海老が島城(筑西市(旧明野町)松原)
 旧明野町中心部の北、松原地区が城域に当る。
 しかし、この地は周囲の水田より若干高さがある微高地に過ぎない平坦な場所であり、宅地や畑作に格好の場所である。
 したがってほとんどの遺構は失われているのが現状である。
 この地は北の下館から土浦に向かう県道14号線と真壁から下妻に向かう県道131号線、協和からつくばに向かう県道45号線が合流する場所に当り、さらに関城に向かう県道54号線が分岐する交通の要衝でもある。
 都合、この地から7方向に街道が延びていることになる。
 これは戦国時代も同様であり、軍を動かすとなるとどうしてもこの地を通過せざるを得ないことになる。
 このため、ここを抑えるために当然のように築城され、今ののどかな現状からは想像もつかないが、幾多の合戦の舞台となった。
 築城は応仁元年(1467)、結城氏の一族で結城成朝の子、秀千代によると言われ、海老原輝朝を名乗っている。
 この城を巡る合戦としては小田氏対結城氏の対立に、多賀谷、水谷氏、真壁氏がからみ、さらに北条氏や佐竹氏、上杉氏などの巨大大名がからむことにより複雑な様相を呈していた。
 最初は弘治年間の頃で、小田氏と結城氏の間に戦があり、この城の奪いあいがあった。このころ海老が島城は小田氏の支配下にあった。

弘治2年(1566)の第一次山王堂の戦いでは、北条氏の支援を受けた結城氏らが海老が島城奪回のために2kmほど東南の山王堂に陣を置き、城を攻撃、激戦の末に小田氏を駆逐している。
この時、なぜかあの太田三楽斎が北条氏の軍監として結城方で参陣している。
 ついで永禄2年(1559)多賀谷政経が来襲、城主の平塚長信を討ち、海老が島城も落城した。
 永禄7年(1564)小田原北条氏に付いた小田氏を討つため、上杉謙信が山王堂に本陣を置いて小田氏と合戦を行う。
激戦の後、小田勢は敗れて小田城に引き返す。(第二次山王堂の戦い)
いずれの戦いも小田氏は敗れるが、この2つの合戦は野戦であった。
しかし、真実は必ずしも明確ではないが、小田氏治、武田信玄、北条氏康さえも努めて避けた、あの野戦の名人・天才、上杉謙信と野戦で対決するというのは大した度胸である。 海老が島城の南東2qにある山王堂。
集落外れのうらびれた場所にある。
山王堂付近から見た筑波山。田植え
後の水田に映えて美しい姿である。
彼は上杉謙信のうわさは知らなかったのだろうか?
小田城奪回戦や末期の佐竹氏の攻撃による篭城もあるが、小田氏治には手這坂合戦や手子生城の戦いなど野戦が多い。
結構、城を出て戦っている。しかも、ほぼ連戦連敗という戦績である。
どういう理由で城を出て戦うかは分からないが、篭城に向かない平城ばかりの平野部の領主であることもあるのだろうか。
良く理解できない戦国武将である。しかし、よくこんな主君に部下は最後まで見捨てずに付いて来たものである。魅力的な人物であったのだろうか? 
 山王堂の戦い以後、小田氏の勢力はこの方面から完全に駆逐され、海老が島城は佐竹氏の配下、真壁氏の支配するところとなり、最後の城主は宍戸義利であった。
 関ヶ原合戦後の佐竹氏の秋田移封に伴い廃城となった。
 城域は直径600m程度と広大であり、ところどころに遺構が確認できる。
 北側は水田であるが、これは外堀の跡であり、水田に面する住宅敷地の北側には土塁が続いているのが確認できる。
 この他、集落内にも堀の跡が水田となって確認できる。
北西側の新善光寺南東にも土塁と堀が残る。
 城を築くなら西側の四保城から南東方向に延びる台地上の方がふさわしいように感じられるが、周囲が沼地であるという要害性を重視したのであろう。。
 現在の姿からは要害性の微塵も感じられないが、当時、周囲は完全に低湿地であり、台地上よりはるかに要害性が高かったものと思われる。
鳥瞰図は重要遺跡報告書掲載図等を参考に想像してみたものである。周囲の沼地には乱杭が打たれていたことであろう。
城北側は深田であったという。 新善光寺付近に残る土塁と堀跡。 松原保育園南に残る堀跡。二郭の東側にあたる堀である。 これも土塁の残痕か?本郭があった地にあたる場所である。

赤浜堀の内館(筑西市(旧明野町)赤浜)

赤浜東叡山跡、百間濠とも言う。
 下妻から筑波山の麓大島を目指して県道133号を走ると赤浜の交差点の南、赤浜神社の西側の承和寺跡が館跡である。
 人家が所々に建ち、周囲はほとんど畑と杉林であるが、北側に堀跡と思われる溝があり、さらに南に堀が残る。
 この堀は200m四方もあるということであり、200m四方の単郭の館ということになる。
 説明板によると館主は不明。鎌倉時代の館跡で、足利市の足利氏館、鑁阿寺(ばんなじ)にも匹敵するという。
 それにしてもこの規模で館主不明とはどういうことだろう。1豪族の館であれば足利氏と似た位の豪族ということになる。
 その可能性のある豪族は誰だろう?小田氏の一族か?どうも該当者が見出せない。
 見方を変えれば城砦集落の外郭の堀なのかもしれない。写真は県道脇の堀。

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