門毛城(桜川市門毛)
門毛(かどげ)城はかつては洞源寺の場所と言われていた。
たしかに寺のある岡の先端部は鋭い勾配であり、境内は平坦、土塁らしいものもある。
山に続く本堂東側には堀跡らしいものは確認できなかったが、埋められたと説明されれば城址と納得できるような感じであった。
しかし、本当の門毛城は1つ南側の岡末端にあった。

場所はJR水戸線羽黒駅の北約5q場所、県道257号線を北の益子方面に走行し、ここで茂木方面に県道286号線が分岐する。
その分岐点の東に二所神社があり、その裏、東に位置する標高533.3mの雨巻山から南西に派生する尾根末端部が城址である。
栃木県境までは約1.5qである。
尾根末端と言っても、ほとんど岡に近く、だらだらとした広い岡が徐々に高度を下げていく地形であり、城址付近の標高は100m、南側の水田地帯からの比高は約25mに過ぎない。

城としては当初の候補地であった洞源寺の場所の方がふさわしい感じである。
少なくとも洞源寺の場所に出城を置かないと、この城の防衛に支障が出るのではないかと思われる。

城の遺構は南側は宅地Eや畑Dとなっており良く分らない。
県道に面した民家裏が切岸状になっており、裏側に建つ民家の地Eは居館跡のような感じである。
遺構は北東側、雨巻山に続く方面に2重の横堀Aと土塁が構築され、北側斜面に横堀Bが確認できる。
しかし、北側の横堀は埋没が激しく、途中で分らなくなる。
南側は段差Cのみである。

曲輪内@は広いが、緩く傾斜している。
総じて防御性は乏しい。居館があった感じではないが、小屋くらいなら多く?建てられそうである。
このため、どちらかというと軍勢の宿営地のような感じである。
北端部に虎口があるが、これが大手かもしれないし、ここから城内に入る道が街道であったかもしれない。

雨巻山方面の守りが厳重であるが、これは背後からの奇襲に備えたものと思われる。
城内を雨巻山の登る道が通るが、堀を通過する部分は土橋ではなく、後世のものであろう。

@主郭部内は緩斜面であり、あまり整地されていない。 A北東端、雨巻山方面を遮断する横堀。

戦国時代後期の城主は笠間氏家臣の阿保(あぼ)遠江守という。
水谷幡龍記によると天正11年(1583)、笠間家臣の田野城の羽石内蔵之助が結城氏家臣水谷幡龍斎正村に敗れ、門毛城に逃れ、幡龍斎が門毛城を囲んだため、阿保遠江守は降参、養子吉田周防守に門毛城を継がせ、隠居したという。(岩瀬町史)
しかし、この城では攻撃に耐えられるとは思えない。
笠間方が益子氏に備えた城のように思えるが、境目の城の緊迫感はなく、守りを重視した感じもない。

B北側の横堀。埋没しており西側に行くと分からなくなる。 C南側は段郭になっており、曖昧な感じである。

岩瀬は宇都宮氏家臣、益子氏、笠間氏、羽石氏、芳賀氏の領土が入り組み、さらに水谷氏、真壁氏が境を接し城の帰属が頻繁に替ったようである。
文献や戦記によっても記載がマチマチであり真実が分かりにくい。
この門毛城は宇都宮家臣の城であることは間違いなさそうであるが、笠間氏系だろうか?
むしろ益子氏系の城郭であり、富谷城等への支援に向かう軍勢の宿営地、後詰めのための城、あるいは街道を制する関所城であった可能性もあると思われる。

D南西端部は畑になっており遺構は湮滅している。 E南東端部の立派な門がある民家は居館の地か?

門毛城2(桜川市(旧岩瀬町)門毛)
旧岩瀬町北部、栃木県益子町山本地区に向う県道257号線沿いに雨巻山から南西に延びる尾根末端に洞源寺という寺がある。
この寺は南西に延びる尾根末端にあり、比高は10mほど。周囲は結構急である。
この寺の境内が門毛城である。
境内は細長い半島状の地形であり、南西側登り口付近に曲輪跡のような段々がある。
境内の墓地の北側には土塁跡と思われるものがある。
本堂裏に堀切があったというが、埋められてしまったという。
境内にも堀が存在しており、連郭式であったと思われる。
城の来歴は不明であるが、益子氏系の城であったと思われる。

南西下から見た寺登り口 坂を登って行くと山門 境内。左には土塁跡がある。
境内にも堀が存在していたと思われる。

冨谷城(桜川市(旧岩瀬町)富谷)
岩瀬市街地の北に石切場が見える。標高356mの富谷山の南側の石切場である。
その石切場のすぐ南が城址である。
その途中に大雲寺があり、そこを過ぎると右手の林の中に堀@が見えてくる。
これが富谷城である。ただし、この堀は葉のない冬場じゃないと確認できないかもしれない。
城は富谷山の南山麓にあり、150m四方ほどの大きさがあった梯子郭式の城であったと推定されるが、本郭部分がほぼ完全に残っている。
その北側と西側を覆う曲輪(二郭)はL形をしており、幅は30mほどであるが、石切場に行く道路で一部、破壊されている。
城の北側に東西に延びる道路Eがあるが、これが二郭北側の堀を利用したもののようであり、道路に面して高さ3mほどの土塁が残る。
二郭西側は畑となり、その西側の堀が畑となって確認できる。
本郭は60m四方ほどであり、西側と北側は堀がある。
西側は土塁はなく、堀も埋まっているが、土塁を崩して堀を埋めた可能性もある。
しかし、北側の土塁Bは高さ4mほどある立派なものである。
その北側の堀は幅10mほどある。東側は見事な内枡形Aになっている。
本郭C内はかつては竹やぶであったようであるが、竹が刈られて全貌が確認できるようになった。
南端に土壇があり、5m下に帯曲輪Dが巡り、本郭西側の堀と合流している。

