一杯館(小美玉市中延)
小川中心街から園部川を約1q上流側に北上した川の左岸にある。

中根山城から見た一杯館

北から南に張り出した半島状の尾根の先端部に位置し、水田となっている谷津を挟んで東の丘が中根山城、その北の丘が中根城である。
3つの城館がこの地にあるが、中根山城と中根城は湮滅状態である。
中根山城と中根城は園部川の流れる低地から少し奥まっているため、川沿いの監視はできない。
この一杯館は規模は小さいが、園部川の上流、下流方面の眺望が良い。
中根山城と中根城の出城と推定される。
中根山城と中根城は湮滅状態であるが、この一杯館は完存状態である。

ただし、S級のド藪である。
内部の見通しは悪く、歩くのもままならない。
おかげで規模や形状等は極めて把握しにくい。
でもそこはヤブレンジャー。獲物があれば突撃する。(でも、蛇がいたらすぐに撤退!)

@一応、主郭内部なのだが・・藪が少ない部分であるが。 A主郭(右)北側の堀、井戸のような窪みが堀底にある。 BAの堀は腰曲輪に合流するが・・藪!右が主郭部

一杯館は半島状台地の先端部にあるが、先端部周辺、勾配が急である。
南側は日当たりがよく篠竹が侵入を拒む。
東側から北に回り込むと何とか登れそうな場所を発見、そこから突入する。

突入するとすぐに平坦地がある。腰曲輪である。
約15m四方ほどある。標高は15.5m、比高は約10m、この腰曲輪は主郭の西側も覆い、主郭北側を遮断する堀と合流する。
腰曲輪の北側その西側に高さ約6mの壁が立ちはだかる。
それが主郭部である。

南端部の腰曲輪の幅は約5m、西側は犬走り状になる。
南端から主郭に取り付く、上までは約6m、主郭は全長約50m、「く」字型をしており幅は5〜15m。
中央部に小さな土壇がある。
何かを祀っていたようである。
標高は21.4m、比高は17m、そして北側をU字型に覆う堀に出る。
深さは主郭側から約6m、幅は約8mと巨大である。
井戸跡のような窪みがあり、堀は登ってきた帯曲輪に合流する。
(36.1800、140.3493)
(参考:「余湖くんのホームページ」)

中根山城と中根館(小美玉市中延)
一杯館を含め、この3つの城館で1つの城砦群を形成している。
一杯館は藪の中に完存状態で残るが、物見程度の小さな城館に過ぎない。
残る中根山城と中根館の規模は大きいが、中根山城は太陽光発電施設が設置されるため、また、中根館は宅地になっていることと、既に太陽光発電施設が設置されていることから、湮滅またはほぼ湮滅状態にある。

中根山城(36.1808、140.3517)は園部川の低地から少し奥まった場所にあり、北、西、南を水田になっている谷津を開発した低地に囲まれたバナナ型をした半島上の台地上にある。
この台地上は約600m×約200mの広さがあり、比較的平である。

標高は23m、周囲の低地からは約14mの比高がある。
周囲の低地部は約100mの幅があり、低地を挟んで西側の台地に一杯館、北側の半島状の台地に中根館がある。
両館との間の低地には連絡用の木橋の通路があったのではないかと思うが、中根山城の台地上から台地下に下りる通路のようなものは確認できない。


↑ @西側、一杯館前から見た中根山城、切岸の高さは約14m、見た目以上に高く、急勾配である。

どこまでが城域かはっきりしないが、西端に近い部分に一辺約100mの大きな方形館があり、その東にもう1つの方形の館が重なったような面白い形をしていたようである。
台地続きの北東側は大きな堀状の低地になっている。
さらにその北東側が城域だったかは分からない。
2020年3月現在、台地上は林が伐採され、重機で削平され一面の裸の丘になっている。
イラストは過去の航空写真等から復元してみたものである。

その丘に上がってみたが、何もないと広い!
方形館の西側の土塁の痕跡が重機で破壊されてはいるが若干、残っていた。

B館西側の土塁はまだかろうじて形をとどめていた。 C丘のほとんどは重機で削平され、こんな状態。

また、かつての起伏も完全に削平しきれずに残っていた。
だだし、これらもいずれ完全に削平されてフラットになってしまうものと思われる。

その重機で破壊された館跡を歩いてみると、土器がけっこう転がっている。
それらを拾ってみると、縄文時代から弥生時代、古墳時代、中世までのものが確認できる。
昔から生活に適した場所であったことが伺える。

