小幡城外郭土塁

小幡城は茨城県内の中世城郭の中でも、その構造、残存遺構、どれをとっても最高レベルの城である。
この城を実際に見た人でこの評価を否定する人はまずいないであろう。
廃城後、400年以上も経過しているにも係わらず、堀はまったく埋もれてはいない。
雑木林の木を切れば、特に土木工事を行う必要なくそのまま当時と同じ状態に復元できそうである。
これほどの城であるにも係わらず、どういう訳か国の史跡はおろか、県史跡にも指定されていない。
いまだに茨城町史跡に過ぎないのである。
この理由は、今一つ、この城の歴史が明確ではなく、中世の歴史に大きな足跡を残した城ではないということだそうである。
つまりは、歴史的な履歴が不明または軽いというだけの理由ということである。
戦国時代、この城は水戸の江戸氏と石岡の大掾氏の領土間に位置する境目の城であったという。
城自体は始めは大掾氏の支配下にあったが、途中で江戸氏の支配下となり、両者が滅亡するまで江戸氏が支配していたようである。
両者滅亡後は佐竹氏の支配下におかれ、水戸城の南方の防衛拠点、地域支配拠点として整備されたようである。
以上がこの城の推定歴史であるが、あくまで推定である。
その裏付けとなる資料がほとんどないのである。
これでは確かに県史跡等に登録する根拠は薄い。

その小幡城の本体部分については、今更、言及する必要はないが、この城には外郭の土塁、堀が存在する。
いわゆる長塁である。
国道のバイパス工事等に先立つ発掘調査でこれらが確認された。
右の図は、国土地理院の25000分の1の地図の当該部分を利用させていただき、該当する長塁の位置を示したものである。

まず、1つ目は小幡城の北側の谷津を挟んで、北の台地にある前新堀東遺跡である。
「ひづめ」さんが付けた仮称「千貫桜東土塁」と呼ぶ。
この土塁を横切る道路を東から走って行くと、廃モーテルがあり、そこを過ぎると、藪の中に堀と土塁が確認できる。
発掘調査が行われたのは、この南側の部分であり、台地の谷津沿いに南北に長塁が走る。
現状は堀底から土塁上までは2m程度であるが、発掘された姿は3.5mほどある。
堀の幅は狭い。塹壕のような感じである。発掘調査が行われた部分は工事で隠滅すると思われるが、北に延びる部分は、幸い破壊を免れることが出来そうである。
この土塁はいったいどこまで延びていたのかは分からない。

2つ目は、国道6号沿いにある前新堀遺跡である。「ひづめ」さんが付けた仮称「千貫桜東土塁」と呼ぶ。
以前、国道6号を走行した時は、この付近に竹やぶがあったのを記憶しているが、その竹やぶの中に存在していたのである。
ここもかなり埋まっているが、未発掘の部分でもはっきり、土塁と堀が確認できる。
発掘された堀が凄い。深さは5mほどある薬研堀というか、落とし穴状態である。
そこには水が溜まっている。落ちたらとても上がることは出来そうにもない。
この堀がさらに南北に延びていたようである。
北側は国道6号を越えて、その北側まで、南は茨城東高校方面に延びていたようである。

千貫桜東土塁(前新堀東遺跡)

右側が土塁である。御覧のようにV溝状である。この写真の先に見える藪内の遺構は、破壊を免れそうである。 埋没はしてはいるがそれほどではない。発掘前の状態でも十分、遺構は確認できる状態である。 この堀は排水溝を兼ねていたのだろうか?余り防御性は感じないのだが、土塁が風化で低くなってしまったんではないだろうか。

千貫桜西土塁(前新堀遺跡)

これが発掘前の状態。堀と土塁は十分に確認できる。右の写真はこの北側である。これと比べると結構埋没している。右側が国道6号。 これが堀?まるで落とし穴である。落ちたら壁が垂直で上がれない。そのまま、溺死である。 土塁を東側から見る。現状2m位、この反対側に堀と国道6号がある。当然、土塁ももっと高かったのだろう。 堀は土塁上から最大5mほどの深さがある。水は湧いたもののようである。

山崎外囲い土塁

上の2つの長塁は小幡城の北側の台地にあるが、南側の台地にも長塁がある。
城から南東500m、城の南の台地にある山崎集落の東側に位置する。
この長塁にも特に名前はないが、「山崎外囲い土塁」も仮称である。
小幡城から水田際を通る道路を走行していくと、台地の切れ間に堀が南側の台地上部に延びていくのが確認できる。
この堀は80mほど行くと、右にカーブしてさらに続いていく。幅は8m、深さは3mほどである。
これでも結構埋没しているはずであるので、さらに1mほどの深さはあったのであろう。推定できる堀の形状はV型の薬研堀ではないかと思われる。

現在は通路として堀底が使われている。当面、隠滅の心配はないだろう。
道路際から堀が見える。 この堀の底を行くと80mで右にカーブする。

小幡城七郭の発掘現場
 小幡城の西側の七郭付近に道路が通るらしい。そのための発掘が行われていた。土抗や竪穴式の建物、墓などが発見されているという。

この穴は墓穴? 北側の台地に千貫桜東土塁の発掘現場が見える。