土浦城
霞ヶ浦が西に突き出た入り江部分、桜川の沖積地の低地に築かれた平城。
現在は霞ヶ浦の湖畔は1km以上も東に移り、市街地の中に本丸周辺が亀城公園として残るだけの余り見栄えのしない地味な城にしか見えない。
しかし、江戸時代の縄張りを見ると霞ヶ浦を取り込んだ武家屋敷も取り込んだ広大な面積を持ち、幾重もの水堀に囲まれた壮大な水城であったことがわかる。1q四方は十分にあったようである。
この城には、亀城の異名があるが、湖面に浮かぶ城の姿をたとえたものであろう。

現在、城のほとんどの部分は市街地に埋もれてしまっている。遺構は公園になっている本丸周辺の他、浄真寺や神龍寺の境内等各所に残る。
堀部分は道路になっているところが多いという。

室町時代の永享年間(1429〜1440)に小田氏家臣、若泉三郎が築城したものという。
ただし、当初の城の位置は現在の本丸の位置ではなく、土浦二高の地、立田曲輪の場所という説もある。この地に築城したのは水の要害性に着目したこともあるが、霞ヶ浦の湖上交通権の掌握も意図していたのだろう。
当時、霞ヶ浦の湖上交通権は江戸崎土岐氏が握っていたようであるが、大量輸送が可能な水上輸送は収入が膨大であり、小田氏がそれを狙って築城した可能性もある。戦国中期に江戸崎の土岐氏と小田氏は抗争を繰り返すが、土地境界ばかりでなく湖上交通権も絡んでいたのであろう。
直ぐ、北東に木余田城があり、両城とも立地条件は同じである。
両城の関係は分からないが、相互に補完しあう城であったのかもしれない。そういえば小田城と藤沢城の関係にも似ている。

その後、永正13年(1516)年、城主若泉五郎左衛門の時、小田氏内部の内紛で小田氏家臣菅谷勝貞に攻められ、一時的に同じ小田氏家臣である信太範貞のものとなる。
しかし、信太氏が小田氏に滅ぼされると、再び菅谷勝貞の城となる。
戦国時代たけなわになると菅谷氏の主、小田氏は佐竹氏に圧迫され、小田城が奪われるたび、土浦城や木余田城などに避難する。
そして佐竹氏により土浦城も何度か攻撃を受ける。落城は免れたものの小田氏、菅谷氏の領土は土浦周辺に圧迫され、両者とも小田原の役に参陣しなかったことにより改易されてしまう。

しかし、幸運なことに菅谷氏は後に旗本として復活し、江戸時代を生き残ることに成功する。
小田原の役後、城は佐竹氏管理となり、その後、結城秀康の城になるが、本拠は結城城であり、土浦城には城代を置いていた。
江戸時代には、多くの大名が入れ替わる。そして城はその都度、代々の城主により整備されていった。土屋氏が入って城主の交代はなくなり、安定し、8代を経て明治維新を迎える。江戸時代は水戸街道を抑える城としての位置づけが大きく城下町ばかりでなく、宿場町としても発展した。
元和6年(1620)ころ西尾氏時代、東西2つの櫓が建てられた。このうち東櫓は明治17(1884)年に本丸御殿とともに火災で消失、西櫓も昭和24年のキティ台風で破損し取り壊されたが、西櫓が平成2年、東櫓が平成10年に復元された。
明暦2(1656)年に朽木稙綱によって太鼓門建てられたが、これは現存している。天守はなかった。
二の丸東に旧前川門が建つが、この門は郭と町屋を仕切る門であり、江戸時代末期の建築で高麗門という形式だそうである。
明治以降、土浦戸長役場、田宿町等覚寺山門として移築されたが、さらに昭和56年に現在地へ移された放浪する門である。
今の場所が定住地になるのだろうか?

本丸北側の水堀。
土塁がカクカクしているというがそんな感じは
余りない。
本丸南の太鼓門。江戸時代のものである。 西櫓は台風で倒壊して再建されたものである。 東櫓(再建)を亀井郭から堀越に見る。
御用米倉東の土塁。左手は堀跡。 御用米倉南に建つ旧前川門(高麗門)
移築されたものである。
二の丸南側に残る土塁。 本丸西側の水堀。
神龍寺の土塁は墓地の中に埋もれている。 浄真寺土塁の西側。手前は堀跡。 浄真寺曲輪の土塁の東側。 立田郭の西端は土浦二高付近。

亀城公園として残る本丸周辺を見ると、予想外に本丸が小さいことに驚く。
80m×40m程度しかなく、御殿を置いたら櫓を2つ建てるのが精一杯のスペースである。これではとても天守を建てる余裕はない。
二の丸も幅40m程度に過ぎない。市立博物館の建つ三の丸も幅は狭い。
水堀に面した土塁は屏風折れのように湾曲していたというが、そのような感じは余りない。

江戸時代の軍学の影響でそのように改修したというが、実用的な意味が分からない。
中世の城郭に多い横矢の方がはるかに実用性が高い感じがする。
この本丸部分の規模だけを見るととても近世の城の本丸とは思えず、中世の城郭の姿を残しているようにも思える。