縄文土器は縄文前期のものが多い。
左の写真の1〜3列目までの土器片は縄文土器である。
ここは霞ヶ浦も近く、低地の標高も6mほどである。
縄文前期の縄文海進の時期は低地部まで海が入っており、貝等も採れ豊な土地だったはずである。
これらの土器はその豊かさを証明しているものと思われる。
貝塚も付近にあるのであろう。

4列目は土師器片である。
古墳時代から平安時代にかけてのものと思われるが、時代の特定は困難である。
5列目は須恵器片である。これらも古墳時代から平安時代にかけてのものと思われる

6列目の中世のものと思われる陶器片は中根山城に係るものだろう。

石器はたたき石を1点採取した。
おそらく縄文時代のものだろう。

館主は、中根太衛門という。
平成30年(2018)太陽光発電施設設置に伴い簡易調査が行われ、方形館であることが確認され、堀跡、土塁、虎口も確認されている。

中根山城の北に位置する中根館(36.1832、140.3523)は宅地と太陽光発電施設が設置があるためほとんど状況は分からないが、一辺約300mの三角形をしている。
3つの曲輪があったようであり、過去の航空写真等を確認すると北東側にある民家の周囲が「コ」の字型に土塁が囲んでいたらしく、一部が残存する。
南端部の太陽光発電施設が設置されている場所が本郭と思われるが、既にどんな感じだったか分からない状況である。
北側の台地を横断する道路の場所が台地を遮断する堀の跡である。

↑ 中根山城から見た中根館

その北側の民家の地も城域だったのかもしれない。
城主は、大江広元を祖と称する皆谷城主海東定勝の孫、海東勝義(長太夫)と言われる。
海東長太夫は、帰農して、中根で財をなし「中根長者」と呼ばれたという。
元禄16年(1703)に再建された駒形明神宮造営寄進覚の筆頭に「海東長太夫」の名が見える。

屋敷跡周辺には、「枡形」、「花畑」、「庵跡」の地名、八幡宮の石祠と井戸跡がある。
平成29年(2017)、太陽光発電設備設置工事に伴う試掘調査が実施されたが、奈良平安時代の竪穴建物跡は検出されたが、中世の城郭遺構は確認されなかったという。
これらの伝承等によれば中根山城と中根館は別々の歴史があるようであるが、隣接している状況からは何らかの関係はあるように思える。
それとも存在、機能していた時代が異なることも想定される。

宮田館(小美玉市宮田)
塙館ともいう。
小川中心部から県道59号線を園部川に沿って美野里方面に北上し、「やすらぎの里小川」を過ぎ、300mほど行くと、ガソリンスタンドがある。
この北側が宮田集落である。
この宮田集落は園部川の北側の丘陵地帯の末端部が園部川に流れ込む沢により谷津が入り組み、谷が発達した場所に立地する。

↑ 東側の出丸、「峯」から見た物見台と言う名の先端部。発掘が行われ、伐採した木が細断されて積まれている。

その中の東西が谷状になった付け根部に光明寺(無住、お堂と墓地のみ)から南の園部川低地方面に約250mにわたり延びる半島状の丘が主郭部である。
ただし、丘がフラットになった光明寺のある最上部から北側にも土塁Eが見られるので丘最上部付近も城域ではなかったかと思われる。
また、主郭部の東西にある丘にも遺構ではないかと思われる場所があるので、宮田集落自体が城、いわゆる城塞集落だった可能性もある。


@土塁が残る曲輪。A部分の背後を守る場所だろう。

A南端部の北側に広い平地がある。居館があったのか?
正面の切岸の上がDである。

城の主体部ある丘の標高は約25m、低地部が5.1mなので比高は約20mである。
しかし、堀がある先端部(36.1915、140.3458)には行きにくい。
何しろ、谷側、丘側面、丘の上とも一面、民家である。どう行けばよいか分からない。
今回は主郭部のある半島状台地の付け根部、光明寺の南下にある民家に断りを入れ、そこから主郭がある丘先端部に向かった。
丘先端部は光明寺の地(標高25.5m)より若干低い。光明寺から見ると穴城という感じである。

その民家の西側が50m×10mの丘であり、土塁@が見られる。明らかな城郭遺構である。
土塁は民家側にあるので、おそらくこの民家の敷地は丘を削った場所に建てられているため、城が存在した当時から今と同じ地形だったと思われる。

