竹原城(小美玉市竹原)
竹原城に始めて行ったのは2003年10月、それから16年、2020年3月21日、近くを所用で通ったので立ち寄った。
前回はどこまで見たのか記憶が曖昧であるが、残っている写真を見ると入ったのは二郭と本郭東側の帯曲輪くらいだったようである。
日没が近くなり、ろくに見ていなかったということである。

当時は周囲の岡に出城が存在するのを知らなかった。
今回は前回、入れなかった本郭部を始め出城も含めて確認した。

東側、東出城前から見た城址。左の森が本郭部、右の森が二郭、三郭外側の土塁、堀の位置。
北側、北出城下から見た南の本城部。左の森が本郭部、右の森が三郭外側の土塁と堀。

竹原城は竹原小学校の南、約1.2km、園部川と羽黒川が合流する低地に北東側から突き出た台地突端部に位置ある。
台地突端部が盛り上がり、そこが本郭部である。(36.2029、140.3145)
この部分の標高は23.4m、低地部が7mなので比高約15mもある非常に目立つ丘である。

しかも完全な独立丘であり、さらに丘の上が林になっているので、木の高さ分が加算され、周囲からさらに目立つことになる。
本郭部分の大きさは120m×80mほどあり、かなり大きい。
内部は数段になっており、西端部に土壇がある。そこが最高地点である。
一方、本郭部の北側から東側が二郭、北側から西側が三郭であるが、この部分の標高は12〜13m、本郭部からは約10mも低い。
二郭、三郭は畑や果樹園に利用されているので、ここまでは問題なく入れる。

@本郭(左)直下。本郭の切岸は鋭く、加工されている。 A本郭下から見た二郭、三郭、畑等になっている。
左端の林は三郭土塁、右の森は北出城。
B三郭西側、左下に羽黒川が流れる。
左端に見える森は羽黒古墳。右の森は北出城。
C本郭部の登城路、倒竹地獄で進めない。 D本郭最高箇所の土塁上に建つ八幡様の石祠 E三郭北側を覆う土塁。
F三郭外側の堀と土塁 G二郭外側の堀

肝心の本郭部、ここに入るのは大変である。
周囲が鋭い切岸や藪になっているので取り付く場所が分からない。
この鋭い切岸@、おそらく築城時に加工したものであろう。
(おそらく本郭部は独立丘であり、二郭、三郭は丘を削って造成したものではないであろう。)

しかも、丘全体がものすごい孟宗竹と雑木林に覆われる。
これでは「竹原」ではなく「竹地獄」である。

戦後間もないころの航空写真を見ると、内部には木もなく、段差も確認できるのでかつては畑として利用されていたようである。
耕作放棄後、藪化が進んだのであろうが、耕作放棄からはかなりの年月が経過しているようである。
もっとも、人力ならともかく、この丘の上に畑があっても耕運機が登れない・・これじゃあ、耕作放棄は無理からぬことだろう。

丘の北側、解説板裏側付近に登り口があり、そこCを登ると北側の腰曲輪に出るが、密集した孟宗竹の倒竹のため、それ以上の前進は不可能となり、撤退を余儀なくされる。
このルートでは本郭の最高箇所まで到達するのが大変である。

このため、一度、三郭に下り、今度は西側から最高箇所の土壇までの最短距離となる直攀にチャレンジ。
木にしがみ付いて丘上に出、何とか、土壇(土塁)まで到達。
途中、腰曲輪等も確認できた。

土壇の最高箇所Dには八幡様を祀った石祠が建っている。
その周囲の木が切られていたので、管理はされており、お参りに来る人もまだいるようである。
完全に見捨てられている訳でなく、少し感動的でもある光景だった。
しかし、よくここまで来るものだ。

でも八幡様って、源氏が崇拝する神、大掾氏は平氏系のはずだが?
落城後、佐竹氏側の者が征服の証として建てたのか?

