小美玉市玉里地区の城

要害館(小美玉市下玉里)

小美玉市旧小川町中心部から南に約2qに東玉里小学校がある。この地区は旧玉里村になる。
その東玉里小学校の南西の山が要害館である。
湮滅した部分があり何とも言えないが、基本的には単郭の城館であったと思われる。
北西側から延びる半島状の丘の先端部に築かれている。

↑ 東の城之内館前から見た館跡

「要害館」というどこにでもある名前がついているが、元々、城には名前はなく、どこも「要害」と呼ばれていた証拠である。
例によってここも藪は酷い。
館には南西側の傾斜地にある果樹園、畑跡に道が延び、ここから入る。
この部分、城域に入ると推定されるが、そこを崩して畑等にしたもののようである。
しかし、管理も放棄され気味であり、いずれもここも藪化するのではないかと思う。
この畑の中の道を進んで行くと、北端の祠のある土壇に着く。

ここは北方を監視する物見台であると思われるが、南下に周溝跡ではないかと思われる窪み(堀かもしれない。)があるので、元々は古墳ではないかとも思う。
ここから尾根が北西に延びる。

北下には民家が見える。
そこを「古屋」というので居館があった可能性もある。(この山の南側の方が日当たりもよく居館には適していると思うが)

@北端の祠のある土壇は物見台だろう。ここは古墳か? A土壇の南にある堀
B主郭北側の堀は横堀となって主郭西側を回る。 C主郭内は藪、南西部に虎口が開く。

この祠から南に行くと、浅い堀Aがあり、さらに南に幅約8m、深さ約4mの立派な堀Bがある。
その南側が主郭である。
この堀Bは主郭の西側を横堀となって覆う。
虎口があり、そこを入ると主郭Cである。内部は藪である。
三角形に近い形をしており、南北約80m、東西最大約50mほどの広さである。

この地の標高は24.4m、今は木で見えないが、ここからは東の霞ヶ浦がよく見える。
霞ヶ浦を監視する城であろう。
また、東下に園部川河口の湖内港を管理する城之内館があり、その後方を守る役目もあったと思われる。

主郭の南西にも虎口Cがあり、深さ約6mの切岸になっている。
その下には馬場といわれる平場がある。
かつては畑であったが、既に耕作は放棄され、笹薮になっている。
西端には墓地が見える。
さらにその下に平坦地があるが、そこは宅地になっている。

ここ玉里は大掾氏の領土であり、家臣の城館であり、館主は久保田平内と伝わる。
天正16年(1588)の佐竹氏による取手山城攻撃に伴い落城したか、天正18年(1590)の佐竹氏が大掾氏滅亡させた時に落城し、廃城になったものと思われる。
(36.1497、140.3448)
(参考:「余湖くんのホームページ」)

高崎城(小美玉市高崎)
霞ヶ浦の北西、最奥部の入り江を南に見る標高24.2mの丘にある。
この入り江の先が高浜であり港があった。
霞ヶ浦最奥部の水運を監視する城であろう。
現在、城址には生涯学習センターが建てられ、遺構は一部しか確認できない。
センター西側を土塁が巡るがこれが数少ない遺構という。

↑ 生涯学習センターから見た霞ヶ浦の北西最奥部。右手が高浜方向。

土塁の西側に「館山神社」が建つが帯曲輪であろう。
主郭部はセンターの敷地が該当すると思われる。
この丘は北西にも続くが、その間には堀があったようであり痕跡が残る。
東側は谷津部を介し、東の丘に権現平古墳があり、ここも城域という。おそらく物見台であろう。(36.1547、140.3310)
応永元年(1368)、鶴町三河守平照光(大掾高幹の一族)が築城したとされる。

数少ない残存遺構の土塁。左側が主郭。 主郭に建つ生涯学習センター


愛宕館(小美玉市下玉里)

霞ヶ浦北西部、湖内に突き出た玉里半島の先端部の標高25mの丘にある愛宕山古墳が館跡である。
立地からして霞ヶ浦の湖上交通を監視する物見台である。

↑ 愛宕館下から見た霞ヶ浦、湖内を監視する役目があったのだろう。

古墳を利用したものであるが、この愛宕山古墳、なかなか凄いし、変わっている。

この台地にある大井戸平古墳群の主墳であり、正式には大井戸平2号墳というのだそうである。
一見、巨大円墳である。
しかし、南側に小さな突き出し部がある。
一応、これが前方部である。
帆立貝式古墳ともいうそうである。
全長は約66mはあるが、後円部が巨大であり高さが約10mもある。
下から見上げると高い!
元々、霞ヶ浦から見えるように古代豪族の権威を示すように築かれたので、その逆に湖内を見渡す絶好の監視場所になる。

