小美玉市の城郭

 小美玉市は平成18年3月27日に石岡市の北東に位置する小川町、美野里町、玉里村が合併して誕生した市である。
しかし、この市の名前なんとかならんのか?3町村から1字づつ採ってつなぎ合わせただけじゃないか。
 一応、この地は石岡の大掾氏の領土であるが、北は犬猿の仲である江戸氏の領土であり、両者間で戦闘が絶えなかった地である。
 大城郭はないが、結構、城の数は多い。
 このうち変り種は長塁ともいえる「堅倉砦」であろう。

取手山砦(小美玉市田木谷)
旧小川町の中心部の南、国道355号線田木谷交差点から旧玉里村方面に県道144号バイパスを曲がると切通しになっているが、この東側の岡が砦跡である。
ここは北西側から南側の低地に張り出した台地先端であり、この台地は浸食により半島状になっている。
北側が園部川が流れるが、戦国時代は南側の低地まで霞ヶ浦が入っており、園部川が霞ヶ浦に流れ込む場所であった。
当然、ここにも港があり、園部川を利用して運ばれる物資の集積地もあったものと思われる。

この砦の名前、当然、「砦」から来ているのであろう。おそらく当時も名前はなく、単に「砦」と呼ばれており、それが地名になったのであろう。
このことから、多くの城館には固有の名前はなく、単に「砦」、「要害」、「館(たて)」と呼ばれていただけということの証になるのであろう。

砦があった台地先端部、標高は19m、周囲より少し盛り上がっている場所である。
当時裾まで迫っていた霞ヶ浦の湖内を見渡すには良い場所である。
さぞ、良好な遺構があるのではないか?と期待をいだくのであるが・・・見事に裏切られるのである。

岡にはいくつか行く道がある。
しかし、その前に苦労したのは車を止める場所であった。
岡の周囲には全くないのである。そんなんで岡の周囲を無駄に2周りしてしまった。
結局、少し離れた場所に止め、バイパスの切通しから上がる道を行った。
で、岡の上なのであるが、ただの栗畑であった。
曲輪らしい場所もなく、緩やかな斜面があるだけである。
これを見て城館とは誰も思わないだろう。
がっかりである。

おまけに栗の棘が刺さるという痛い追い打ちに合い、岡を下ることになる。
まあ、いつものことであり最近はこれくらいのことで落胆することもないけど・・・。
熊はいない点では安心できるけど、蛇を踏んだり、すずめ蜂に追いかけられる方が余程恐ろしい。

ここは平成15年に県道144号バイパス建設のため発掘調査が行われている。
その結果、三度に渡り改修されたこと、土塁にトンネルが開いていることと、堀底を利用した連絡通路、大量の鉄砲玉が出土及び鉛玉の精製痕のある石塔の出土、女児の頭部骨片が出土等の結果が報告されている。

岡頂上部を中心に2重堀が構築され、虎口があったという。

イラストは「続 図説 茨城の城郭」掲載図から作成したものであるが、近代戦での塹壕に近い感じである。
おそらく、堀(塹壕)と土塁上には柵列があり、土塁の裏からトンネルを経由して塹壕に鉄砲を持った兵を展開したり、撤収したりさせていたのであろう。
堀が2重にあることから、下位の部分に敵が侵入した場合、上位の堀から攻撃を行うことを意図したのであろう。

いずれにせよ攻撃を受けることを前提の防御戦闘に特化した構造であり、しかも鉄砲での防御を想定した戦国末期の遺構である。
これほどの構造を持った遺構は非常に珍しいのではないかと思われる。

しかし、これらの遺構が確認されたのはパイパスが通る切通し部分であり、肝心の岡頂上部はほとんど城郭らしい遺構はなかった。
このような城館形式は陣城など臨時築城の城に多く見られるものである。

この館については、水戸市田島町にある傳燈山和光院伝来の過去帳に『天正十六戌子四月二十五日、二百余人打死。府中タマリ取出落城。』
砦は府中の大掾貞国が佐竹氏に従う小川城の園部氏を警戒するために築いたものであったという。
しかし、当時は霞ヶ浦が目の前に広がっていたはずであり、港があり、その港を守るための施設でもあったのではないだろうか。

丘頂上部は栗林で内部は平坦ではない。 丘の北斜面は緩斜面、遺構らしいものはない。 丘南側の道は堀跡か?