それに対して城域は広く、中世の城の本郭を中心に周囲に拡張していった城であると思える。
このような城としては館林城も同じである。
ここも本丸が余りにも小さいのに驚いた。
中世土浦城の位置が立田曲輪説があるが、中世後半には現在の本丸の位置に城が築かれていたのではないだろうか。

本丸には太鼓門(櫓門)が現存するがさすがに年月を経て趣がある建物である。
江戸時代初期の門で現存している門としては関東地方では他にないそうである。
東櫓、西櫓は当時の姿に忠実に再現されているが、お世辞にもデザイン的に優れている感じはない。
本丸の北西、浄真寺西側の土塁がある。
土塁の西外側は児童公園になっているが堀跡であったことは容易に想像がつく。
この堀の西側が立田曲輪である。
この土塁は長さ100m幅6m、高さ3mほどある立派なものであるが、本来はもっと長く続いていたという。
これが土浦城の遺構であることは余り知られていないのではないだろうか。
本丸の西、神龍寺の墓地内にも土塁が残るが、今では墓石に覆われ良く分からなくなっている。
その西側は堀跡であったことが低くなっていることから分かる。

高井城(土浦市上高津字古館)
 国道6号線と県道123号線の立体交差の南西の八坂神社のある台地が城址である。

東側の神社参道脇に城址碑があるが、駐車場がない。
しかたないから北側のポンプ場の駐車場を借用。

この台地は県道側からは比高7mほどであり、南側から突き出した台地先端部である。
神社境内は50m四方程度の広さであり、西北側、南西側に土壇がある。これは櫓台であろうか?
また、周囲に土塁があった形跡がある。

神社の南側は削られてしまい遺構が存在したのかどうか分からなくなっている。

南北朝期の城であり、高師冬によって攻められた城であるとも言うので、桜川水系を支配していた小田氏系の城であった可能性がある。
諸岡盛綱の城とも伝えられる。
主郭内は平坦であり八坂神社が建つ。 北東下県道123号から見た城址、比高は6mほど。

愛宕神社古墳(土浦市西真鍋町)
土浦城の北1km、土浦城を見下ろす北から張り出した岡の縁に愛宕神社がある。
土浦1高の国道125号線の西側に真鍋という地区があるが、余湖さんのHPによると、ここが土浦城に逃れた小田氏治を攻めるため、佐竹氏の陣所が設けられていたと推定される。
確かに地形的にこの場所が土浦城を攻めるための陣所としてはいかにもふさわしい場所である。
また、「小田味方の地利」という史料にも「さたけの陣所、まなへのたい、つちうらきんへん」と記載されており、真鍋の台と呼ばれる場所に陣所があったことになる。
それがこの場所と推定される。

その疑わしい愛宕神社であるが、比高は20mほど、西側が台地続きであるが、残りの3方向は崖や急坂である。
ただし、この崖、自然のものか、崩したものか分からない。

東から神社に登る階段はいかにも城っぽい感じである。
その愛宕神社の社殿が建つ部分、径20mほど、高さ2mほどの土壇になっている。
そしてその周囲は腰曲輪状になっている。
実はこの土壇は古墳の残骸なのである。通称、愛宕神社古墳と言い、埴輪などが出土したそうである。
もともとは大型の円墳ではなかったかと思われるが、かなりの改変を受けている。
古来、古墳を城や砦に使う例は多く、この削平振りは古墳を砦、陣所に転用した証であろう。
立地、文献、改変の状態からもここが佐竹氏が土浦城攻撃のために置いた陣所とみなして差し支えないだろう。
@東側国道125号沿いからの参道は地震で崩壊。 A古墳は削平され、南側は腰曲輪状になっている。

今泉城(茨城県土浦町今泉大字畑)
 土浦北ICの北2q、今泉地区の法泉寺を付近が城址である。
この付近は台地が河川の浸食で開析された凹凸に富む地形となっており、城址のある岡は霞ヶ浦に注ぐ天の川により、西から東に延びた岡となっており、岡東端の法泉寺が本郭となっている。

岡の比高は15m程度であり、寺を中心に台地続きの西の岡、今泉集落一帯が城址である。
岡の周囲は現在は水田であるが、当時は沼地のような感じであったのであろう。

東端の法泉寺を主郭とし、岡続きの西側に曲輪を展開させ、堀で仕切った連郭式城郭であったようである。
しかし、古くから城址は集落となっており、堀や土塁は破壊されてしまった。

城址碑が法泉寺東下に立つが、この岡下付近は水堀があったという。
法泉寺の切岸@、なかなか雰囲気があるが、どこまで本物かは分からない。
北側の民家との間にはかなりの高低差があり、ここは当時のままの塁壁なのであろう。
寺の境内は50m四方ほどであるが、特段、遺構はない。
境内西側の孟宗竹の密集部分はどうやら堀だったように思える。

法泉寺の西側が二郭であり、堀の一部が畑となって残るAが、ほとんど埋められ痕跡程度となっている。
西端部に土塁が残存するというがそこまでは確認していない。

小田城の支城として築かれ、城主は小田氏家臣の今泉五郎左衛門という者であったという。
戦国時代、佐竹氏の小田氏攻略で落城し、廃城になったという。
@法泉寺東下に建つ城址碑 A 外郭の堀跡は畑として残る。

航空写真は昭和49年国土地理院撮影のものを利用した。