登城山城(竜ヶ崎市半田字登城)
 県道68号線と5号線の交わる半田交差点の北の満願寺のある比高20mほどの台地が城址である。
この台地、北の長戸小学校方面から南に張り出した半島状の岡であり、その先端部が城である。

先端部の斜面は急勾配である。
満願寺から入るが、なかなか、この満願寺に行けない。
道が細いうえ、勾配が急である。

途中に車を止めて歩いて行ったほうが確実である。
満願寺自体も城域であり、東側と西側に土塁がある。
本来は三郭に相当する曲輪であったようである。

満願寺の北側に堀切が存在したはずだが、湮滅している。
どうも満願寺へ上がる道が堀切の跡だったようである。

満願寺の南側に堀跡(西側は明確に残る。)があり、土塁の残痕がある。

この南側が二郭であるが、ここは東西40m、南北20mの小さい曲輪である。
馬出のような感じである。
馬出程度といった感じである。
その南側、台地突端部が本郭であり、二郭との間に堀があり、土橋@がきれいに残る。
本郭Bは北側を高さ2mほどの土塁が覆い、直径40mほどである。
東に物見台のような突き出した場所があり、その間が土橋状Cになっている。
本郭、二郭の東側は帯曲輪Aが1枚あり、8m下に広い場所、四郭Eがある。

左の写真は西側の長峰城の麓から見た城址である。

戦国時代、この岡の南は利根川の低地で当時は海が入り込んでいた湾であったという。
湾内の水上交通を監視する城として、また、竜ヶ崎城と江戸崎城を連絡する城として土岐氏が整備したものであろう。
岡の麓、長戸保育園あたりに船付き場があったのではないだろうか。
@本郭と二郭を結ぶ土橋 A本郭東下の帯曲輪 B本郭内部は竹林で藪はない。
C本郭から東に張り出す土壇間の土橋 D 本郭東下の四郭 北の八幡神社に残る土塁

岡続きの西側に要害城という出城があったという。
なお、その間の八幡神社にも高さ2mの立派な土塁がある。
この土塁、神社に伴うものとも思えるが、ここも出城ではなかっただろうか。
水田地帯を挟んで西の対岸に長峰城があるが、この登城山城ほど整備された感じではなく、古い城を出城として、再利用した感じの城である。
(「龍ヶ崎の中世城郭跡」「茨城の城郭」を参考にした。)

長峰城(竜ヶ崎市長峰町)
登城山城の南西側500m、その間にある貝原塚方面から流れる河川の開析した低地の水田地帯をはさんで対岸の岡先端部に位置する。
現在、城址は長峰東公園になっている。

西から東に突き出した半島状の岡先端部にあり、岡の比高は20mほど。
公園化のため、遺構のほとんどは改変を受け、堀跡と思われる部分、曲輪の段差、土壇の一部が認められるに過ぎない。

龍ヶ崎市史中世編によると、土塁らしい構築物はなく、空堀と段差のみで曲輪を造り出し、要所要所に塚のような土壇を築いた城という。

城のある岡は先端部が「Y」字形に二又に分岐していて、北東側に延びる半島状の岡は、先端に向かうに従い段々状に低くなっていく。
北側下には帯曲輪が認められる。

「Y」字の付け根に当たる東に突き出た岡との間は堀のような感じで、土壇のようなものがある。

南側の利根川方面の低地に面する部分には、たんこぶのような山が連なるが、これが曲輪跡。

窪んだ部分が堀らしい。
総じて古いタイプの城跡という感じであり、戦国時代もほとんど改修も受けず、物見台または登城山城の出城として使われていたのではないだろうか。

詳しい歴史は不明であるが、城主らしい人物として「長峰民部」の名が「土岐・岡見氏一族・旗下・家臣等覚書」に登場するという。








南東の低地側から見た城址。
撮影場所は当時は海の入り江だったらしい。
右手300mに登城山城がある。
@曲輪T(右)とXに分岐する部分の土壇 A土壇の城というが、明確に残るのは僅か。
曲輪U跡東に残る土壇
B東に延びる尾根の曲輪X内は段々になっている。

貝原塚城(竜ヶ崎市貝原塚町城山)
竜ヶ崎ニュータウンの北、金剛院Gのある岡付近が城址である。
この金剛院のある岡の別名を「寄居」と言うが、「寄居」はまさに城郭地名そのものである。
この岡には巨大な土塁Fがあるので、城址の一部である。