境目の城でもあったため、何度か戦いの舞台になっている。
永禄6年(1563)、小田氏治が三村城に侵攻し、そこで敗れた大掾貞国は、府中城を捨てて、取手山に退いたという。
天正16年(1588)4月、江戸氏との間に合戦が発生し、取手山には大掾義国や栗又左近政清らが在城していたが、江戸氏を支援する佐竹氏の猛攻に遭い、激戦の末に落城したという。
大量の鉄砲玉の出土はその戦いの証拠であろう。
佐竹軍は大量の鉄砲を使用した証拠にもなろう。
おそらく猛烈な援護射撃の下に竹束を前に立て、防塁を強襲したのであろう。
女児の頭部骨片の出土からなで斬りがあったのであろうか?

竹原城(小美玉市(旧美野里町)竹原)

南から見た城址。2段になっているのが
分かる
二郭への入口。

 竹原小学校の南、約1.2km、園部川と羽黒川が合流する低地に北東側から突き出た台地突端部に位置ある。
 城のある台地の比高は約10m、本郭部は東西約55m、南北約75mの大きさがあり、内部は雑木林。
 その周囲に二郭が帯曲輪状に取り巻く。北側以外は水田に接し、水堀の跡が残る。
 全体としては東西約150m、南北約220mの大きさがある輪郭式城郭である。

 北東側は台地につながり台地側に堀を築いている。
 この方面が大手であったらしい。しかし南側の園部川にかかる橋の名が「大手橋」といっている。
 これは大手道が南側から城の東側を通って、北側から城内に入るようになっっていたためと推定される。
 その外側にも土塁の跡がある。

 永禄2年(1559)に府中に本拠を置く大掾貞国の弟義国が竹原の地に始めて城を築いたという。
 天正18年(1590)佐竹氏の攻撃で宗家の府中大掾氏と共に滅んだと伝えられている。

飯塚館(玉里村上玉里) 

石岡から鉾田に向かう鹿島鉄道四箇村駅の南側の比高10mの丘にある。
 四箇村駅からは東南600m程度の距離。国道355号から南に入るが、道が曲がりくねっていて良く分からない。
 旧道に入り八幡神社裏あたりから南に入り、鉄道線路を渡ると低地に出る。
 小川を越えてその南にある台地が城址である。低地から台地に上がると右手にいきなり大きな土塁がある。

150mほど行くと説明板に建っている。
これによると、平安時代、常陸として権勢を誇っていた平国香の一族、五郎左衛門兼忠がこの地に土着し、飯塚氏を名乗り、築城した。

飯塚氏は大掾氏に従いこの地を治めていたが、天正末期、佐竹氏の攻撃で主家の大掾氏とともに滅亡した。

 南から半島状に北に張り出す台地東側にあり、西、北、東は低地である。
 城は台地の尾根上と南側、北側に2重、3重の土塁を巡らし、その土塁に囲まれた台地東斜面に段郭を構成する。

 規模は大きく、丘の日当たりの良い東斜面を利用した居住性の優れた館である。
 館には連郭式に三郭ほどが並んでいたと言う。
城址最北部の土塁は高く、高さ8mほどもある巨大なものである。
館跡北側の土塁。 民家のある場所が居館跡。 館東側。東は低湿地であった。

小川城(小美玉市(旧小川町))

小川小学校を中心とした地が城址である。
 北側から霞ヶ浦方面に張り出した比高15m程度の台地の南端部に築かれ、北側以外は崖面になる。西側下に園部川が流れる。

 主郭部は古図によると小学校校庭部分であるが当然今は何もない。校庭のある場所には土塁と堀があり、本郭は校庭の東側の部分であった。

 唯一、素鷲神社の境内が城址の雰囲気があり、境内裏東側に土塁の跡と思われる盛り上がりが観察される。

 神社の北に東下に下りる道がありここが堀跡である。
この部分が唯一明瞭な城郭遺構である。

本郭北側の堀跡。 小学校の登校口。かつての登城口。 素鷲神社が本郭北東端に当たる。

 堀底は当時から堀底道であったのであろう。この道を降りた東下には水堀があったか湿地帯になっていたものと思われる。
 北東側の図書館の地も郭であったようであり、その西側に堀が存在していた。

