大谷根古屋城(美浦村根古屋)
国道125号線トレセン入口より南西に向かうと大谷小学校がある。
ここの北、高橋川の低地の北の対岸にある来迎寺の東側の山が城址である。
この山、北が岡続きであるが、続き部分の標高は低く、ほぼ独立状の山である。


↑ 南東、信太城の麓から見た大谷根古屋城

標高は23.7m、比高21mの直径100m程度、周囲は急斜面である。
頂上部は40m四方程度、比較的平坦であり、北側に土塁の残痕がある。
南側が少し低く、南側に虎口があり、その下を帯曲輪が巡る。
北下に2段の腰曲輪がある。

北側には堀があり。来迎寺の西側には堀から続く小川があるが、これは堀跡のようであり、来迎寺の地が居館の地であったと思われる。

@来迎寺の地は居館跡だろうか? A主郭直下の曲輪切岸 B主郭内部は藪、西から北側にかけて土塁がある。

城主は波多野刑部少輔であるという。
波多野氏は小田氏家臣であったらしいが、小田氏の勢力が減退すると。土岐氏に従ったようである。
廃城は小田原の役で北条氏とともに土岐氏が滅亡した時であろう。
(美浦村お散歩団、余湖くんのホームページ 参考)

信太城(美浦村信太)
大谷根古屋城の南を流れる高橋川の対岸の岡、大谷小学校の東の岡が信太城の跡というが、明確にここが主郭だ、と言えるような場所がない。
ところが切岸のような城郭パーツがあちこちにある。
字も「城ノ内」である。
普賢院付近には土塁で囲まれた民家があった。

この普賢院付近が城郭らしいが・・ 普賢院西の民家内には土塁がある。写ってない!

城でもあるだろうが、ここは信太郡の郡衙の所在地であり、信太荘の総政所の置かれた地と比定されているという。

郡衙の中心地がどこだったのか分からないが、南北朝の騒乱時、次第にランダムに拡張されていったようである。
城とは思ええないのは、無造作に拡張されたせいかもしれない。
拡張は南北朝時代を越え戦国時代まで築かれ続けられた可能性もある。
美浦村誌によると南北朝期、北畠親房がこの地に漂着し、阿波崎城に籠城するが、信太城も重要な役割を果たした可能性があり、北朝方に敗れその役割を終えたと思われる。と記載されている。
(美浦村お散歩団、余湖くんのホームページ 参考)


臼田館(美浦村布佐)
木原城の南西600m、国道125号線バイパスの南側に南西側から突き出した標高16.3mの岡が館跡。
この岡の北側、西側には水田地帯が広がる。
水田地帯の標高が3.8m程度なので、比高12m程度ある。
西は阿見町であり、阿見飛行場が見える。
この岡は南西側が岡続きではあるが、低くなっており、ほぼ独立した状態になっている。

100m×60mが館域であるが岡の上は藪状態、かつては畑として使われていたようであり、土塁は見られない。(破壊されてしまった可能性もある。)
北側は急な崖状、東側は人工的な切岸になっている。
南側は畑のままであり、緩い傾斜となっている。
南側に堀があっても良い感じであるが、道路はあるが、堀が存在した感じはない。


岡先端部の北側を西側から見る。
岡下の水田はかつては湿地であったのだろう。

岡の南側は緩斜面であり、岡上の畑に登る道が登城路っぽい。
しかし、途中に犬小屋があり、「来るな!」と吠えるので行けない。
岡の東側は人工的な切岸、右下の畑は堀跡か?