二郭は藪であるが、三郭は果樹園、畑A、西側に若干傾斜している。
本郭部の丘下から約100m北に行くと、土塁間に開く虎口となる。
西側には土塁Eが約100m続く。
虎口を出ると土橋があり、左右に堀が広がり、ここで外郭部と遮断される。
ここまでが本城部分である。

南北約300m、東西約200mの広さがあり、居住はもちろん、倉庫群や兵員の駐屯も十分可能であり、大掾氏の本拠、府中城の北を守る拠点城郭に相応しい規模である。
しかし、疑問なのは府中城の間に園部川がある。
園部川は天然の水堀である。
府中城の防衛を考えるなら園部川を水堀に見立てることができる対岸、南側が位置的に望ましいのであるが、この場所なら位置付けは川を越えた橋頭堡である。
さらに北に位置する鶴田城の後方拠点であるとともに、江戸氏、佐竹氏方の堅倉砦、小幡城を攻撃するための拠点でもあるのであろう。
今の竹原城、北側に虎口があり、こちらが正面、大手のように思われるが、南側の園部川にかかる橋の名が「大手橋」といっている。
府中城との関係を考えれば、南側が大手であり、園部川の流れる低地に木橋等が存在していたのではないだろうか。
北側の虎口は出撃路と言うべきものかもしれない。

竹原城、この本城部分でもかなりの規模であり、堅固な造りであるが、北側の丘からは城内を望むことができる。
北側の丘を敵に占領されるとかなり不利な状況となる。
このため、竹原城を望める、あるいはアクセスできる北側と北東側の丘に出城が構築される。
外郭陣地である。

一応、北出城、東出城と呼ぶが両者の間には緩い谷津が入っているだけである。
本来、北端にある堀で両者がつながっており、一体のものであったかもしれない。

北出城は標高25.8mの位置(36.2048、140.3174)にあり、本郭部のある丘上より若干高い。

J竹林の中に堀があるが埋没しており分かりにくい。 K土壇があるが、物見台か?古墳にも思えるが。
丘上には東西に塹壕のように堀Jが構築されているが、埋没が著しく、本来の姿が分かりにくく曖昧な感じである。
堀は凸状になっている。その一角に土壇Kがある。
物見台のようであるが、この付近には古墳も多いので古墳を転用したものかもしれない。

その西下部、羽黒古墳がある丘が西に見える部分にも堀があるが、ここは藪で写真を撮っても分からない。


L丘上は比較的平坦で広い。土壇に社が祀られる。

一方。本城の北東側にある東出城(36.2033、140.3190)は遺構が明確である。大きさは約100m四方である。

標高は25.3m。
本城との間には水田となっている低地があり、北出城の方が本城にアクセスしやすいが、造りは東出城の方が厳重である。

ここには3重の横堀が構築され、そのうち南側の横堀Mは深さ約4m、幅約7mあり、本城の遺構より明瞭である。

真ん中の堀Nはかなり埋没した感じであるが、土橋が確認できる。
一番外側、北側の堀Oは林の伐採で出た細断した木が放り込まれている状態であるがもともとの規模は南側の堀と同程度であったと思われる。
これらの3重の堀の後ろ側は約50m四方の平坦地になっており、社が祀られる土壇がある。
古墳か?南下には凹状になった窪地があるが、後世のものか?

M一番南側の堀はしっかり造られている。 N真ん中の堀はかなり埋没している。 O一番外側の堀には伐採した木が放り込まれている。

永禄2年(1559)に府中に本拠を置く大掾貞国の弟義国が竹原の地に始めて城を築いたという。
天正18年(1590)佐竹氏の攻撃で宗家の府中大掾氏と共に滅んだと伝えられているが、この攻撃は1日で終わっている。
果たしてここ竹原城で攻防戦はあったのか?おそらく、佐竹軍は大軍を数手に分けて侵攻させたと推定され、竹原城は自落のような形で落城し、戦いは行われなかったのではないかと思う。

