小美玉市の城郭

 小美玉市は平成18年3月27日に石岡市の北東に位置する小川町、美野里町、玉里村が合併して誕生した市である。
しかし、この市の名前なんとかならんのか?3町村から1字づつ採ってつなぎ合わせただけじゃないか。
 一応、この地は石岡の大掾氏の領土であるが、北は犬猿の仲である江戸氏の領土であり、両者間で戦闘が絶えなかった地である。
 大城郭はないが、結構、城の数は多い。
 このうち変り種は長塁ともいえる「堅倉砦」であろう。

立開城(小美玉市佐才)
2020年3月末、近くを通ったので2004年6月以来、16年振りに寄ってみた。
16年前は夏場の雨上がりの日で地面がグチャグチャだった記憶がある。

あの時は主要部のみを見て、境内北側の土塁の背後、北側に続く部分については、季節がら蛇がうろついていそうなので覗き込んだだけで見ていなかった。
今回は、まだ、草木がおとなしく、蛇もうろつく前の季節、16年前に確認できなかったその背後を確認してみようと思ったことによる。
結果であるが、特段、背後を見る必要などなかった。
背後に続く台地部分には土塁の北側には堀跡のようなものがあったが、それより先には堀とか土塁等、何もなかった。
ひたすら藪が続くだけ。

その藪から抜け出すのに苦戦、野ばらと蔦に悪戦苦闘、そして台地下の畑に転がり落ちた。
その様子、誰にも見られなくて良かった。
自分で言うのも何だが、見っともない姿だったと思う。
ありゃ、不審者そのものだ。

しかし、16年振りになると記憶はかなり薄れている。
「えっ、こんなに高い場所だったっけ?」「こんなのあったっけ?」という有様。
記憶の希薄化なのか、他の場所の記憶との混同が起きているのか?と、言ってもここばかりではない。
どこに行っても、記憶とかなり違うのである。年月によるものか、老化によるものか?脳の記憶回路の異常か?(今頃、気が付いたか?)


東下から見た教信坊、下からの高さは約6m。
16年前は土の切岸であった。


この「立開」、「りゅうがい」と読む。
「りっかい」とは読むのではない。
もちろん、「要害」が語源である。
ちょっと訛り、そこに漢字を当てはめただけである。

でも、ここは要害の地ではない。
要害の地であるか、ないかに関わらず、城館を全て「要害」と呼んでいた証拠でもある。
また、城に名前などなかった証拠でもある。

この地は東関東自動車道茨城空港北ICの南西約1.5q、(または、小美玉市の旧小川町中心部から県道144号線を北に約5q、上吉影交差点を左折して県道145号線を国道6号方面に向かって約600m)
県道145号線から約200m南東に入った日蓮宗教信坊のある場所が城址である。
この地の北側には巴川が流れる低地があり、南側も「菜洗池」から発する川に沿った低地である。
低地の標高は14.2m。

この南側の低地に向かい西側から突き出てこれがL字状に南に曲がったような形の台地があり、その台地南端にある。
城址のある台地の東側と西側は崖状である。標高は23.4m、低地からの比高は10m程度である。

県道沿いに教信坊の入口の案内があるのでそれに従って入っていけばよい。
寺の入口の駐車場は腰曲輪であろう。ここの標高は17.6m、低地部より3mほど高い。
南東に東屋がある稲荷社が建つ盛り上がった場所があるが、ここも城域であろう。 
その北が寺の境内であるが、駐車場から登る階段は切岸に付けた感じである。
境内は約50m四方の広さである。
周囲に土塁が巡っている。(東側は法面工事で湮滅)ここが本郭であろう。

墓地の北側にも高さ2mの土塁がある。東側に虎口らしく土塁間が開いている。
土塁の北側には堀があったように思えるが、不明瞭である。
以前の記事に「その先の竹やぶが二郭であるが行かなかった。土塁や堀がありそうな雰囲気である。」と書いていた。

教信坊境内が主郭。城址碑が建つ。
ここに土塁があった記憶があるのだが・・・
寺の裏、東側、土塁間が開く。虎口か? 南東下の稲荷社が建つ土盛りも城域と思うが。
右の水田が低地部。

それを確認する目的が今回の再訪であったのだが、前述した通り、藪の中を100m以上、進んだが、行けども行けども何もない。
二郭は存在せず、南端部のみの単郭だったらしい。

