見川城(水戸市見川町)
 偕楽園の南、約700mの地にあり、東側は桜川の低地に面する西側より延びた台地の端にある。
 それほど大きい規模の城郭ではないが、市街地の中にある城としてはほぼ完存状態を保っている奇跡的な城である。

 南側には侵食谷があり、これが天然の堀となっている。
城の周囲は宅地化が著しいが、奇跡的に城郭遺構のほとんどが損なわれずに残っている。
しかし、吉田城同様、水戸市民に知名度は低く、この地に完存に近い状態の中世城郭が残っていることは余り知られていない。


また、水戸市の中心部にこんなすごい藪があるのか?
と驚く位、本郭の中は周囲とは別世界である。

おかげで写真を撮っても何がなんだかさっぱり分からんものが写っている。
 この城は深い堀と高い土塁が非常に印象的である。
まるで小幡城を彷彿とさせる見事さであると同時に両城が同じ者により拡張工事が行われたことを示唆するように思える。
その者とは江戸氏かはたまた佐竹氏か?

 大手口が西側にあるため、台地に続く城の西側を守る馬出のような役割を持った郭がある。
これらの郭に比べて本郭の面積、土塁、空堀の規模は非常に大きい。
本郭の土塁は特に北側と西側が巨大であり、郭内から4m程度、堀底からは6m、部分的には8mの高さがある。
これに対して二郭、三郭の土塁は低い。本郭北東端部の虎口は枡形と馬出を組み合わせた技巧的な構造である。 

 築城時期は諸説があり、はっきりしないが、江戸氏家臣の春秋氏が延徳年間(1489−1491)居城していたとの記録が「新編常陸国史」にある。
 この時期に城が存在していたのは確実であるが、築城時期は江戸氏が水戸を支配する前の大掾氏の時代、吉田城、河和田城と同時期と思われる。
 この城も水戸城の西を守る支城であることは間違いない。
 廃城は佐竹氏による江戸氏攻撃後か秋田に去った時点であろう。
 城は桜川低地から比高20mの台地突端部にあり、3つの郭からなる連郭式の平山城である。 
城域としては250m四方程度の大きさである。
連郭式と言っても本郭の西側に位置する本郭以外の2つの郭は、本郭に比べて土塁も低く、面積も小さい。

 この時期の連郭式の平山城の台地端部に位置する郭は、台地辺部に土塁が築かれるか、斜面に帯曲輪が築かれることがほとんどであるが、本城の場合は台地辺部に平行して二重の土塁と堀が築かれており、台地下からの攻撃に対する防御性が高い。
ただし、桜川低地に面する東側の土塁と堀は小規模であり、鉄砲射撃用の塹壕と言ったほうが良いかもしれない。
 この形式が発展したものが、石神城、額田城に見られる主郭部周囲に存在する大土塁と考えられ、常陸太田城の本郭も台地辺部に本城同様、土塁と堀が築かれている。
とすれば、この土塁は佐竹氏が整備した可能性もあり、水戸城の出城として継続して位置付けられていた可能性もある。          
本郭北側の堀と土塁 本郭北西端の堀と土塁 北西端部分の杉林内の三郭北の土塁
北東端の切通し(ここも堀底道だろう。) 本郭の桜川低地側の帯曲輪の土塁 桜川低地より見た見川城址
本郭南西端の堀。左が本郭であり高さは8mある。 二郭内部。西側を巡る土塁が見える。 本郭内部から見た西側の土塁。高さが4mほどあり櫓台のようである。