なお、北約700m、国道6号線沿いにあったという弓削館が園部川上流方面を守る竹原城の出城だったという。
さらに弓削館と竹原城の間には羽黒古墳があるが、羽黒古墳からは竹原城内がよく見える。↓

両者間には羽黒川があるものの羽黒古墳も出城として使っていたのではないかと思われる。
(参考:「続 図説 茨城の城郭」)

弓削砦(小美玉市竹原)
竹原小学校の西側、国道6号線が丘を分断する東側にあった。
場所的に竹原城の北、園部川上流方面を守る城の1つである。

主郭のあった部分は若干高く、国道6号線が西側を通り、講堂約50m四方、標高は25.9m、園部川からの比高は約17m。
葦が密集しており内部には入れる状態にない。

城主は、弓削出雲守猪右衛門という。天正13年(1585)、江戸重房が片倉砦を築城したのに対抗して、大掾氏によって府中城北方の竹原弓削に砦を築いたのが始まりとされる。
翌年、天正14年(1586)、江戸氏の軍勢の攻撃を受け、陥落したとされている。


↑主郭と推定される丘の最高箇所、葦原である。
←太陽光発電パネルの上が主郭推定場所。
ブルーの部分が外郭の堀と谷津部。緑が曲輪部。道路は国道6号線

平成6年(1994)、主郭想定地の北側の横町新農村集落センター(公民館)建設工事に伴う発掘調査が実施され、1条の堀跡が確認されている。
これが主郭外周を回る堀の可能性がある。
堀跡は薬研堀で、幅3.3m、深さ1.5mを測る。
また、土師質土器(皿・内耳鍋・擂鉢)、瀬戸美濃系陶器(天目茶碗・小皿)、常滑産陶器(大甕)などが出土しており、掘は戦国末期の江戸氏ー大掾氏間の攻防戦が行われた頃のものと思われる。
現状、周囲には堀跡らしいものも確認できない。

しかし、さらにその外側の東側、墓地との境付近から北に堀跡のような低い部分が延び、北側の谷津に合流する。
主郭の外側に外郭が存在し、その外側を回る堀の可能性がある。
これが堀とすれば、台地から独立したエリアが形成される。
東西約150m、南北約200mがその範囲である。これが弓削砦の範囲ではないかと思われる。
2郭からなる梯郭式城郭だった可能性がある。

弓削道鏡が住んだという伝承があるというが、これは伝説の域は出ない。
余湖さんは「弓削」は「要害」が訛ったものではないかと推定している。
確かに「要害」が訛った地名として「ゆうがい」「ゆうげい」が存在する。
「ゆげ」もその訛りの1パターンの可能性は大いにある。
(36.2116、140.3131)
航空写真はYahoo地図の写真を切り抜いて使用。
(参考:「余湖くんのホームページ})

羽黒古墳(小美玉市竹原)
竹原城の西側の北から南に延びる半島状の丘先端部にある。
丘の西側を園部川が、東側を羽黒川が流れる。

↑は東側、竹原城北出城西下から見た羽黒古墳。撮影位置との間に羽黒川が流れる。

古墳のある丘の標高は24.4m、竹原城の北出城と同じ標高で園部川からの比高は約16m、その北出城は羽黒川を挟んで反対側にある。
竹原城の本郭からは直線距離で北に約400mという至近距離である。
この位置関係からして出城の1つと考えられる。

↑羽黒古墳。史跡にふさわしい立派な墳丘である。周囲の平坦地は兵員の駐屯地にも使えると思われる。

羽黒古墳は全長67m、後円部の径34m、高さ7m、前方部は幅15m、高さ3.5mの前方後円墳である古墳時代前期の古い形式を持つ1号墳がメインであるが、他に2基の陪塚である円墳(1基は湮滅)からなる古墳群を形成している。
古墳自体を城郭に改変した様子はなく、出城として使ったとすれば、墳頂部を物見台に使ったり、古墳周囲の平坦地を兵員駐屯地に曲輪に使ったのだろう。
古墳を利用した玉里の愛宕館がそっくりである。