国土地理院の昔の地図を確認したが、アメリカ軍撮影の昭和22年の写真では畑であった。
堀らしいものは写っていない。昭和36年の写真ではすでに林になっている。
しかし、周囲に湿地が存在したとしても防御力がある城とは思えない。
北側に何もなく平地が続くのはどうも納得できない。耕地化のため、堀が埋められたこともあり得るかもしれない。

井坂修理が城主の名に見えるが、大掾氏一族行方氏の流れという。戦国時代は小川城主園部氏の家臣であったらしい。
(江戸氏の家臣とも)園部氏没落後は芹沢氏に仕えたという。
芹沢氏が佐竹氏に滅ぼされた後は一部は佐竹氏家臣となり、水戸藩士になった者もいた。
多くは帰農したと思われ、井坂姓を持つ者は茨城県内に5000人ほどおり、ここ小美玉、石岡、常陸太田、相東海村などに多いが子孫と思われる。

城の立地上、何を目的にした城かよく分からない。物見としては視界が狭い。
規模としては居館程度のものなので、居住を目的とした居館なのか?
あるいは湿地を背後にした緊急時の逃げ込み施設か?

なお、平成17年5月に低地を介し、対岸にあたる南200mの上吉影で馬場坪遺跡の発掘が行われ、L型の堀が検出され、遺物から中世のものと推定されている。
立開城とは至近距離にあり、これが井坂氏の居館だった可能性がある。また、この地区にある貴船神社の旦那に井坂氏の名が見えるという。
その場合は立開城は逃げ込み城だったことになる。(36.2219,140.4044)

(以前の記事)
立開城(小美玉市(旧小川町)佐才)
立開と書いて「りゅうがい」と読む。おそらく「要害」が語源であろう。
小川町役場から県道144号線を北に5q、上吉影交差点を左折して県道145号線を国道6号方面に向かって600m行くと、左手に教信寺が見えてくる。
 ここが城址に当る。

 北側には巴川が流れる低地があり、南側も菜洗池から発する川に沿った低地である

 この南側の低地に向かい西側から突き出てこれがL字状に南に曲がったような形の台地があり、その台地突端の南側が城址である。
 城址のある台地の東側と西側は崖状である。
低地からの比高は15m程度である。
 
境内北側に残る土塁。 駐車場(腰曲輪)から見た本郭。

 県道沿いに教信寺の入口の案内があるのでそれに従って入っていけばよい。寺の入口の駐車場は腰曲輪であろう。 
 その北が寺の境内であるが、駐車場から登る階段は切岸に付けた感じである。
 境内は40m四方程度の広さである。周囲に土塁が巡っている。
 ここが本郭であろう。
 墓地の北側にも高さ2mの土塁がある。その北は堀がある。その先の竹やぶが二郭であるが行かなかった。
 土塁や堀がありそうな雰囲気である。

 井坂修理が城主の名に見えるが、小川城主園部氏の家臣であったらしい。
 園部氏没落後は芹沢氏に仕えたという。


小川城(小美玉市(旧小川町))

小川小学校を中心とした地が城址である。
 北側から霞ヶ浦方面に張り出した比高15m程度の台地の南端部に築かれ、北側以外は崖面になる。西側下に園部川が流れる。

 主郭部は古図によると小学校校庭部分であるが当然今は何もない。校庭のある場所には土塁と堀があり、本郭は校庭の東側の部分であった。

 唯一、素鷲神社の境内が城址の雰囲気があり、境内裏東側に土塁の跡と思われる盛り上がりが観察される。

 神社の北に東下に下りる道がありここが堀跡である。
この部分が唯一明瞭な城郭遺構である。

本郭北側の堀跡。 小学校の登校口。かつての登城口。 素鷲神社が本郭北東端に当たる。

 堀底は当時から堀底道であったのであろう。この道を降りた東下には水堀があったか湿地帯になっていたものと思われる。
 北東側の図書館の地も郭であったようであり、その西側に堀が存在していた。

 また、小学校西側の道も堀跡を利用したものといい、小学校南側の登校坂はかつての城の大手道そのものという。
 北側に台地平坦部と遮断する堀があったと思われるが場所は分からなくなっている。

 築城は、建久年間(1190〜1199)下河辺政平がこの地の地頭になり小川三郎と称して行ったという。
 小川氏は南北朝期には北朝方の佐竹氏に属し、延元元年(1336)大塚原で南朝方の春日顕国に敗れている。
 その後の小川氏の動向は不明であるが、享禄元年(1528)に小田政治の家臣、園部兼泰が城主となり、大掾氏との抗争が始まる。
 ここに江戸氏、佐竹氏などがからみ様相は複雑化するが、結局は佐竹氏に漁夫の利を占められる。