 また、小学校西側の道も堀跡を利用したものといい、小学校南側の登校坂はかつての城の大手道そのものという。
 北側に台地平坦部と遮断する堀があったと思われるが場所は分からなくなっている。

 築城は、建久年間(1190〜1199)下河辺政平がこの地の地頭になり小川三郎と称して行ったという。
 小川氏は南北朝期には北朝方の佐竹氏に属し、延元元年(1336)大塚原で南朝方の春日顕国に敗れている。
 その後の小川氏の動向は不明であるが、享禄元年(1528)に小田政治の家臣、園部兼泰が城主となり、大掾氏との抗争が始まる。
 ここに江戸氏、佐竹氏などがからみ様相は複雑化するが、結局は佐竹氏に漁夫の利を占められる。

 佐竹氏の支配になると茂木城から茂木上総介治長が城主となるが、慶長7年(1602)の佐竹氏の秋田移封で去り、戸沢政盛が城主となる。
 戸沢政盛が松岡に移ると、子の安盛が城主となるが、元和6年(1620)戸沢父子は出羽に移る。その後、小川付近は水戸藩領となる。
 ここには、水戸藩の運遭奉行が置かれ、城址に文化元年(1804)医学所としての稽医舘が置かれ、のち小川郷校と改称した。
 
これが小川小学校の前身である。

鶴田城(小美玉市(旧美野里町)鶴田)

国道6号の堅倉交差点から県道59号線を南に2.5q、鶴田集落から水田を挟んで西側の台地にある。
大きな送電線の鉄塔が見えるが、その鉄塔が城跡の北西端にあるので目印になるであろう。
その鉄塔の北側に新しい道が通っているのでその道沿いに車を置くことができる。

しかし、この付近は谷津が発達した台地が入り組んでいてすぐに迷う、城巡り泣かせの地である。
もっともそのような土地であるから城が築かれたのだろうが。
城のある台地もそのような台地の1つであり、水田からの比高は10mほどに過ぎない。
肝心の遺構は断片的に堀や土塁が残るのみであり、主郭内部は民家や畑となっている。
東西114m、南北216mもある巨大な長方形の館であったといい。周囲全周を二重の土塁が巡っていた。
この二重土塁は鉄塔のある付近西側に残っている。鉄塔の少し南側に登り口(後世のもののようであり、虎口ではないようである。)があり、ここを入ると郭内である。
そこは畑であるが、西側と北側に土塁が残る。
この付近に狼煙台という土壇があったようであるが失われている。
少し南に城の解説板があり、堀と土塁が残る。

この付近が一段と高く、天王山といい館があったらしいが、今は痕跡もない。
ここから東の郭外に「奥の院」(何かいやらしい名前だ。)と呼ばれる東郭があったという。

規模だけを見れば、巨大方形館であり、宮が崎古館に良く似る。
このため、戦国期以前の館のようである。
館の来歴は不明であるが、すぐ北東1.5mに江戸氏が構築したという堅倉砦が存在するので、戦国期は、大掾氏が江戸氏との抗争で大掾氏が一時的に使用していた可能性がある。

南西端の土塁。 南西端に残る堀。幅5mほど。
この付近が天王山という居館跡。
北西端部の土塁と堀。 郭内の北西端部。北辺には土塁が健在である。

立開城(小美玉市(旧小川町)佐才)

立開と書いて「りゅうがい」と読む。おそらく「要害」が語源であろう。

  小川町役場から県道144号線を北に5q、上吉影交差点を左折して県道145号線を国道6号方面に向かって600m行くと、左手に教信寺が見えてくる。

 ここが城址に当る。北側には巴川が流れる低地があり、南側も菜洗池から発する川に沿った低地である

 この南側の低地に向かい西側から突き出てこれがL字状に南に曲がったような形の台地があり、その台地突端の南側が城址である。
 城址のある台地の東側と西側は崖状である。
低地からの比高は15m程度である。
 