位置的に木原城の出城と思われるが、より古い城館であるかもしれない。

館主は江戸崎土岐氏家臣の臼田氏というが、この館と関係があるのかは定かではない。
永正初年頃、土岐原氏の家督を若年の当主が継承したことを攻略の好機とみた小田氏が、臼田弥次郎や原内匠助らと内通し土岐氏の有力家臣団、信太庄山内衆を内部から崩そうと謀った。
しかし、臼田氏の惣領左衛門尉の活躍で小田氏の謀略は失敗に終わった。
さらに大永三年(1523)土岐治頼、近藤勝秀、臼田河内守らが小田政治方の屋代城を攻め落としたという。

この記録は土岐氏の歴史を解明する上で重要な「臼田」文書による。
この臼田文書は土岐氏滅亡時までの記録が残る。
臼田氏は、代々勘解由左衛門尉を名乗るが、その本拠は羽賀城であり、土岐氏滅亡後帰農した子孫が現在も在住する。

名前から推定できるように、臼田氏は信濃国の豪族滋野氏の一族で、伴野荘内の臼田郷(長野県佐久市南部、旧臼田町)を本領としたが、鎌倉後期、四郎重経の時に北条氏によって臼田郷を奪われ、常陸に来たらしい。
上杉氏が信太荘を手中にして間もない嘉慶元(1387)年8月、臼田直重は憲定から信太荘布佐郷(美浦村)を宛行われたとの記録が残る。
(美浦村お散歩団、余湖くんのホームページ 参考)


美浦村北部の霞ヶ浦沿岸や稲敷市の浮島地区などには狼煙台がいくつもある。
この地を支配した江戸崎の土岐氏は霞ヶ浦南岸の水運で財をなしたというので、始めはその湖内水運権益を確保するためのものだったのであろう。

中世初期なら霞ヶ浦東岸鹿行の大掾氏系の土豪や北岸の地区とも比較的平和な関係であったが、戦国時代になると土岐氏は北上する北条氏の圧力で北条氏に組するようになる。
一方、鹿行の諸土豪は守護佐竹氏の影響下にあり、出島地区は佐竹氏に制圧され、ここが佐竹対北条の最前線となる。
幸い、ここでは戦闘は起こらず、にらみ合いに終始したようであるが、緊迫感はかつて以上であり、狼煙台がより整備されていったのであろう。
当然、通信先は江戸崎城、そして戦国末期は木原城であろう。
狼煙台といっても明確な城郭遺構は存在しない。ほとんど自然地形に近い。
美浦地区の狼煙台とその中継所を。



大山城(美浦村大山)
霞ヶ浦に西側から突き出した「稲荷ノ鼻」がある半島の一段高い標高26mの岡にある。
岡下北側で県道122号線と県道120号線が合流する。

この岡に立てば、霞ヶ浦が3方向に見える・・はず。

だが、藪で歩行さえままならず、何も見えなかった。

この岡にいくには南側の雁ノ宮神社から行くのであるが、この岡、ただの山である。
城郭遺構と思えるものはない。

この岡のある陸平地区はかつて霞ヶ浦に浮かぶ島だったようであり、岡平貝塚がある。
おそらく岡の下まで海が迫っていたのであろう。

ここは霞ヶ浦の水運を監視する場所であったのであろう。
しかし、どう見ても城ではない。

監視するだけなので防御遺構など不要なのかもしれない。
なお、城址とされる山に2,3か所直径3mほどの穴があった。
@雁ノ宮神社の地に居館があったのか? A岡先端、最高箇所。内部はド藪!! B倒木痕と思いきや、高射機関砲銃座跡とか?

倒木跡かと思ったが、美浦村お散歩団の記事によるとこれは戦時中の40o対空機関砲銃座の跡という。
ここの西に海軍霞ヶ浦航空基地があったのでその防衛用であろうか。
(美浦村お散歩団、余湖くんのホームページ 参考)



馬掛館(美浦村馬掛)
大山城もある安中台地の「おかだいらゴルフスプリンクス」北端部東、馬掛地区にある成就院の西の岡にあるが、現在そこは集落であり、南側、西側はゴルフ場である。
城郭遺構はあるのかどうか分からない。
ここも物見台か狼煙台であり、その番の館があったのではないかと思う。



根本台狼煙台(美浦村根本)
陸平貝塚のある安中台地の北端、美浦ゴルフ倶楽部の北端にあたる。
そこは標高27.7m、北に広がる霞ヶ浦が一望の元にある。

西から見た狼煙台、岡先端にある。 岡上から見た霞ヶ浦と筑波山方面、戸崎城は?