 佐竹氏の支配になると茂木城から茂木上総介治長が城主となるが、慶長7年(1602)の佐竹氏の秋田移封で去り、戸沢政盛が城主となる。
 戸沢政盛が松岡に移ると、子の安盛が城主となるが、元和6年(1620)戸沢父子は出羽に移る。その後、小川付近は水戸藩領となる。
 ここには、水戸藩の運遭奉行が置かれ、城址に文化元年(1804)医学所としての稽医舘が置かれ、のち小川郷校と改称した。
 
これが小川小学校の前身である。

鶴田城(小美玉市(旧美野里町)鶴田)

国道6号の堅倉交差点から県道59号線を南に2.5q、鶴田集落から水田を挟んで西側の台地にある。
大きな送電線の鉄塔が見えるが、その鉄塔が城跡の北西端にあるので目印になるであろう。
その鉄塔の北側に新しい道が通っているのでその道沿いに車を置くことができる。

しかし、この付近は谷津が発達した台地が入り組んでいてすぐに迷う、城巡り泣かせの地である。
もっともそのような土地であるから城が築かれたのだろうが。
城のある台地もそのような台地の1つであり、水田からの比高は10mほどに過ぎない。
肝心の遺構は断片的に堀や土塁が残るのみであり、主郭内部は民家や畑となっている。
東西114m、南北216mもある巨大な長方形の館であったといい。周囲全周を二重の土塁が巡っていた。

この二重土塁は鉄塔のある付近西側に残っている。鉄塔の少し南側に登り口(後世のもののようであり、虎口ではないようである。)があり、ここを入ると郭内である。
そこは畑であるが、西側と北側に土塁が残る。
この付近に狼煙台という土壇があったようであるが失われている。
少し南に城の解説板があり、堀と土塁が残る。

この付近が一段と高く、天王山といい館があったらしいが、今は痕跡もない。
ここから東の郭外に「奥の院」(何かいやらしい名前だ。)と呼ばれる東郭があったという。

規模だけを見れば、巨大方形館であり、宮が崎古館に良く似る。
このため、戦国期以前の館のようである。
館の来歴は不明であるが、すぐ北東1.5mに江戸氏が構築したという堅倉砦が存在するので、戦国期は、大掾氏が江戸氏との抗争で大掾氏が一時的に使用していた可能性がある。

南西端の土塁。 南西端に残る堀。幅5mほど。
この付近が天王山という居館跡。
北西端部の土塁と堀。 郭内の北西端部。北辺には土塁が健在である。

堅倉砦(旧美野里町堅倉)

国道6号の堅倉交差点から県道59号線を南に0.7qほど行くと、堅倉小学校がある。この東側が砦跡である。
砦と言っても曲輪から成る城館のようなものではない。
この砦は街道閉塞土塁、長塁のようなものである。
堅倉長塁というべきものであろう。
堅倉小学校を過ぎ、次の交差点を左折し、300m程度走ると南北に杉林の列がある。
これが遺構である。
遺構はかなり埋没及び破壊を受けているが、南端部に↓の写真のような深さ2mほどの立派な堀が残存していた。

林の中には幅4mの堀が残り、その東西に高さ1mほどの土塁となっている。
残念ながら所々破壊され、現存しているのは250m分程度である。
本来はこの台地の北から南まで全長600mほどあったらしい。

馬防ぎの土塁のように思えるが、馬防ぎ土塁で二重土塁はない。
台地の北麓には高池があり、南は天神谷津があり、その間の台地上の平地を遮るように土塁が構築される。

北側は堅倉小学校との間が谷津状の堀になっている。
現在、土塁の高さは1m程度に過ぎないが、柵があっただけであろうか。
おそらく西側に堀があったのではないだろうか。

なお、土塁は必ずしも直線ではなく、西側に2箇所に突き出しがある。
15m角の大きさであり、櫓でもあったのであろうか。
これも1種の横矢である。
湯崎城にある横矢腰曲輪とも良く似ている。
「茨城の城郭」では江戸崎城の北西側に存在する長塁群、中居城周辺に存在する長塁群及び結城城の北西側に存在する長塁を取り上げているが、この堅倉砦もこれらと同じ長塁に属する城郭遺構と考えられる。
しかし、単なる長い土塁と堀が続いているだけではなく、2箇所に張り出しを持つところが異なる。
この点、若干戦闘的な感じである。