戦国時代、ここは益子領であり、益子氏の家臣加藤氏が居城していた。
益子氏と笠間氏は同じ、宇都宮氏の家臣であったが、仲が悪く、天正11年(1583)、百姓同士の境界争いから、冨谷合戦に発展。この冨谷城と南の橋本城間で戦いが発生、益子方が破れ、冨谷城が落城した。


航空写真は昭和49年国土地理院撮影のもの。
@本郭(右)北側の堀 A本郭東下の枡形 B本郭北側の土塁上、高さ4mある。
C本郭内部は最近藪が刈られた。 D本郭南下の帯曲輪 E二郭北側の堀は道路に利用されている。

(余湖君のホ−ムページ参照)

岩瀬城(桜川市(旧岩瀬町)岩瀬)

JR水戸線岩瀬駅の北700m、岩瀬高校西の岡が城址である。
この岡、比高は6mほど。東から西側に半島状に突き出ている。
東西200m、南北60mほどが城域と推定される。連郭式に3つの曲輪が確認されるが、東西に土塁と深い堀を持つ中央の曲輪Tが本郭と考えられる。
東端の曲輪U内は医院となっており、入れない。

東側の岩瀬高校との間の道@が堀跡らしい。道路に面して土塁があるらしい。
曲輪T、U間は幅10m、深さ4mほどの立派な堀Aが残っている。
本郭と推定される曲輪Tは60m×40mほどの大きさ。内部Bは雑木林であったが木が伐採されて入ることができる。
西側は深さ5mほどの深い堀Cとなっている。

曲輪Vは半分が墓地Dとなっているが、曲輪T側には土塁があり、北側も覆っている。
この西側が曖昧になっているが、かつては湿地だったのかもしれない。
岡の南側に道路があるが、帯曲輪の跡かもしれない。

この地の土豪中郡氏の城ともいう。
中郡氏は保元の乱に源頼朝に従い、中郡経高が活躍した。
その後、源頼朝旗揚げの節に中郡経元が従い、頼朝上落に随行して東大寺供奉等に参列したと記録される。
しかし、北条氏により地頭職から追われ、出雲へ行った一族と佐竹氏に仕えた一族がいたようであり、今も県北地方には中郡の姓が多いという。
この話、鎌倉時代のものである。
この城、小さいながらも堀は深く、風化も少なく戦国の感じがする。
戦国時代も使用されていたことは間違いないと思うのだが、果たして誰が使ったのだろうか?
なお、岩瀬高校の東の山には「あやしい城」としても有名な岩瀬城娯楽センターがあり、模擬天守が建つ。
岩瀬城を名乗っているのが笑える。
@曲輪Uと岩瀬高校間の堀は道路。 A本郭(左)と曲輪U間の堀 B本郭内部は雑木林であった。
C本郭(右)と曲輪V間の堀 D曲輪V南から本郭方向を見る。

航空写真は昭和49年国土地理院撮影のもの。

橋本城(桜川市(旧岩瀬町)上城)

 谷中城の真南2q、JR岩瀬駅からは東南1.5kmの加波山から北に派生した尾根末端部分のピークに築かれた山城。
 右の写真は岩瀬市街東側(城の北西側)から撮影した城址である。
 ほとんど無名に近い城であるが、かなりの規模を持つ広大な城である。
 主郭部のある場所の標高は227m、麓が60mほどであるので比高170mある。
 この山は北側山麓にテーブル状の台地があり、その最奥に爪黒神社がある。
 この付近の標高は90m程度であり、平時の館があったのではないだろうか。
 城には神社裏から登って行く。この道が大手道であると思うが、まるで横堀である。
 この道をうねうね登って行くと城の大手口に出る。
 しかし、その途中は倒木ばかりで歩きづらいことこの上ない。
 10分程度登ると城北端の大手口に至る。

