甲山城(土浦市(旧新治村)大志戸)
この城、昭文社の地図にもちゃんと記載されているので、昭文社の地図を見れば迷うことはないだろう。

位置は、新治村支所の北約2.8km、
東城寺一の滝に源を発する荒張川流域に突出する標高の98.6mの甲山山頂である。
右の写真は南側から見た甲山である。
後ろの電波塔が建つ山ではなく、手前のべったりした形状の山である。

地図にも記載されているのでさぞ立派な城だろうと思うととんでもない。
「なんで地図に記載されるほどの城?」って疑問を抱くほどの小さな城である。
城のある甲山、写真のようにべったりとした丸っぽい山である。
甲のような形なので「甲山」という名がついたという。
南の山麓の大志戸集落からは比高60mほどである。

城へは山の南の中腹に造られた道路沿いに山に上がれる石段の道があるので、まず、この道を探すのがよい。
この道が山頂に建つ三十番神社への参道なのである。
ただし、その石段の道、車では見つけにくい。
降りて探すのが一番。
この道を5分ほど登れば城址である。
登り道は山の形どおり緩やかな道である。

山頂近く、15mほど下に帯曲輪と虎口らしい場所@がある。
ここから岩が並ぶ道を上がると山頂部であるが、途中に門跡を思わせる岩があり、岩か囲った井戸跡らしい窪みが確認できる。
山頂部に至ると三十番神社の小さな社がある。

そこが馬出のような曲輪Aである。
大きな岩が西端にある。

一方、東側に古墳のような土壇Bがある。
神社の社の後ろ、北側が主郭部であり、西側以外を土塁と堀で囲む。
土塁は立派であり、堀底からは4m、曲輪内からは2.5mほどあるEが、堀は埋没している。C

土塁は折れを持つ。D
曲輪としては40m四方程度であろうか。
西側下は帯曲輪(または犬走り)となっている。
この土塁で囲まれた部分は山上部の西端に位置し、曲輪の北側、東側は比較的平坦であるが、城郭遺構はない。
城としてはこれだけのものである。
@山道を登ると虎口らしい場所があり、曲輪がある。 A主郭(右)南の曲輪に三十番神社が建つ。 B南東側に古墳のような土壇がある。
C主郭の周囲の堀はかなり埋没している。 D土塁と堀は北東側で横矢がかかる。 E土塁は郭内からも2.5mほどある。

茨城県重要遺跡報告書Uによると、城の歴史としては、『小神野家古文書』(新治小野小神野家)に、小田家4代時知の3男三郎兵衛時義に始まり、10代経憲までの約300年間、館となった所と記載される。
「初代義時は幼名を小田養寿丸といって幼少から無双のカを有し、長じて武芸に秀いで応材博識の武人であった。
元弘の変の時藤原藤房、藤沢に流され来たるや、その守護として近くの高岡村小神野に住み、小神野三郎兵衛大膳亮時義と名乗った。
小田家5代貞宗のとき、山の荘5百貫に封ぜられ、大志戸甲山に館を築いた。
4代 経近 元弘の乱後、藤原藤房を護衛し、小田治久上洛する。それに従ったものの中に経近の名が見える。
10代 越前守経憲の時、天正元年10月藤沢城落城と共に甲山城を放棄し、小田治久と共に土浦城に脱出、以後甲山城は廃城となる。」と書かれている。

小田氏家臣、小野神氏が戦国末期まで使った城というが、見た限り、戦闘に適する城でもなく、かと言って居館を兼ねた城とも思えない中途半端な城である。
このような丸っぽい山に本格的な城を造ろうとすれば、多気山城や田渡城のように、2重に堀や土塁を回した城、あるいは永井館のように堀、土塁を一周させることが望ましい。
現実には堀、土塁は半周、山頂の平坦部の残りは無防備状態である。
しかし、残る遺構は横矢がかかるものであり、戦国末期のものである。
この矛盾した状態に対する解釈の1つとして、一時的な城、陣城であった可能性もある。
土塁に囲まれた部分に主将の在所とし、周囲の平坦地や南下の帯曲輪に軍を宿営させれば良いのである。
もし、陣城として使ったとすれば小田氏を攻める佐竹氏であろう。