類似の城郭としては、那珂市の門部要害城がある。
こちらはほとんど湮滅してしまったが、総延長は350mくらいと若干短い。
やはり張り出しが3箇所あったという。また、後方に1条堀を持つ。

鳥瞰図を描こうとすると南北に600mほどあるが、幅は10m程度しかないため、1本の長い線にしかならない。
上の鳥瞰図は南北方向の寸法を思いっきり圧縮したイメージ図に近いものであり、現実とはかなりかけ離れていることをご了承下さい。

北端部。左の草むらの中に土塁があった。
低地は堀の役目の谷津。
右側が堅倉小学校となる。
北端下の高池。 土塁はご覧のように低いが、
二重土塁になっている。
土塁列は直線ではなく、
2箇所に突き出しがある。

明らかに西側の敵を意識したものである。
この地は戦国期を通じて決定的に仲の悪い大掾氏と江戸氏との抗争の境目である。
江戸氏方の小幡城の前進基地として天正13年江戸重通が築き、竹原城と対したと伝えられる。

山野城(小美玉市幡谷)
小美玉市旧小川町の中心部から鉾田方面に県道8号線を東に約2q、小川ニュータウンの北側の鎌田川の谷津部に張り出した小山が城址である。(36.1666、140.3836)
この小山、標高は25.2m、団地内より若干高い。
北の低地部の標高は11m、山の比高は15mほどである。

周囲は住宅地と水田であるが、この小山の中は?超クソ藪である。
山の南側、団地との間には堀跡のようなものがある。
東側は住宅地となっている部分につながっているだけである。
堀らしいものは確認できない。

一応、城址ということで強引に突入。
しかし、山の中、とても城館とは思えなかった。
何しろ、平坦地がほとんどないのである。

山頂部は多少の平場になっている感じであるが、どこにでもある山の山頂部である。
加工は入っている感じであるが、らせん状に幅広い斜面が東から北側、西側を頂上部まで巻いているのである。
イメージは上のイラストのような感じだった。

とても城とは思える物件ではない。
本当にここなのか?もし、城館だったとしたら、精々、物見台くらいのものである。
物見台とすれば、今、小川ニュータウンになっているどこかに居館があったかもしれない。

北の低地から見た山野城、比高15mの山である。 山の南にある堀?右は小川ニュ−タウンの住宅。 これが山の中なのだが・・・。藪!遺構らしいものはなかった。

城主は、山野讃岐盛俊であり、小川城(園部氏)の支城とされる。
なお、小川町教育委員会『山野遺跡及び山野舘跡発掘調査報告書』1982では、城館跡関連の遺構は確認されていないといい、管理人の調査と一致する。
本当にここなのか?

下田館(小美玉市中延)
園部川沿いや北の巴川沿いには多くの城館が存在するが、この2つの川に挟まれた台地の内部には鶴田城の他、ほとんど城館はない。
その数少ない城館がこの館である。
館は宮田城の東、約1.2qにある八幡神社の北側に位置する。

北の鎌田川の流れる平地から見た館跡のある丘。館は丘先端部に位置する

台地内部は谷津が発達しており起伏が激しい。
館がある付近も同様であり、半島状の標高25mの丘の周囲を標高10〜15mの水田となっている谷津部が取り巻く。
北の谷津部の低地には鎌田川が南に流れる。
館はそのような南から北に半島状に突き出た丘の先端部にあり、南側以外を水田となった谷津が取り巻く。
標高は26m、北の鎌田川の流れる低地からの比高は約10mである。


この館であるが、非常に小さい。
台地先端部という情報に基づき、探索したのであるが、行けども行けどもそれらしいものが出現せず。
もうすぐ先端部、引き返そうと思った時に低い土塁が見えてきた。

形は方形であり、土塁上を測った範囲であるが約30m四方に過ぎない。
土塁も1m程度と小規模である。

館の土塁なのだが・・・分からん!

虎口が西側以外の3か所あるが、1つは後世のものであろう。
土塁の外側には堀は存在しない。台地続きの南側と西側に存在してもいいように思うが。
この規模では居館としても狭い。
北方向を監視するのにも谷津が入り組んでおり視界が限定される。
堀がないことから、馬囲いではないかとも思うが?
中に建っていたのは馬小屋か?(36.1942、140.3642)