しかし、城の主要部と推定されるのは、この岡ではなく、谷津を介して、その西にある「城山」という岡である。
なお、金剛院の東の八坂神社のある台地も城域という。
この方面は宅地化しており遺構は不明確であるが、この岡も城域とすれば、東西3つの岡にまたがり、東西700m近い広さを持った城ということになる。
この付近は、周囲が侵食され谷津になっている比高10mほどの台地が連続する。
主体部の「城山」もその1つであり、南から北に張り出した北端部の東西200m、南北300mほどが城域である。

岡は周囲が急勾配Eの高さ10mくらいであり、岡内部は比較的平坦である。
金剛院の墓地から小道が、西の城山方向に向かう。
城山の岡に上がると、その道自体が堀跡Cであることが分かる。
その証拠にこの道に沿って北側には土塁Bが存在する。ちゃんと虎口もある。
この道の途中に北に延びる堀が見える。そこを入って行くと、大きな堀@となる。
場所によっては深さが4,5mほどもあり、堀が分岐Aしたり、西に曲がったり、二重堀になったり、また北に曲がったりしているが、なぜか、岡の途中で消えてしまう。この先があってもおかしくはないと思うのだが、遺構が破壊されたことはないようである。

しかし、この台地の内部、凄まじい藪状態である。とてもまともに歩ける状態ではない。
また、見た限り、台地内は比較的平坦ではあるが、整地された感じではない。
住民の避難場所として準備されたような感じもしないではないが、築城途中で放棄されたと思える。

堀底は通路であり、小幡城の堀のような敵兵の誘導撃滅施設という説もあるが、この城の場合、堀は台地全体の一部に過ぎなく、中途半端である。
小幡城のような構想なら、この台地一面に堀を巡らせ、堀の巨大迷路のようにしなくては価値がない。
なお、台地の北側にも台地に上がる虎口Dのような場所があるが、上がった場所が枡形のような空間になっている。
それだけであり、その先には特段、遺構もない藪が広がるだけ。

結局、何だかさっぱり分からない城である。やはり、築城途中、未完成段階で放棄された感じが強いのだが?
一方、金剛院のある岡には高さ4、5mの大きな土塁が50mほど続いている場所がある。
他にも土塁の残痕が認められるが、台地上はほとんど畑であり、城郭遺構はない。
結局、この城、城には違いないのであるが、さっぱり理解できない城である。
(「龍ヶ崎の中世城郭跡」「茨城の城郭」を参考にした。)

@城山の岡を上がっていくとこの堀が道の脇に見える。 A @の堀を入って行くと、この堀が分岐する。深さは5mほどある。 B @の堀に行かずそのまま進むと道の脇が土塁になっている。 C と言うことはこの道、堀底道だったって訳である。
D 岡の北端部に回ると、この巨大虎口が竹林の中に口を開ける。 E 城山の北端部、低地に面して急勾配な岡である。 F 寄居の岡、竹林の中に巨大土塁があるのだが、全然、写真が撮れない。 G 寄居の岡にある「金剛院」。ここも城の一部。

龍ヶ崎城(龍ヶ崎市)
龍ヶ崎二高のある比高20mの独立台地「城山」が城跡である。
この台地の南側一帯が龍ヶ崎の旧市街地であり、ここはもちろん、この城の城下町から発展したものである。
城のあった台地はもともとは「竜ヶ峰」と言い、これが市名の「龍ヶ崎」の基になった。
この台地は完全に独立した台地であり、おそらく当時、周囲は湿地帯であったのでかなりの要害性があったと思われる。

東側の水田地帯(かつてはこの付近も海が入り込んでいたらしい)から見ると、城のある岡はやたら目立つ。
左の写真は東側から見た城址の丘である。

福島県南相馬市の村上城に似た感じであり、まるで不沈空母のようである。

城のある台地は東端に頂点がある二等辺三角形をしており、東西500m、南北最大300mが城域で、東西に3つの曲輪が堀で仕切られて連郭式に並んでおり、曲輪間を土橋でつないでいたという。
この感じは東海村の石神城に似た感じである。

しかし、肝心の城址であるが、現在、西端にある一番広い曲輪Vに当たる場所が龍ヶ崎二高の敷地になっており、中央部の曲輪Uは削平されて、住宅地になり完全に湮滅してしまっている。