墳頂は平であり径約8m、名前となった愛宕社が建つ。
古墳の周囲は平坦であり、南側から西側にかけて周溝が認められる。
しかし、この古墳、どうやって造ったのか?
工学系の管理人、どうしても土木の見地から城や古墳といったものを見てしまう。
土を盛り上げたなら周囲にその土取り跡が残るはずであるが、周溝程度しかない。
周溝を掘った土砂量と墳丘の土砂体積は全く合わない。
おそらく、ここは小山になっており、その山を削ってその土砂を上に重ねることで造り上げたものであろう。
作り方としては同じ小美玉市の竹原にある羽黒山古墳に良く似る。

丘下、県道194号線脇にある愛宕神社の参道 巨大な愛宕古墳後円部、高さは10mある。 墳頂に建つ愛宕社、墳頂部は削平されているようである。

城館としては、墳頂は物見台として使い、周囲の平坦地を兵員の駐屯地に利用したのであろう。
古墳は精々、墳頂部を若干削平した程度でほとんど改変を加えていない。
古墳に敬意が払われていることが分かる。
一方で石岡市小井戸の小井戸要害などは、古墳の墳丘を徹底的に城砦に改変利用している。前方などは完全に曲輪にしている。
古墳に敬意を払っていない。
同じ、古墳の城砦利用でもやり方が違うものである。
南北朝時代の騒乱で、延元元年(1336)、この付近で北朝方の佐竹義春と南朝方の春日顕国・楠木正家とが交戦した大枝の戦いの主戦場となったと言うが、
戦国時代はこの丘の下に大枝の郷という津(湖内港)があったという、戦国時代も大掾氏が使った。
(36.1426、140.3479)

城之内館(小美玉市下玉里)
小美玉市旧小川町中心部から県道194号線を南に約2q、西400mの山際に東玉里小学校が見え、その少し南に要害館が見える。

西側から見た館跡、蓮田が周囲を囲む。

平地内の微高地、城之内にあった方形城館である。
館の東を通る県道194号線は微高地上を通り、これは戦国時代も同じだっただろう。

集落がほぼ館の範囲に相当する。
南北約150m、東西約100mが館域と推定される。
集落の標高は2〜3m、周囲は蓮田である。
周囲の標高は約1m、蓮田の中に浮かぶ島のような場所である。
民家北側に土塁と堀跡が確認できる。

その北にある妙見山古墳や館の南にある大井戸古墳(舟塚、伝馬塚)は物見台に利用されていたのであろう。

おそらく戦国時代は園部川の河口と霞ヶ浦に接しており、湖上を運行する船と川船間の荷物の積み替え、保管を行う湖内港(津)を管理する城だったのではないだろうか?

西の丘にある要害館は後方防護の役目があったのであろう。
館北側、竹やぶ中に土塁がある。その右が堀跡 南の大井戸古墳は物見台だろう。

立地としては土浦の木田余城や沖宿堀の内館と似た周囲の湿地を要害とする館であり、見た目以上に攻略するのは手ごわかったのであろう。
大掾氏の家臣が管理していたが、天正16年(1588)の佐竹氏の取手山館攻撃時に攻撃を受け落城したという。(36.1508、140.3526)
(航空写真は昭和37年国土地理院撮影)

取手山砦(小美玉市田木谷)
旧小川町の中心部の南、国道355号線田木谷交差点から旧玉里村方面に県道144号バイパスを曲がると切通しになっているが、この東側の岡が砦跡である。
ここは北西側から南側の低地に張り出した台地先端であり、この台地は浸食により半島状になっている。
北側が園部川が流れるが、戦国時代は南側の低地まで霞ヶ浦が入っており、園部川が霞ヶ浦に流れ込む場所であった。
当然、ここにも港があり、園部川を利用して運ばれる物資の集積地もあったものと思われる。

この砦の名前、当然、「砦」から来ているのであろう。
おそらく当時も名前はなく、単に「砦」と呼ばれており、それが地名になったのであろう。
このことから、多くの城館には固有の名前はなく、単に「砦」、「要害」、「館(たて)」と呼ばれていただけということの証になるのであろう。

砦があった台地先端部、標高は19m、周囲より少し盛り上がっている場所である。
当時裾まで迫っていた霞ヶ浦の湖内を見渡すには良い場所である。
さぞ、良好な遺構があるのではないか?と期待をいだくのであるが・・・見事に裏切られるのである。

