭に建つ城址碑 A 本郭東の堀   B二郭内部、左に三郭間との堀が見える。
C二郭(右)と三郭(左)間の堀 D 四郭東の虎口の櫓台跡 E三郭(右)と四郭(左)間の堀と櫓台群
F 鹿島神社の土塁、ここが一番古城らしい。 G四郭南虎口付近から見た郭内。体育館が本郭。 H復元された四郭南虎口付近の外桝形を見る。

 本郭は体育館のある地であるが、西側は破壊されている。100m×150mの規模があり、現在は土塁や櫓台はない。
 しかし、二郭等に櫓台があるので、当時は存在していた可能性が大きい。北側は堀が複雑に入り組む。西側以外に水堀が残る。
 二郭は本郭を同心円状に覆う。ここも現在は土塁はないが、当時は存在していたものと思われる。。

 城の東側には城下町は無かったようであるが、三郭、四郭が存在する。
 三郭は本郭の防衛上整備される理由が見出されるが、四郭は非常に広く、郭内は中央部がややくぼんだ平坦地である。
 この四郭の存在については、関が原直前に拡張されたと言う説がある。

 四郭は防御陣地というよりは軍勢の駐屯地という感じである。
 当時の真壁氏の動員兵力はせいぜい2000程度と推定され、その程度の軍勢で守備するには城は広すぎる。
 当時、佐竹氏は東軍にも西軍にも属してはいないが、世間は西軍と見ていたようである。
 小山に終結している東軍に対して真壁は西軍の最前線であり、近くの谷貝城や気多山城もこの時期に拡張された様子が伺える。
 この四郭こそは、いざと言う時に佐竹の主力部隊を駐屯させる場所としてこの時期に拡張されたのではなかったかという説である。

 しかし、最近、この説には疑問が呈されている。発掘で出てきたのは、迎賓館のような御殿跡だったという。
 陰の関が原説は幻か?
 城は平地にあるため、水の便が良く、現在でも本郭の周囲は水堀となっているように、堀はほとんど水堀であったと推定される。
 唯一、四郭の東側のみは空堀であったようである。
 城の西側以外は水田、畑として使われていたようであるが、小田城同様、郭の形は良く残っており、北郭もほとんど形を変えていない。
(鳥瞰図中のマル付き番号は、写真の撮影位置の番号を示します。)

桜川市旧真壁町の城
真壁はつくば山の北西山麓にある町であり、佐竹氏の重臣真壁氏の本拠地である。
この地区には真壁氏の巨大城郭、真壁城があるが、真壁氏家臣団の城郭がいくつか良好な状態で残っている。
これらの城は真壁町歴史民俗資料館発行の「真壁町の城館」に詳細に紹介されている。
この本を参考にしながらいくつかの城を紹介する。

谷貝峰城(桜川市(旧真壁町)下谷貝)

谷貝峰城は真壁市街の西側3q、下館方面に向かう県道7号線が観音川にさしかかるやや北、低地を西に見る河岸段丘上にある。
結構、道が田舎道で曲がりくねっているので、道沿いからは城跡は良く見えない。
およその見当を付けて慎重に車を走らせると道の脇の土手の向こうに堀らしいものが・・・。

こういう時は山城では不便な、運転席の高い1ボックスワゴンは有利である。
城は2郭からなっていたようであるが、二郭の外周部は民家や畑になって湮滅。
本郭とその周囲がくぬぎ林の中によく残っている。
本郭はほぼ一辺60mの正方形であり、周囲を郭内からの高さ1.5m位の土塁が囲む。
面白いのは隅の部分が少し突き出しておりそこが櫓台状になっている。
周囲の堀があるが、結構幅がある。幅10mは優にあるが、深さは深さ3mほどしかない。
堀の外側まで含むと100m四方の大きさとなる。この堀の印象としては栃木県石橋町の児山城の堀にそっくりである。
堀底から塁上まで緩やかなカーブを描いており、例え水堀であってもこの状態では役に立ちそうにもない。
埋没してしまった感じでもない。
整備途中で工事を中断したという説があるが、この堀の状態を見ると、大まかに工事を行い浅く切削して堀の位置を決めただけで、本格的施工前に工事を中断したようにも思える。
本郭の西側は低地に面して横堀があるがやはり、鋭さがなく、途中で中途半端に途切れている。
西側以外の面にも二郭の堀や土塁があったらしいが、宅地や畑となってほとんど分からない。東西250m、南北300m位が城域であろう。
北西側、観音川の低地から見た城址。
撮影位置付近は泥田であったのだろう。
本郭南側の堀。幅は広いが深さもなく、
塁の勾配も緩やかである。
本郭内部。周囲を土塁が1周する。 二郭の南側。建物付近に堀があった。
右の畑は削平されたもの。

