布川城(利根町)

布川城は、利根町役場の地を二郭とし、その東の徳満寺を本郭、さらに県道4号を挟んだ東側の布川神社、日枝神社、旧中学校のある台地一帯が城域であったと言う。

この東側の部分も含めると1q四方くらいの広さがあるが、東側部分は城下町があったのではないかと思われる。

この台地は南側に利根川を望み、川面からの比高が15mほどである。
遺構は栄橋北側の本郭に相当する徳満寺の西側と北側に土塁が見られ、西側に馬出と本郭間の堀がきれいに残る。

馬出は50m×15mくらいの大きさで、本郭間には幅10m、深さ5mほどの堀が残る。役場間の低地は堀の跡であるという。
南北朝時代、応安2年(1369)豊島氏11代豊島頼貞築城したという。

この豊島氏、太田道灌に滅ぼされてしまう石神井城の豊島氏の一族と思うのだが、解説では摂津から来た一族と書かれている。
それなら別系統のようであるが、真実は如何に。

永正16年(1519)の豊島頼総の頃が豊島氏の最盛期であり、この付近一帯を領土にし、石高は7000石だったという。

しかし、北条氏が進出して来るとその圧力により周辺の多くの大名同様、その傘下となり、牛久番などに動員され、こき使われる。
天正18年(1590)小田原の役が起こると、当主豊島貞継は小田原城に入り、弟頼重が留守を務めるが、来寇した浅野長政に降伏し、忍城攻めに参陣、重傷を負い没する。
しかし、そのおかげで滅亡は免れ、豊島明重が跡を継ぐが、徳川家康から改めて1700石を与えられ、富岡(神奈川県横浜市)に移った。
その後、布川城には松平信一が5000石で入る。
(対佐竹戦略の1つとして、龍ヶ崎、江戸崎の芦名に対するため、外様の豊島氏を追い出し、譜代を置いたというのが、真実であろう。)、関ヶ原の戦いの後、信一は35000石で土浦城主となり、布川城は廃城となった。
当時、海が城のすぐ東まで入り江になって迫り、この付近は今の利根川、当時の常陸川が海に注ぐ場所であった。
したがって、この城は水運を管理する城、内陸と海を繋ぐ、舟の積み替え所、物資集積所だったと思われる。

@ 本郭であった徳満寺境内
A本郭と馬出間の土橋 B 本郭西の土塁 C 本郭と馬出間の堀
D二郭の地には利根町役場が建つ。 E本郭(右)と二郭間の堀切跡。
ここに木橋があった。
城の南を流れる利根川。

(図説 茨城の城郭 を参考にした。航空写真は国土地理院が昭和54年に撮影したもの) 

下総相馬氏の城

守谷城(守谷市本町)
守谷小学校から東側一帯が城址である。
この付近は道が狭く分かりずらいが、守谷小学校を目指せば間違いなくたどり着ける。
小学校前に守谷城址の碑が立っており、土塁がある。
この守谷城、牛久城と良く似た構造を持ち、東側の水田地帯に半島状に突出た比高約20mの台地に本城、または詰の城と言うべき城があり、守谷小学校付近の台地に居館、政庁等があった外郭を置いている。
外郭の周囲には当然、堀や土塁が台地を仕切るようにあったはずである。しかし、現在は、小学校の敷地や住宅になってしまい、一部の遺構を除いて湮滅してしまっている。
しかし、半島部にある本城と言うべき部分は完存状態であり、公園として遺構を極力壊さずに、整備されている。

本城部分の広さは、南北150m、東西500mほどである。中世の雰囲気がそのまま残る素晴しい空間である。
公園化されているため、年中見学が可能である。
一番、地勢が高く、広い曲輪Tが本郭である。
西側に台地側を遮断するように曲輪Uを置き、東側には馬出のような曲輪V、さらに曲輪W、Xと連郭式に曲輪が並ぶ。
曲輪Wが本郭とする説もあるが、これは信用が置けない。
曲輪Xは妙見曲輪とも言われ、ここの千葉一族の守護、妙見社があったという。