B先端部に西から登る道は横堀の堀底。 C先端部の堀は倒木で埋まっている。 D先端部最高部、若干傾斜している。

その民家の南側に約50m四方の平坦地Aがある。かつては畑だったようである。
ここの標高は20.3m、丘の中央部が抉れたような場所である。
居館があった場所であろうか?
その南側が高さ4mほどの切岸になっており、その上が最南端の曲輪である。
100m×70mほどあるが、丘上は平坦ではない。
西側、南側に向けて緩い斜面になっている。標高は24.6mである。

ここに1軒の民家が建つ。
ここには西側から登る道Bがあり、横堀を転用したものと思われ、丘先端部まで続く。
丘先端部には堀Cがあるが、倒した木が細断されて堀内に放り込まれている状態である。
この先を物見台という。名前の通り園部川の低地一帯が見渡せる。

E丘最高箇所、光明寺より北側に延びる土塁、@の土塁の延長だろう。
この丘の東西の斜面部が民家の敷地であるが、民家は帯曲輪に建っているのもと思われ、切岸が急こう配である。
先端部が本郭と思われるが、堀がある先端部の後ろ側(民家北側)付近Dは削平が甘く、緩斜面であり何とも言えない。

なお、先端部から東の谷を挟んだ東の丘の先端部にも遺構があるというので行ってみた。
茨城県遺跡地図では「峯遺跡」となっているが、そこの最上部付近は緩斜面であり、土塁、堀等の遺構は確認できなかった。

↑ 民家付近が出城というが城郭遺構と思われるものは確認できない。

ただし、東の低地側の切岸は高いコンクリート法面になっているが、この部分はいかにも城っぽい。
さらに民家の門がまるで城門のようである。
さらに、この峯遺跡に続く北側の丘末端が高さ10m近い急斜面になっている。
この部分が非常に城館の切岸っぽい感じがするが?

しかし、その上はただの畑であり、何もない。でもこの丘からは本城内部が丸見えなのである。
何もなかったのかねえ?
丘上、光明寺から西側の鹿島神社付近までも城域であったと思われるが、光明寺付近から北に延びる土塁が確認できるが、それ以外にも遺構が存在している可能性がある。
南東に位置する「やすらぎの里小川」の西端部に出城がある。

出丸の最高箇所であるが、遺構はない。 宮田出城から見た出丸、切岸が城っぽい。

小川町史上巻によると、天正18年(1590)、小川城落城後、幡谷城主の子孫が住み、宮田九郎兵と称し、その後、府中大掾氏系の者が住んだという。
平成23年(2011)、県道玉里水戸線道路改良工事に伴って、茨城県教育財団が発掘調査を実施している。
この調査では、曲輪跡2区画、掘立柱建物跡1棟、土塁2条、堀跡(薬研堀)1条、土坑1基が検出されている。
土師質土器(皿・内耳鍋)、石製品(火打ち石)、金属製品(鉄砲玉)が出土し、土器は16世紀のものであり、小川城の支城として、16世紀前葉には築城されていたと推察されている。
なお、集落内には「幡谷」さんと言う家もあるが、帰農した子孫か?
(参考:「続 図説 茨城の城郭」)

宮田出城(小美玉市中延)
宮田城の南側、低地を挟んで「やすらぎの里小川」がある。その西端部に出城がある。

西側、園部から見た宮田出城(中央の丘)、左の森は宮田城出丸。

「やすらぎの里小川」中心部から遊歩道が西端部に延びるが、この道がある尾根、S字になっており、面白い。
尾根の側面を堀が交互に抉ったような感じである。
その道を行くと、堀の向こうに土塁らしきものが見えてくる@。
それが宮田出城(36.1889、140.3488)である。
標高は21m、園部川からの比高は約15mである。

@やすらぎの里から遊歩道を西に行くと・・あったで!

位置と規模からして宮田城の南側を守る出城であろう。
付城ということも想定されるが、宮田城が攻められたことはあったかどうか?

規模は小さい。
東側、尾根続き部を幅3m、曲輪からの深さ3mの堀Aで仕切り、虎口が開く。
その内部は東西約10m、南北約25mの曲輪というより枡形の窪んだ空間BCがあるだけである。

高さ約1mの土塁が東側、北側にある。武者隠しに思えるが。
西側、南側は緩斜面が続き、北側、東側には帯曲輪がある。
この程度の極めて簡素なものであり、物見程度のものである。

A出城東側の横堀 B虎口を入ると窪んだ曲輪が・・武者隠しというものか? C曲輪の北側は普通の土塁が囲む。

(参考:「続 図説 茨城の城郭」)