石岡市(旧八郷町)の城1
片野城(石岡市(旧八郷町)根古屋)
八郷町役場から南西約3qの根小屋の集落がある比高20mの岡が城址。
戦国時代の武将として太田三楽斎資正は有名であり、彼は今もこの地に眠っているが、その有名人物の居城の割には昼間も余り人が歩いていない田舎集落の草木に覆われた林と畑の中に静かに城址が眠っている。
太田三楽斎資正については、1冊の本が出来てしまうくらいの経歴とエピソードを持つ人物であるので,このようなHPでは、とても書ききれるものではないので省略するが、突き詰めれば、彼の行動は一環として故郷の岩槻城への帰還が目的であったようである。
佐竹の客将としてこの城で小田氏攻撃に熱中したのも、その背後にいる岩槻城を抑えている北条氏を打倒する目的の一環であろう。
築城は、小田城防衛上の北の守りの拠点として、文永年間(1264〜1274)の頃、小田氏の一族の八代将監によるといわれる。
その後、永禄9年(1566)、岩槻城を追われ、佐竹義重の客将となった太田三楽斉資正が入城した。
太田三楽斉は佐竹氏の小田氏攻略の南部方面司令官としてこの城を拠点に、柿岡城の息子梶原政景や真壁氏と協力し、遂に小田氏を駆逐する。 その後も三男資武とともに片野城にいたが、小田原の役で敵の北条氏が滅亡した翌年、天正19年(1591)、岩槻城復帰を果たすことなくこの地で69歳で病死した。 その後、佐竹氏の常陸統一に伴う家臣の配置換えで、石塚城の石塚義国が城主となったが、慶長7年(1603)の佐竹氏の秋田移封に同行して石塚氏は秋田に去り、旧織田家臣の滝川氏が2万石で封じられたが、寛永2年(1625)に改易され、城も廃城となった。 関が原の合戦以後、25年間にわたり大名の居城であった訳ではあるが、江戸時代の城であったという感じは余りない。 戦国時代の城という雰囲気が強い城である。 現在残る遺構のどこまでが太田三楽斉時代のものかは不明であるが、現在残る遺構を見る限り、彼が城主の時に拡張整備され、その後、改変された可能性は少ないように思える。 |
@曲輪UとV間の堀は道路に なっている。 |
A曲輪Uを入ると@側は土塁である。 | B本郭(T)北側の高さ3mほどの 土塁。 |
C本郭と曲輪Y間の箱堀。 |
D曲輪Y虎口の内桝の土塁 | E曲輪Y内部 | F曲輪Y北東下の堀は水堀で あった。 |
G曲輪[と周囲を囲む堀跡。 |
H曲輪V内に建つ七代神社 | I曲輪W、X間の堀 | J曲輪Xにある太田三楽斎の墓 | K西斜面の腰曲輪 |
もっとも高々2万石程度の滝川氏の経済力では、城を整備することは不可能であり、転封の可能性も大きかったためインフラ整備をする価値さえ感じなかったのではないかと思われる。
この城は、岡の上に主郭部を南北に連郭式に配置し、斜面にも段々状に曲輪を築く形式である。
城の東西はかつて周囲は沼沢地であり、結構、要害の地であったと思われる。
宅地化が進んで全貌を把握するのは難しいが、岡の上に位置する主郭部は林と畑となっており、比較的確認しやすい。
しかし、岡斜面の腰曲輪のほとんどは宅地になっている。城域は500m四方はあったのではないかと思われる。
郭ははっきりしており、郭間の堀も深い、曲輪U、V間の堀@は現在、切通しの道になっており、ここから曲輪Uを通って本郭まで行ける。
曲輪Uは畑であるが、南側に土塁Aがある。
本郭とは土橋で結ばれる。
本郭は60×40mほどであり、内部は杉林である。
周囲には高さ3mの土塁Bがある。西側を除き、周囲は堀である。
その北に堀Cを介して曲輪Y(北郭)D、Eがある。その北側の堀Fは一部水堀状になっている。
堀@を南に行くと曲輪Vであり、現在、七代神社Hの境内である。
なお、七代神社の神主さん、なんと「天神林」さんなのである。あの馬坂城、曽目城の城主を務めた天神林氏の末裔か?
家紋も「佐竹五扇紋」である。どういう経緯でここに来たのか?
その南に馬出のような小さな曲輪Wがあり、堀Iを介し曲輪Xがある。
ここに太田三楽斎の墓Jがある。あの有名人物、こののどかな片田舎に眠っているのである。
斜面の曲輪は宅地となって形状が分からなくなっている部分もあるが、畑となっている部分は結構、形状を良く残している。K
主郭部から東や北に広がる台地も広く、現在の集落のあるこの場所が家臣団の屋敷があった場所ではなかったのだろうか。
小塙館(石岡市(旧八郷町)小塙)
市立有明中学校の南西800m、太田方面から恋瀬川に合流する河川が開析した水田地帯の西側の岡の東端部にある。 岡の比高は20m程度。館跡という場所は畑地となっている。 しかし、右の写真の奥に見える南側の民家の北に土塁らしいものが見える。 このため、遺構の一部は残留しているのかもしれない。 この畑の周囲を道路が回っているが、これが堀跡の可能性もある。 畑が館跡とすれば直径80mほどある感じである。 かつて岩瀬方面に通じる小見街道がここを通っており、街道を管理する館であったようである。 宿もあったのかもしれない。 館主は、梶原政景が小田城に移った後、柿岡城主となった真壁氏家臣の居館という。 |
青田館(石岡市(旧八郷町)青田)
月岡三差路を朝日峠方面に県道138号線を約800m南下すると右手、西側に右の写真のような岡がある。 これが青田館であり、水田地帯に浮かぶ島のような感じの岡にある。 そこは大きな農家が建っている。 この家の西側に回ってみると、ちゃんと土塁がある。 土塁が全周に回っていたかどうかは分からないが、山に続く西側に存在するのは防衛上、合理的である。 おそらく水田地帯は湿地であり、この西側に門があったのであろう。 |
関刑部館とも言い、小田氏家臣、関刑部の館であったという。 |
戦国時代、八郷地区が佐竹氏の手に落ちると、関刑部は降伏して、この地で帰農したとも、ここを去り、岡見氏に従い佐竹氏と戦ったという。
この家の姓、聞くの忘れた。関さんかどうか?
航空写真は国土地理院昭和49年撮影のもの。