この本城部分の付け根に駐車場があり、ここからは歩きとなる。
この駐車場付近も馬出の跡だったという。南側に藪の覆われた土塁がある。
そこから細い道を降りていくのだが、この道自体が本城部分と台地側を隔てる堀切であったようである。

ここには木橋がかかっていたらしく、曲輪Uの西側に枡形虎口がある。
曲輪Uと本郭間の堀が壮大である。堀底から本郭の土塁上までは7mほどある。幅は20mくらいだろう。
この堀はうねうねと100m以上続く。曲輪Uは本郭西側を三日月状に覆う。長さ120m、幅最大50mくらいか。

西側のみに土塁があり、枡形虎口が開く。本郭は南側から登る道が付いているが、これは公園化に伴う後付けのものである。
南端に枡形があり、曲輪Uとはやはり木橋で結ばれていたようである。
本郭は東西最大150m、南北200mと大きく、北側に帯曲輪がある。この帯曲輪も前面に土塁を持ち、下の舟付場と連絡していたものと思われる。
東の曲輪Vは馬出のような東西30m、南北100mと細長い曲輪であるが、土塁のような感じである。
本郭との間には深さ5m、幅15mの堀がある。
曲輪Vの東に堀切があり、現在は道になっている。
その東に100m×70mの大きさの曲輪Wがあり、内部は畑である。曲輪Wは、本郭から標高で10m下になる。
曲輪Xも畑であるが、70m×50mの大きさである。
この付近にはすでに人家となっている。
本城の東側は水田であるが、かつては沼であったという。
守谷小学校前に残る土塁。 @本城部分の北側。林が曲輪U A曲輪U西側の道は堀切跡だろう。 B曲輪U(左)と本郭間の堀。
C曲輪U西の枡形虎口 D曲輪U内、西側を土塁が覆う。 E本郭の周囲は土塁がある。写真は曲輪U側の土塁。 F本郭内部。
G曲輪V、W間の堀 H曲輪W内部 I本郭と曲輪V間の堀 本郭から見た曲輪WとX。

この城は、下総相馬氏の本拠である。
相馬氏と言えば、戦国時代、伊達政宗と壮烈な戦いをし、明治維新まで生き残った奥州の相馬氏が有名である。
しかし、奥州相馬氏はここ下総相馬氏から分かれた分家なのである。
天慶皇年(939) 平将門が築城したというが、これは、この地の英雄、将門の子孫を領内統治のための箔付けに利用とした相馬氏のでっちあげらしく、何の根拠もない。
本当は、将門の叔父、良文の子孫、千葉氏から分かれた家である。
一応、相馬氏は、治承4年(1180) 将門7世の孫、小太郎重国が守谷に住み相馬と称したことにしている。
頼朝の奥州征伐の功で奥州に領地を得、相馬氏から陸奥に一族が行く、それが、奥州相馬氏であるが、両相馬氏は一族として連絡は欠かさなかったらしい。
室町前期は、古河公方の部下として活動するが、戦国時代になると、南から北条氏が北上し、北からは小田氏を制圧した佐竹氏とその同盟者、多賀谷氏が南下して来る。
両者に挟まれた相馬氏は精々5万石程度の所領しかなく、単独で対処することはできなかった。
天正2年(1574) 相馬治胤は北条氏の傘下に入ることで生き残りを図り、多賀谷氏と対する。
しかし、関東の多くの大名同様、これが命取りとなる。天正18年(1590)、 小田原の役が始まると相馬氏は小田原城の篭城に動員され、北条氏の降伏とともに改易されてしまう。
その後、 菅治定政が1万石で入るが、寛永5年(1628)に天額となる。
さらに同19年(1642)、 堀田正俊が(1万石)で入り、寛文8年(1668) 酒井忠挙(2万石)と続くが、娃宝4年(1676)以降は空域となり、自然と廃城状態となった。
結構、長い歴史を持つ城であるが、江戸時代は小学校付近の部分のみが使われており、先端の本城部分は廃城状態にあったのだろう。
(図説 茨城の城郭、茨城県重要遺跡報告書Uを参考)

筒戸城(つくばみらい市筒戸)