この古墳の北側、半島状台地を仕切るように土塁の残痕のようなものが見られるが、これは城郭遺構なのだろうか。(36.2073、140.3155)
←古墳(中央奥に墳丘が見える。)の北側に土塁の残痕と思われるものが残る。

高原城(小美玉市竹原中郷)
竹原城の南東約800mにある。
園部川を西に望む標高24m、比高18mの丘上にある。
南西下に鳳林院という寺院があり、その南東に「農村広場」という公園がある。
その北側にあったという。

美野里町史上巻によると「平安時代末〜鎌倉時代初期の御家人、下河辺政義(南郡総地頭職)の子である景政が竹原中郷の地に高原城を築き、高原四郎と名乗り、子の重政と二代にわたって、地頭職となった。
南北朝期になると、下河辺氏は、南朝方に属し、永徳年間(1381〜1383)、下河辺一族の宍戸益戸氏の所領没収によって、高原氏も連座し、高原城も廃城となったとされている。
戦国期には、竹原氏が再び入り、「中郷城」と称したとの伝承もある。
南北182m、東西127mの方形居館とされる。
現在は、東西方向の土塁が長さ34m、高さ1.8〜2.5mの規模で残存している。
平成20年、市道改良工事に伴って実施した発掘調査では、現存する土塁と平行する幅4m、深さ1.7mの堀跡を検出している。
堀跡を境にして、南西側には、「御門」、北西側に「掘之内」の小字がある。」
と書かれているが・・・・。

しかし、その場所に行ってみたが・・・。土塁は分からなかった。
ただの果樹園、畑、住宅があるだけ。
↑の写真に示すように段差が切岸で、その下の道が堀跡の可能性もあるが、これだけでは判断つかない。
方形の居館である。しかし、現地は緩やかに南に傾斜しており、方形居館にしてはおかしい。
南北朝期の城ならほとんど形を留めなくても不思議ではない。

「戦国期には、竹原氏が再び入り、「中郷城」と称したとの伝承もある。」というが、本当か?
これは竹原城のことではないか?
高原城はあくまで居館であり、戦闘には向かない。
江戸氏ー大掾氏の抗争の地であるこの地の城としては平和過ぎる感じがする。
(36.1979、140.3246)

富士館(小美玉市竹原中郷)
高原城の南東約700m、西から半島状に東に延びる台地先端部近くにある単郭の城館である。
標高は20.9m、園部川からの比高は15m、規模は小さいがほぼ完存状態である。

↑北側の低地から見た館跡

台地先端近くに約50m四方の曲輪があり、南側以外を道路が巡るが帯曲輪を利用したものであろう。

@館先端部、切岸は鋭い。下は帯曲輪。

切岸は約3mほどの高さがあり、勾配は鋭い。
西側を土塁が覆うが凸状の出っ張りがあり、郭外からの高さは3mほどある。
横矢のような感じでもある。
その外側には堀が存在した可能性もある。

曲輪内は畑として利用されていたようであるが、縁部が若干高い感じであり土塁が覆っていた可能性もある。
現在、西側から曲輪内に入れるようになっているが、この入口がオリジナルなものか、後付けか分からない。
(他に虎口らしいものが見当たらない。多分、オリジナルなものを拡張したものか?)
半島状台地の先端に館はないが、先端部には君ヶ埼古墳群があり、そこを物見にし、少し後ろに主郭を置いた可能性がある。

A館内部はかつては畑だった。 B西に突き出た土塁。右下には堀があったか?

城主等、歴史は分からないが、高原城に近く、高原城の出城であり家臣が館主だったのではないかと言われる。
高原城は戦国前期には使命を終えたと言われるのでこの時、廃城になったかもしれないが、この地は土豪間の境目、抗争の地である。
戦国時代も物見や砦として継続して使用されていたのではないかと思われる。(36.1946、140.3305)