城址には北下の道路に面した休憩所から登れるが、岡の上は公園になっている。
おまけに山も削られている。

岡上は公園化のため削平されている。 背後の山は藪、堀らしいものがあるが山道か?

公園に南から突き出た尾根が城址のようでもあるが、特段遺構らしいものはない。
そこは藪化している。堀跡のようなものがあるが、山道のようでもある。
いずれにしてもここも城とは言えるようなものとは思えない。
単なる物見台、狼煙台程度のものである。

↑ 狼煙台から見た北東の行方方面、対岸までは約6q、戦国時代、対岸は佐竹氏の影響下にあり、霞ヶ浦の中央が境目であった。

北の対岸、約3qを隔てて見える霞ヶ浦の対岸は出島地区であり、戦国時代は出島地区の戸崎城は佐竹氏に攻略され、以後、佐竹氏の勢力下となる。
したがって、眼下の霞ヶ浦は佐竹/北条の境目でもあり、緊迫した場所であったのであろう。

大須賀館(美浦村大須賀津)
木原城から県道120号線を東に1.5q行った大須賀津地区にあった。
地名のとおり、この付近には港があったようであり、港を管理する館であったと思われる。
来迎院という寺院付近が館であったように思われ、北側の水田が堀跡のようであり、櫓台のような場所もある。

しかし、ほんとうにここなのだろうか。
ここの標高はわずか3.7mであるが、その北東、県道を境に標高5mほどの墓地になっている岡(古墳?)があるが、その場所にも何かあったような気もする。
また、東にある標高11.7mの黒坂命古墳のある場所も何か関係ありそうである。


県道120号線の北側にあるこの岡は櫓台だろうか?
黒坂命古墳も櫓台に使われていたのではないだろうか?

少なくともこの古墳、物見などに使われていたような感じである。
(美浦村お散歩団、余湖くんのホームページ 参考)



花見塚狼煙台(美浦村花見塚)

陸平貝塚がある安中台地と木原城などがある丘陵地帯の間は水田地帯であるが、所々に小さな山が存在する。
花見塚狼煙台もそのような山の一つである。


南から見た花見塚狼煙台、手前の水田はかつては霞ヶ浦の一部だろう。

おそらく原始時代は霞ヶ浦に浮かぶ小さな島だったのではないかと思う。
この岡、頂上部の標高が16.9m、下の水田が3m程度なので比高は14mほどである。
この岡には東にある神社から登るが、登り道などはない。

@岡東の神社参道、ここから突入。 A岡の頂上部は平坦にはなっているが・・

ひたすら藪であるが、頂上部は径35mほど。
比較的平坦であるが土塁などの遺構はない。
ほぼ自然地形である。


東の安中台地方面、北の大須賀津方面から、木原城方面への狼煙リレーの中継点ではないかと思う。
(美浦村お散歩団、余湖くんのホームページ 参考)



大谷城(美浦村大谷)

国道125号線、大谷三叉路から北に県道122号線が分岐するが、その交差点の北に鹿島神社がある。
この神社の地が大谷城である。


↑ 東側、霞ヶ浦入り江の干拓地から見た城址の岡

この神社のある岡はほぼ独立しており、特に東方向の眺望が抜群である。
北側は急傾斜、西側は低くなり岡が続く。
この岡の東方向は水田であるが、かつての霞ヶ浦の入り江を干拓したものである。
東には稲敷市に属する鷺神社がある鳩崎狼煙台が見え、北東には陸平貝塚がある安中台地の丘陵が見える。
神社の地の標高は24.2mある。

@鹿島神社の建つ岡、東側の斜面 A岡の上に建つ鹿島神社の社殿 B社殿から南に派生する尾根の曲輪?

城としての土塁、堀といった遺構は確認できない。
岡の上が段々に削平され、神社が建っているだけである。

形としては「人」型をしている。

城の機能としては戦闘用ではなく、物見台の役目であろう。
狼煙の伝達先は大谷根古屋城であろう。
C社殿から西に派生する尾根、先端が土壇。 D北東端部は崖になっている。

(美浦村お散歩団、余湖くんのホームページ 参考)