境内北側に残る土塁。 駐車場(腰曲輪)から見た本郭。

 県道沿いに教信寺の入口の案内があるのでそれに従って入っていけばよい。寺の入口の駐車場は腰曲輪であろう。 
 その北が寺の境内であるが、駐車場から登る階段は切岸に付けた感じである。
 境内は40m四方程度の広さである。周囲に土塁が巡っている。
 ここが本郭であろう。
 墓地の北側にも高さ2mの土塁がある。その北は堀がある。その先の竹やぶが二郭であるが行かなかった。
 土塁や堀がありそうな雰囲気である。

 井坂修理が城主の名に見えるが、小川城主園部氏の家臣であったらしい。
 園部氏没落後は芹沢氏に仕えたという。

堅倉砦(旧美野里町堅倉)

国道6号の堅倉交差点から県道59号線を南に0.7qほど行くと、堅倉小学校がある。この東側が砦跡である。
砦と言っても曲輪から成る城館のようなものではない。
この砦は街道閉塞土塁、長塁のようなものである。
堅倉長塁というべきものであろう。
堅倉小学校を過ぎ、次の交差点を左折し、300m程度走ると南北に杉林の列がある。
これが遺構である。
遺構はかなり埋没及び破壊を受けているが、南端部に↓の写真のような深さ2mほどの立派な堀が残存していた。

林の中には幅4mの堀が残り、その東西に高さ1mほどの土塁となっている。
残念ながら所々破壊され、現存しているのは250m分程度である。
本来はこの台地の北から南まで全長600mほどあったらしい。

馬防ぎの土塁のように思えるが、馬防ぎ土塁で二重土塁はない。
台地の北麓には高池があり、南は天神谷津があり、その間の台地上の平地を遮るように土塁が構築される。

北側は堅倉小学校との間が谷津状の堀になっている。
現在、土塁の高さは1m程度に過ぎないが、柵があっただけであろうか。
おそらく西側に堀があったのではないだろうか。

なお、土塁は必ずしも直線ではなく、西側に2箇所に突き出しがある。
15m角の大きさであり、櫓でもあったのであろうか。
これも1種の横矢である。
湯崎城にある横矢腰曲輪とも良く似ている。
「茨城の城郭」では江戸崎城の北西側に存在する長塁群、中居城周辺に存在する長塁群及び結城城の北西側に存在する長塁を取り上げているが、この堅倉砦もこれらと同じ長塁に属する城郭遺構と考えられる。
しかし、単なる長い土塁と堀が続いているだけではなく、2箇所に張り出しを持つところが異なる。
この点、若干戦闘的な感じである。

類似の城郭としては、那珂市の門部要害城がある。
こちらはほとんど湮滅してしまったが、総延長は350mくらいと若干短い。
やはり張り出しが3箇所あったという。また、後方に1条堀を持つ。

鳥瞰図を描こうとすると南北に600mほどあるが、幅は10m程度しかないため、1本の長い線にしかならない。
上の鳥瞰図は南北方向の寸法を思いっきり圧縮したイメージ図に近いものであり、現実とはかなりかけ離れていることをご了承下さい。

北端部。左の草むらの中に土塁があった。
低地は堀の役目の谷津。
右側が堅倉小学校となる。
北端下の高池。 土塁はご覧のように低いが、
二重土塁になっている。
土塁列は直線ではなく、
2箇所に突き出しがある。

明らかに西側の敵を意識したものである。
この地は戦国期を通じて決定的に仲の悪い大掾氏と江戸氏との抗争の境目である。
江戸氏方の小幡城の前進基地として天正13年江戸重通が築き、竹原城と対したと伝えられる。

宮田城(小美玉市宮田字小屋の山)
塙館ともいう。
小川中心部から県道59号線を美野里方面に北上し、「やすらぎの里小川」を過ぎ、300mほど行くと、ガソリンスタンドがある。
この北側が宮田集落である。

この前を北に上がる狭い道沿いが集落の宅地であるが、住宅が段々状の場所に建てられており、その背後は切岸状である。
岡末端の尾根部を段々状に加工した城であり、尾根の付け根部には堀が存在していたのではないかと思われるが、この状態ではさっぱり分からない。
城主は幡谷一族の宮田九郎兵衛というという。

航空写真は国土地理院が昭和55年に撮影したものを利用。
余湖くんのHPを参考。