岡にはいくつか行く道がある。
しかし、その前に苦労したのは車を止める場所であった。
岡の周囲には全くないのである。そんなんで岡の周囲を無駄に2周りしてしまった。
結局、少し離れた場所に止め、バイパスの切通しから上がる道を行った。
で、岡の上なのであるが、ただの栗畑であった。
曲輪らしい場所もなく、緩やかな斜面があるだけである。
これを見て城館とは誰も思わないだろう。
がっかりである。

おまけに栗の棘が刺さるという痛い追い打ちに合い、岡を下ることになる。
まあ、いつものことであり最近はこれくらいのことで落胆することもないけど・・・。
熊はいない点では安心できるけど、蛇を踏んだり、すずめ蜂に追いかけられる方が余程恐ろしい。

ここは平成15年に県道144号バイパス建設のため発掘調査が行われている。
その結果、三度に渡り改修されたこと、土塁にトンネルが開いていることと、堀底を利用した連絡通路、大量の鉄砲玉が出土及び鉛玉の精製痕のある石塔の出土、女児の頭部骨片が出土等の結果が報告されている。

岡頂上部を中心に2重堀が構築され、虎口があったという。

イラストは「続 図説 茨城の城郭」掲載図から作成したものであるが、近代戦での塹壕に近い感じである。
おそらく、堀(塹壕)と土塁上には柵列があり、土塁の裏からトンネルを経由して塹壕に鉄砲を持った兵を展開したり、撤収したりさせていたのであろう。
堀が2重にあることから、下位の部分に敵が侵入した場合、上位の堀から攻撃を行うことを意図したのであろう。

いずれにせよ攻撃を受けることを前提の防御戦闘に特化した構造であり、しかも鉄砲での防御を想定した戦国末期の遺構である。
これほどの構造を持った遺構は非常に珍しいのではないかと思われる。

しかし、これらの遺構が確認されたのはパイパスが通る切通し部分であり、肝心の岡頂上部はほとんど城郭らしい遺構はなかった。
このような城館形式は陣城など臨時築城の城に多く見られるものである。

この館については、水戸市田島町にある傳燈山和光院伝来の過去帳に『天正十六戌子四月二十五日、二百余人打死。府中タマリ取出落城。』
砦は府中の大掾貞国が佐竹氏に従う小川城の園部氏を警戒するために築いたものであったという。
しかし、当時は霞ヶ浦が目の前に広がっていたはずであり、港があり、その港を守るための施設でもあったのではないだろうか。

丘頂上部は栗林で内部は平坦ではない。 丘の北斜面は緩斜面、遺構らしいものはない。 丘南側の道は堀跡か?

境目の城でもあったため、何度か戦いの舞台になっている。
永禄6年(1563)、小田氏治が三村城に侵攻し、そこで敗れた大掾貞国は、府中城を捨てて、取手山に退いたという。
天正16年(1588)4月、江戸氏との間に合戦が発生し、取手山には大掾義国や栗又左近政清らが在城していたが、江戸氏を支援する佐竹氏の猛攻に遭い、激戦の末に落城したという。
大量の鉄砲玉の出土はその戦いの証拠であろう。
佐竹軍は大量の鉄砲を使用した証拠にもなろう。
おそらく猛烈な援護射撃の下に竹束を前に立て、防塁を強襲したのであろう。
女児の頭部骨片の出土からなで斬りがあったのであろうか?

飯塚館(小美玉市上玉里) 

石岡から鉾田に向かう鹿島鉄道四箇村駅の南側の比高10mの丘にある。
 四箇村駅からは東南600m程度の距離。国道355号から南に入るが、道が曲がりくねっていて良く分からない。
 旧道に入り八幡神社裏あたりから南に入り、鉄道線路を渡ると低地に出る。
 小川を越えてその南にある台地が城址である。低地から台地に上がると右手にいきなり大きな土塁がある。

150mほど行くと説明板に建っている。
これによると、平安時代、常陸として権勢を誇っていた平国香の一族、五郎左衛門兼忠がこの地に土着し、飯塚氏を名乗り、築城した。

飯塚氏は大掾氏に従いこの地を治めていたが、天正末期、佐竹氏の攻撃で主家の大掾氏とともに滅亡した。

 南から半島状に北に張り出す台地東側にあり、西、北、東は低地である。
 城は台地の尾根上と南側、北側に2重、3重の土塁を巡らし、その土塁に囲まれた台地東斜面に段郭を構成する。

 規模は大きく、丘の日当たりの良い東斜面を利用した居住性の優れた館である。
 館には連郭式に三郭ほどが並んでいたと言う。
城址最北部の土塁は高く、高さ8mほどもある巨大なものである。
館跡北側の土塁。 民家のある場所が居館跡。 館東側。東は低湿地であった。