「真壁町の城館」によると、関が原合戦前夜に真壁城の前進基地として整備されたものであり、完成する前に合戦が終わり放棄されたものと想定している。
当時、東軍は6q北東の下館城に駐屯していたという。
一方、真壁氏の属する佐竹氏は中立とは言っても、西軍に見られていたため、この付近が両者の勢力境界であった。
中途半端な印象からしてこの説も納得できるものである。
ただし、新城をいきなり造るのは東軍を刺激するので、もともとあった城館を整備したものであろう。
現在の立地をみると要害性もない単なる軍勢駐屯地程度にしか見えないが、観音川の低地は当時は沼地であり、水堀以上の要害があったのであろう。

谷貝城(桜川市(旧真壁町)上谷貝)

谷貝峰城の北1.5kmにあり、真壁から二宮方面に向かう道の上谷貝交差点の南西側にある。
南北に本郭がある双子のような城であり、1城別郭というべきかもしれない。
とりあえず北側の郭を北郭、南側を南郭と呼んでいる。

峰城同様、観音川を西に見る台地沿いにある。
もともとは真壁氏の家臣藤田氏の居館であったといい、現在も北郭内は真壁氏が秋田に去った後、帰農した藤田家の住宅になっている。

さすがに藤田家の敷地となっている北郭は大きく100m四方ほどあるが、5角形に近い形状である。五稜郭と非常に形が似ている。
各辺は直線ではなく微妙に湾曲している特異な形である。
この藤田家の南が入口であるが、高い土塁が門のようになっている。
堀底からは4mほどの高さがありこの土塁と堀が周囲を1周している。
ただしこの入り口部分は後世のものであり、本来の虎口はやや西よりにあった。
また、北側、西側、東側にも虎口がある。
本郭部に4つも虎口があるのは珍しい部類であろう。
南郭はかなり破壊されてしまい現在では畑である。北郭の南端から200mほど南に位置する。
こちらは方形であり、比較的古い感じがする。東西80m、南北120m位の大きさである。
北郭が斬新な感じであり、戦国後期に整備されたと考えて良いであろう。
両郭を結ぶ台地縁側にも土塁や段差があるが、結構、藪になっていたり、墓地になって改変されているようである。
両郭の中間に西側に通じる車道があるが、この道の南側に土塁列があり、その南が堀状になっている。
城のある岡は南北に長く、東側もくぼ地のようになっているが、ここには水堀か泥田堀があったのではないかと思われる。
この堀は北郭の外側をまわりこみ西側の低地に抜けているが、埋められてしまっている。
城域としては東西200m、南北600mほどもある結構大きな城である。
西側観音川の平地から見た城址。 北郭の南側、西側の低地に面した土塁。 北郭南側の土塁。
巨大なものであるが上手く写らない。
城址東側。手前の畑は泥田(水堀)跡

この城についても「真壁町の城館」では、谷貝峰城同様、関が原前夜、真壁、佐竹氏によって拡張整備されたとしている。
おそらくもともとあった藤田氏の館をベースに拡張したものであろう。この時、北郭が整備されたのであろう。


亀熊城(桜川市(旧真壁町)亀熊)
真壁市街地の北東、桜川西岸比高5m位の岡の南端部にある。
この付近は民家と畑が多く、かなり破壊が進行しているようであり、どこまでが城であったのか良く把握できないが、所々に土塁のような遺構が点在する。
もっとも城の感じがするのは南端部であり、堀跡や段郭が明確に見られる。
「真壁町の城館」でもこの部分を城郭遺構としている。
この地の地形から推定すると城は真壁城と似たような平城であり、北側、西側には大規模な堀と土塁が存在していた可能性がある。

この城は真壁城に移る前の真壁氏の本城であったという説もあるが真偽のほどはわからない。
真壁城が機能していた時も城の西側を守る城として機能していたと推定される。
城域は東西200m、南北600mとかなり広いがインパクトは少なく、どこが中心部であったのか検討が付かない。
真壁氏家臣団の武家屋敷の団地、城砦集落のようなものであったのかもしれない。
城域内には古く広い民家が多くある。これらは真壁氏が秋田に去った後、帰農した家臣の子孫の家なのではないだろうか。
古い寺もあったというが、寺も城域に取り込まれていたのであろうか。
城址中央東に一段と盛り上がった部分がある。 城址南側。道の脇が堀になっている。