永井館(土浦市(旧新治村)永井)
つくば市から県道53号線を千代田石岡IC方面に走行すると、永井地区でフルーツライン、県道236号線が分岐する。
その分岐地の北西に見える山が永井館である。

この山は大日山と言い、城は別名、「馬場城」とも言う。
この山は丸っぽい、べったりした山であり、北側から南に張り出した部分の先端部が盛り上がっている感じである。

左の写真は南の県道53号線沿いから見た城址のある山である。
写真正面の竹林の間に山に登る道がある。
山は大日山と言い、城は別名、「馬場城」とも言う。

この山は丸っぽい、べったりした山であり、北側から南に張り出した部分の先端部が盛り上がっている感じである。
城には南から道が延び、そこを行くと5分くらいで山頂である。
山の斜面は至って緩い勾配である。
その山頂直下の道@が堀底道のような感じになっている。
堀底道の先に古墳のような土壇Aがある。
その北側に館の堀と土塁が横たわる。
この山頂が館跡なのであるが、直径40mほどの単郭であり、土塁が一周している。
堀は南Bと東、北Cにあり、勾配が緩い南側が一番立派であり、深さは4mほど。

堀の存在しない斜面部は犬走りとなっている。
変った点は北と西に土塁の突き出しがある点である。
これは一種の横矢と言えるものだろうか。
虎口は東にある。曲輪内は藪で歩けない。

どうも斜面部に養豚所があるようであり、ほのかな匂いがこの山の上にまで漂ってくるのには閉口した。
印象としては西1.5kmにある甲山城とそっくりである。
緊急時に立て籠もる城であり、山麓に「寄居」という地名があるというので山麓に居館があったとも推定される。

しかし、甲山に似たこの丸っぽい山は斜面が緩やかであり、四方から攻撃を受けやすく、大人数でないと守りにくい。
緊急時の城に相応しいとは思えない。もともと、居住用の山上居館ではなかったかとも思う。

または、佐竹氏による小田氏攻撃の陣城として使われた可能性もある。
甲山同様、この山上にはかなりの人数の軍が比較的安全に宿営することも可能である。
伝承によると、小田時知の時代、石岡の大掾家の内紛に乗じてこの地までを小田氏が領土化し、大掾氏との境目の城として、小田氏家臣の前野修理がいたという。
最後は佐竹氏が小田氏を制圧することにより廃城になったという。
@竪堀状の登城道は堀底道か? A古墳跡?の土壇は、甲山城とそっくり。
B主郭南側の堀 C主郭北側の堀は藪と埋没が激しい

小高館(土浦市(旧新治村)小高字寄居)

県道53号線沿いにある金獄神社の南西300mほどの所にあったというが、特段、なにもない。

神社の裏山の方が、館の立地上、理想的な感じがしたが、そこは砕石場となり唖然。
遺構はすでに湮滅したのであろう。

館主の小高氏は大掾氏の一族であったという。
小高氏は、戦国時代は小田氏の家臣であったという。犬猿の仲の大掾氏と小田氏の間でどのようないきさつで小田氏についたのか?
しかし、佐竹氏との戦いで没落してしまう。

本郷館(土浦市(旧新治村)本郷)

県道53号線を小田から石岡方面に走行し、北に甲山が見える地点、三台塚交差点西側で県道は「天の川」を越える。
その北側の岡が館跡である。岩瀬弾正の館という。
北西から延びた半島状の岡の先端部に位置する。
岡には西側下から登る道がある。そこを登ると藪と畑、養豚場から出る糞尿が捨てられており、ほのかな香が岡上に漂う。
先端部北側に堀と土塁があるらしいが、密集した小竹とすさまじい匂いで突破を断念した。
航空写真は昭和55年国土地理院撮影のものを利用した。

城址の西側と西側からの登り道。 岡の上は畑と糞尿置き場、藪でどうにも・・・。
右の写真の下の道路が県道53号線。