谷中城(桜川市(旧岩瀬町)岩瀬)
橋本城の北、国道50号線と桜川の対岸、岩瀬町運動公園の東の山が城址である。
この山は洗面器を伏せたようなずんぐり形をしており、標高は109m、比高は60mほどである。

上の写真は東側から見た城址である。
ご覧のような緩やかな山である。
右側の一番高い場所に牙城があり、山麓の中央やや左の民家付近が館跡である。

城址には山の東に標柱が立っており、そこを登れば山も緩いし道がついているので簡単に行ける。
・・・と思ったが、とんでもない。

途中で道は曖昧になってしまっている。

かつてはあったのであろうが、既に藪化してしまっている。
倒木を乗り越え、イバラを払いながら山上の牙城まで行くことになる。

標柱のある場所からS字となった坂道を登ると直ぐに館址である。

その間、切岸が2段あり、平坦地には民家が建つ。

館跡は3段程度になって平坦地があり、北側に土塁がコの字形に存在し横堀がある。
この横堀は長さが100m以上もある。


民家背後の部分の内部は完全に平坦ではなく、結構でこぼこしている。
横堀が山側部分をぐるっと廻っているが、それほどの規模ではなく、どこまで防御的のものか疑問である。

雨水の排水用施設でも兼ねたものではなかったかと思う。
居館の主体部は民家の地であろう。

@館跡背後山側の土塁と堀 A館跡西側の土塁と堀
B下の民家部に降りる虎口部 C館跡と言われる場所であるが凸凹状態、建物はあったのか?

山上の牙城は、周囲を堀@で囲む単郭構造である。

山の形がずんぐり形であり、斜面もそれほど急でなく、全方向から攻められる可能性があったため、このような構造としたのであろう。
主郭は結構広く50m×100mほどの大きさがある。
ただし、内部は平坦ではなく、東側と西側が高く、中央部が堀状に窪んでいる。
北東-南西方向を長軸とした楕円形である。

右の白黒写真は昭和22年にアメリカ軍が撮影した航空写真に写る牙城である。
木が燃料として刈られており、堀や曲輪形状がわかる。

東側には径15mほどの土壇があり、三角点がある。物見櫓があったのであろうか。
この部分、郭内より5mほど高い。

西側にも横堀に面して土壇Aがある。
ここには西側を警戒する物見櫓があったのであろう。

この2つの土壇の間は平坦ではなく、段々状になっている。
北側に堀に降りる虎口があり、その部分で堀が湾曲している。
明確な虎口が確認できるのはここだけであり、ここが牙城の大手門であろうが、他にも堀底に下る道は存在していたようである。

周囲に横堀が巡るが、かなり埋没している。
前面に土塁を持つ帯曲輪のようにも見える。
この堀は本郭側からは深さ3m、幅は6〜9mほどで、外側は1m位の高さの土塁を持つ。

堀であったのなら当時はあと2m以上あったはずであり、やはりかなり埋没しているのであろう。
牙城から西側下の諏訪神社までは緩やかな斜面が続くが、内部は完全に藪化しており、この緩斜面には城郭遺構は見られない。

防御が甘い感じを受ける。
以上、目で確認できた範囲はこのようなものであるが、牙城内部は酷い藪である。
特に北半分の藪度は半端でなく、三角点を見つけるのも苦労した。
写真は撮ったのだが、どれも藪しか写っていない。
肉眼ではちゃんと見えているのだが・・・

@南側の横堀なのであるが・・埋もれている。 A主郭内部、西側の土壇なのだが。藪が酷くて分からん!

谷中城は、地元の土豪谷中氏の城と言われる。
この地は戦国時代、笠間氏と益子氏の抗争の地であるが、谷中氏は笠間氏に付いて橋本城の城主も務めている。
本拠はこの谷中城であろう。

山上の牙城は詰めの城でもあるが、守りには難がある。
ここは陣城的な感じであり、攻撃の起点とする軍勢の駐屯地、出撃基地のような感じである。
北側の虎口は軍勢の出撃口ではないだろうか。
天正12年(1584)、益子氏と笠間氏の間で起こった「富谷合戦」で笠間氏の軍勢が入った場所に「諏訪の峰」が登場するが、それが谷中城であろう。
笠間氏が滅亡し、その後、宇都宮氏も滅亡し廃城になったのであろう。