東端が御岳神社の場所、曲輪Tである。
長さ100m、幅30mの瓢箪形をしている。
ここは本郭ではなく、東の物見台及び当時から神社があったと思われるので、精神的中核の場がここだったのではないだろうか。
この点は常陸大宮市の宇留野城とも似ている。
したがって、本来の本郭は、宅地化のため、湮滅してしまった曲輪Uと言えるであろう。

ここには武器庫、金蔵、米蔵などがあり、重要物資が保管されていたのではないかと思われる。(城主の居館等があったのではないかとも思われるが、曲輪Vではないか?)
高校のある西側に土塁があり、北西端には一段高い櫓台があり天守相当の建物があったらしい。
100m四方程度の広さがあったらしい。
高等学校敷地となっている曲輪Vは径250mほどある最も広い曲輪である。曲輪U側に馬出があったという。
北側が段々状に低くなっており、土塁が残存しているらしい。この方面も独立した曲輪に扱う場合もある。

しかし、ここは禁断の高校である。しかも、ほぼ女子高である。(共学にはなっているが、男子は圧倒的に少ない。)入ることは躊躇する。

平日は絶対無理である。
休日でも部活などで生徒がいる。そこにカメラを片手にしたおっさんが来たら・・・これは別の意味で恐怖である。
当然、校内は確認ができない。
この郭は広いので内部が区画されており、政庁や居館、迎賓館等があったのではないだろうか。
高校に上がる道が富士見坂であるが、この道は当時からの登城路であったらしい。校門あたりが大手門だったかもしれない。
岡の下には岡を1周する道路があるが、これは堀の跡という。

築城がいつであったか分からないが、城をおくのには適した場所であり、かなり昔から城は存在していたらしい。
歴史に登場して来るのは戦国時代であり、江戸崎を本拠とする土岐治英が、永禄11年(1568)に次男、土岐胤倫に城の改修を命じたという。
それ以前は竜崎氏の居城であったとも考えられるが、竜崎氏の古城は別のところという説がある。

以後、天正18年(1590)に土岐氏が滅亡するまで約20年間、土岐氏が本拠の江戸崎城の西を守る拠点とするとともに、もう1つの拠点として、領内を分割統治するためと言われている。
この地は交通の要衝・町場であり要害の地でもあったことも大きな理由という。
しかし、土岐氏は北条氏の北上と小田氏の没落に伴い、自衛上、北条氏の傘下に入り、岡見氏と共に、佐竹氏や多賀谷氏らと対峙する。
こんな中、本家、江戸崎城の治綱と竜ヶ崎城の胤倫の間での対立が顕在化し、内紛が起こる。
しかし、内紛の最中に小田原の役が起こり、北条氏に味方する土岐氏は滅亡してしまう。
この時の龍ヶ崎城主、土岐胤倫は幼子頼房を抱え、城を脱出して諸国を流浪、胤倫は流浪の果ての慶長4年(1599)に没したといわれているが、その子頼房はその後、徳川家康から駿河国内で知行を与えられ、名字を母方の豊島に改め、紀州徳川家の家臣として大坂の陣にて活躍。

その後、土岐に復姓。さらに頼房の子土岐朝澄は徳川吉宗の将軍就任で旗本となり、見事に江戸時代も生き抜く。
一方、土岐氏滅亡後、旧土岐氏領は芦名盛重に与えられ、江戸崎城へ移るまでここを居城とした。
盛重が江戸崎に移転後は富田将監が城代を務める。
しかし、慶長7年(1602)佐竹氏の秋田移封と供に芦名盛重、富田将監も去り、龍ヶ崎城は廃城となった。
その後、慶長11年(1606)仙台伊達氏の飛び地となり、龍ヶ崎小学校の地に陣屋を構えた。
(龍ヶ崎の文化財U、図説 茨城の城郭 を参考にした。航空写真は国土地理院が昭和54年に撮影したもの)
 

城址、曲輪Vに建つ龍ヶ崎二高 校門前の階段、急勾配な丘であることが分かる。 富士見坂、当時からの登城路であったらしい。
東にポツンと残る御岳神社、曲輪Tのある丘 これが曲輪T内部。
鳥瞰図に描いた土壇は健在であった。
御岳神社境内から見た参道の石段。
老朽化していて怖い。