久下田城(筑西市(旧下館市)樋口)

茨城県下館市と栃木県二宮町にまたがっている平城に近い連郭式の平山城。
五行川沿いに存在する藤原秀郷が築いた上館、中館、下館の3館の最北端、上館を戦国期に城郭に拡張したもの。
なお、下館に相当する下館城がそのまま市の名称となっている。
城は五行川西岸の細長い台地上に築かれ、西側は現在、真岡鉄道が走る低地となる。比高は8m程度である。
東側の五行川と湿地であったと思われる西側低地に挟まれた南北に長い台地に4つの郭を連郭式に配置し、東西の低地湿地を要害とした水城に近い性格を持つ。三郭南の堀底に県道216号線が通る。 

 天文14年(1545)結城氏の重臣水谷出羽守正村、通称蟠竜斎が宇都宮氏に備えて上館を拡張して築城した。
水谷氏は結城氏の重臣と言っても、佐竹氏に対する額田小野崎氏や江戸氏のような同盟大名に近く、結城氏からは半独立的な立場にあり、独自に行動することも多かった。
戦国末期、蟠竜斎はこの城を本拠に対宇都宮戦等に蛮勇を轟かせた。
慶長3年(1598)蟠竜斎が没し、後を継いだ弟の勝俊が下館47000石を支配し、大阪冬の陣にも参陣したが、後に備中高松50000石に移封されるとこの城も廃城となった。
実質は小田原北条氏滅亡後、城の戦略的価値は失われ、蟠竜斎も下館城に移っているので、これ以降は廃城状態にあったと思われる。結局、1代限り、約50年弱の短命の城であった。
 左の鳥瞰図は「城郭体系」に掲載された航空写真と現地調査をもとに描いたものである。城址は史跡に指定され、本郭部は公園になっているが、実態は惨憺たる有様である。
三郭は宅地、二郭は畑と宅地となり、堀は消滅し、かろうじて土塁が確認できる程度であり、本郭に行く道も全くの農道である。
本郭周囲の堀は現存しているが、藪状態で管理はされていなく形状は良く把握できない。
本郭部周囲の堀等の遺構は良く残っており、本郭の東下には水堀が存在する。
公園化された本郭内は予算がないのか管理されない状態にあり、鬱蒼とした木々に囲まれじめじめし、蚊が飛び交い、朽ちた遊具が残る。
 本郭には城図が掲示されているが、全く構造が把握できない図である。
それでも、この図によると現在の二宮町の中心部、久下田市街には家臣団の屋敷があったようである。
二郭の南側、林の中に土塁が残る。 二郭の東側、若干の段差が見られる。 本郭南の空堀、藪状態で形状が分からない。 本郭北の堀は幅20m、深さ6mほどの巨大なもの。
本郭内部はさびれている。 本郭の櫓台跡? 本郭東下の水堀。本郭からは10mほど下の位置。 二郭北側の堀切。右が北郭。この堀切が本郭東下の水堀に通じる。