 大手口には東西方向に横堀が掘られ、東側は竪堀が下る。
 大手曲輪が10であるが、15m×50mほどの広さがあり、東側と北側に土塁がある。
 西側には曲輪9の切岸が高さ8mほどそそり立ち、威圧する。
 曲輪10は谷津状の部分に築かれ、この谷津を登って行くと、本郭下の曲輪3に行ける。
 その間の高度差は30m位だろうか。途中には数段の平坦地がある。
また、湧水があり、今でも水が湧き出ている。
 当時から水の手として使われていたものであろう。
一方、この谷津の西側の尾根には4から9の曲輪群が築かれている。
 谷津筋の大手道を進もうとすれば西側の尾根の曲輪群からの攻撃を受けることになる。
 曲輪9は大手口を守るための曲輪であり、30m×20mほどの広さがある。
 周囲が土塁で囲まれ、西側に虎口がある。
土塁上からは大手口を見下ろすことが可能である。
 この5m上に曲輪8があり、曲輪9に向けて張り出しがあり、小曲輪がある。
 曲輪8は15m四方の広さを持つ。
 さらに7m上に30m×20mほどの曲輪7。7m上に15m四方の曲輪6。
 8m上に曲輪5と曲輪が段々に積み重なり、最後に曲輪5の5m上に曲輪4が位置する。
 曲輪4は80m×30mほどもある大きな郭である。
ここまでの曲輪には曲輪9を除いて土塁はない。
 曲輪4を南に向かうと曲輪10から登る道と曲輪3で合流するが、土塁を持つ堀切がある。
 

 西側は急勾配である。曲輪3は本郭腰曲輪であり、3段ほどの広大な曲輪で、東方向に張り出している。
 本郭1は曲輪3の南に8mの高さで聳え立つ。本郭は直径50mほどの広さであり、城の最高地点である。
 東側から南側にかけて土塁が巡る。内部は公園のように手入れが行き届いている。
 曲輪3からは東側を廻って登るようになっていたと思われる。
 途中には竪堀があり、下にも曲輪がある。本郭内のやや南よりに高さ4mほどの土壇がある。
 上部は10m×5m位の広さである。物見台が建っていたのであろうか。
 本郭の南3m下に30m四方の曲輪2がある。本郭側以外は土塁が巡るが、内部は笹藪である。
その南は徐々に高度を下げ、深さ6m位の堀切で尾根筋を遮断する。その先は自然地形のような感じである。

爪黒神社からの登城道は横堀状。 大手口には堀があり、曲輪9が立ち
はだかる
大手曲輪10、北側と東側の土塁が
巡る。
曲輪9から見下ろした大手口。
曲輪9は周囲を土塁が巡る。 曲輪7内部。非常に平坦である。 曲輪3、本郭直下の堀切。 本郭内部は良く整備されている。高さ
4mほどの土壇がある。
本郭南の曲輪2。周囲を土塁が
巡る。
曲輪3内部。3段構造の広い面積を
持つ。
曲輪10のある谷津には湧水がある。 登城口の爪黒神社。この付近に平時
の館があったという。

 大手口から本郭方向を見上げると曲輪群が覆いかぶさるように杉の間から見え、非常に威圧感を感じる。
 想像以上に技巧的でしっかりした城である。この付近では羽黒山城と双璧を成す城である。
 この城も南北朝時代の「中郡城」ではなかったかという説もあるが、完全に戦国時代の遺構である。
 応永12年(1405)太田伊勢守定経が築城したというのでやはり中郡城には該当しない可能性が大きい。
 太田氏がどのような者かは分からないが、城主は谷中氏に代わり、天正年間(1573〜1591)には片見伊賀晴信の城となったともいう。
 さらには再度、谷中氏が入り、笠間氏の家臣として橋本城を拠城に益子氏に対抗したという。
 廃城は笠間氏滅亡後であろう。
 この地は笠間氏と益子氏の抗争の地であり、笠間氏の城であったという。
 境目の城として笠間氏の実力以上に巨大化したものであろう。
 しかしながら谷中氏の動員兵力は精々200位であろう。
 笠間氏自体の総動員兵力も1000程度であろう。全兵力をこの城と羽黒山城に入れたとしても両城は大きすぎる。
 この広さは領民の避難用のスペースではなかったのではないだろうか?

松田城(桜川市(旧岩瀬町)松田)
 土浦日大高校のグランド南側の谷津を挟んだ南側にあるが、土塁と堀があるだけである。
 この部分は長さが東西100m程度しかなく、これがこの城(と言えるか?)の唯一確認できる遺構である。

 しかし、土塁と堀は大城郭並みに立派である。
 この遺構が城のどの部分に相当するのか皆目検討がつかない。
 堀の幅は15mほどあり、南側の土塁は櫓台のように見えるが、高さは4m程度ある。
 これ以外の遺構はどうなっているのであろうか?付近を見てもそれらしい遺構や残痕はない。
 城に主郭を置くならもっと西側の高い場所であるはずであるが、それらしいものはない。
 かなりの部分、耕地化や宅地化で失われてしまった可能性も大きい。何か別の目的を持った遺構の可能性もあるが、いずれにせよ謎である。
 岩瀬に南朝の拠点、中郡城があったといわれる。
 
南側に残る櫓台。城址の標柱が建つ。 櫓台背後の堀は結構大きい。

 岩瀬付近が中郡庄という荘園であったので、その中心の城として存在することは納得できるが、どの城のことか分かっていない。
 松田城説もあるし、羽黒山城説もある。
 中郡城は、始めは北朝方の城であったが、南朝方の春日顕国に攻められ、一時春日顕国が居城していたが、北朝方の反攻で落城したという。