新守谷駅の東700m、つくばエキスプレスの車両整備工場北側の岡が城址である。
この台地の北側には小貝川が流れ、比高は、10mほどである。
この台地は北西方向から張り出しており、城址はその先端部にあたる。
禅福寺の南東部一帯、1辺150mの三角形の部分が本郭であり、禅福寺境内付近が二郭にあたる。
本郭内部は住宅地になっており、ほとんどの遺構は失われてしまっているが、北側に堀が道となって残っており、土塁が一部残る。
また、本郭南側に高さ3mの土塁が残る。
この土塁は南の岡下から見ると高さ6mほどの切岸になっている。
二郭の北側には堀があったようであるが、湮滅してしまっており確認できない。
寺の山門前の曲がった道路が堀跡であったという。
斜面部も段々状になっていたり、虎口のような感じの場所もあるが、遺構であるかの確証は持てない。
南東2.5kmに守谷城があるので、相馬氏が支城として築いたという。
以後、筒戸氏が城主であったが、天正17年(1589)筒戸衛門城主であった時には下妻の多賀谷家重、大曽根白井全洞等により攻められている。
この城も天正18年(1590)、小田原の役で相馬氏が北条氏と運命を共にすると廃城となった。

(図説 茨城の城郭、茨城県重要遺跡報告書Uを参考)

@東側から見た本郭(T)南側の土塁。
高さは3mほど。
左の土塁を西側から見ると高さは6mほどもある。 A禅福寺から南の低地方向に降りる道は堀の跡
だろうか。
B本郭北側の堀跡は道となっている。
右側の竹林の中に土塁がある。
C禅福寺東側のこの道が堀跡という。 D二郭にあたる禅福寺。遺構は残っていない
ようである。

高井城(取手市下高井)

取手市駅の北西約3km、小貝川の右岸、北に向かって突出した台地(標高約20m、水田面との比高差10m位)の西端部に築造された平城である。
国道251号線旧道沿いにある東光寺の西側一帯が主郭部であり、東光寺付近は外郭であったという。
城址付近は「高井城址公園」となり、整備されている。本郭がある岡の西側の低地が公園となっており、池などがあるが、もともとここは小貝川の入り江であり、ここに船着き場があったと思われる。
小貝川の水運を管理していたのであろう。
台地北西端にある本郭は、50m四方ほどの広さであり、南側と東側に堀がある。
北側には副郭があり、西側の斜面には帯曲輪がある。
本郭の虎口は南側にあり、土橋で南側の二郭と連絡する。
この付近の本郭側の土塁は大きい。
二郭は林であるが藪である。
その周囲にも堀があったと思われるが良く分からない。
本郭の東には妙見社があり、堀を介して東側の東光寺一帯が外郭となっていたようである。
外郭部は住宅地となり、遺構はほとんど失われているようである。
一方、谷津を隔てた西側一帯の岡にも何らかの城郭遺構はあったような感じである。

築城は平将門の末裔(本当は千葉氏の流れであろう。)を自称する相馬小次郎重国によるという。
その子孫が高井氏を名乗り、代々居城するが、天正18年(1590)小田原の役で北条氏ついた相馬氏ともども滅亡したという。
なお、最後の当主相馬胤永の長男は小田原の大久保氏に仕え、弟胤正は家老横瀬家の養子となったが、大久保氏が改易されると、姓を広瀬と改め下高井に帰農した。

(図説 茨城の城郭、茨城県重要遺跡報告書Uを参考)

北側の公園から見た主郭部(左)。
池は小貝川の入り江跡だろう。
@本郭(左)と二郭間の堀底道。 A本郭の南側には櫓台のような土壇がある。 左の土壇を本郭(T)内から見る。
B本郭内部。 C本郭の東にある妙見八幡。 D二郭西側の腰曲輪。 E本郭西側の歩道は、帯曲輪の跡らしい。
F主郭(左)西の谷津状部分。右の岡にも何かあったと思われる。 公園から見た北側の小貝川方面。ここは入り江跡だろう。左の林も怪しい。 左の写真に映る林の中。上部は平坦地である。曲輪か? 同じく、左の山。虎口のようなものがあった。