坂戸城(桜川市(旧岩瀬町) 大泉)
北関東自動車道桜川筑西ICから真岡方面に走行すると右手の山にゴルフ場が見える。
そしてその北側に大きな山塊が見える。

山の名は城山、名前からして城がある山である。その城が坂戸城である。
山の標高は218m、比高150mあるので麓から見上げるとかなり高い印象を受ける。
根小屋は北下に「堀の内」という地名があるのでその地区にあったのではないかと思われる。
写真は南下から見た城山である。山の上は広いが城郭遺構があるのは写真の左手、西側である。

城に行くのは意外と楽である。
城の南側は「筑波学園CC」になっており、城に行くには「筑波学園CC」に行く道に入る。
「筑波学園CC」のクラブハウス北にカートの整備場があり、そこまで車で行ける。
その脇に山に登る道がある。
城のことは従業員も知っており、すぐ道を教えてくれる。

ただし、猪避けの高圧電線が張られているのでそれを乗り越える必要がある。
その道は急であるが、比高50mほど登ると山頂である。

@本郭内部、周囲を土塁が多い。北側が一段高く、土壇がある。 A東側の鞍部には2つの曲輪と堀があるが曖昧な感じである。

この城山、山の周囲は急斜面なのだが、頂上部は1辺200mほどのT型をしており、比較的平坦である。
しかし、頂上部全体が城域ではなく、明瞭な城郭遺構があるのは西端部だけである。
他の部分はほとんどただの山である。

その西端部が本郭(T)@である。
その東に2つの小曲輪Aがある。
東側に続く鞍部の尾根筋を遮断するためのものであり、ここが大手道でもあるのだろう。

鞍部の一番低い場所の標高は206m、西側の本郭部より10mほど低い。
鞍部の曲輪は土塁と堀で仕切られているのであるが、かなり曖昧である。

西端の本郭(曲輪T)は台形をしており、南北最大50m、東西40mほどの広さがあり、やや、南側が低く傾斜した感じである。
周囲を高さ1mほどの土塁Aが巡る。
南側の土塁には大きな岩が含まれているが、これは石垣ではなく土留めであろう。
中央部北側に高さ3mほどの土壇があり、上に社が建ち、三角点がある。

また、北端部が7mほど突き出し、その部分が櫓台状になっており、北下を見ると帯曲輪が巡っているのが確認できる。
さらに北端の櫓台状の場所から20m下に西側から東側にかけてU字型に横堀が巡る。本郭側の切岸は急であり、巨岩がむき出しになっている。
この横堀は西側で竪堀と合流し、東側は斜めに登る道のような帯曲輪となり、本郭の北東下の曲輪に出る。

一方、本郭の西側に土塁の切れ目があり、下に小曲輪がある。
その西下側に横堀があり、南側で竪堀となる。

B本郭北下20mに横堀が巡る。 C本郭西下10mに小曲輪があり、さらに下に横堀がある。

本郭の周りはこれ以外にも遺構が存在する可能性もあるが藪がひどく十分に確認できない。
鞍部を介した東側の広い平坦地も城域なのであろうが、ここには明確な遺構はない。
自然の山である。
ここの標高は206mほどであり、西側の本郭部より10mほど低い。
結論としてこの城は基本的には単郭の城と言っても良いだろう。

坂戸城は多くの資料に登場する。それだけ要衝に位置するということであろう。
南北朝時代に南朝側の城として知られる「中郡の城」の候補地の1つでもある。
その可能性も否定はできないが、「新編常陸国誌」では応永年中(1394-1427)に宇都宮氏重臣の芳賀氏一族の小宅高国が坂戸城を築いたという。


西3qに位置する小栗城との連携するため、城山の西側に城を築いたのではないかと推定される。
のち小宅高国の子景時は小栗城に移り、高田豊前が城主となったという。

その後、早乙女坂の合戦で宇都宮氏が敗退し、勢力が衰えると小栗城が結城氏の城になり、坂戸城は小田政治に支配されたらしく、天文年間(1532-55)の城主に信田掃部介の名が見える。
その後、小宅尚時は、上杉謙信関東出兵に際して北条氏に加担した結城氏が放棄した小栗城を回復、
さらに永禄7年(1564)、上杉謙信の小田攻め(山王堂合戦)に応じて坂戸城主信田掃部介を攻め、坂戸城を回復したという。
廃城は慶長2年(1597)の秀吉による宇都宮氏改易時と推定される。

城山はかなり高く険しいうえ、山頂部にはかなりの人間の収容が可能である。
地元住民の避難城(または軍勢の駐屯地)としての役目もあったのではないだろうか?
東側の広い平坦地Wは明確な遺構はないが、ここがそのエリアではなかったか?
(余湖君のホ−ムページ参照)

富岡城(桜川市(旧岩瀬町)富岡)
北関東自動車道桜川筑西ICの北東250mに杉に覆われた独立丘陵が見える。

これが富岡城址である。
上の写真は北側から見た城址のある丘である。
写真左側、東側に城の中心部がある。
なお、背後の山は筑波山、左の山が加波山である。

溜池が丘の東の裾にあり、その南側に地元産の御影石製の立派な城址碑が建つ。
岩瀬の城郭はほとんどすべて碑や案内柱があるので有り難い。
この丘の標高は58m、比高は約15m、200m×300mの独立丘である。

碑の裏側の道を登ると直ぐに曲輪Cがある。
丘南側を覆う帯曲輪であり、北側は高さ6mほどの鋭い切岸となっている。
緩やかな斜面を加工したことが良く分かる。

その北側を登ると周囲を横堀Bで囲まれた本郭が現われる。
堀は幅8m程度であるが、埋没しているようであり、本来はずっと深かったのかもしれない。
一見、土塁を持つ帯曲輪にも見える。

西側の堀Aは天幅18mほどあり広いが埋没している。
この堀はほぼ本郭を一周するが、北東側のみは横堀が切れ、竪堀が3本ほど東下に下る。

@曲輪北西部虎口付近の土塁と曲輪内 A西側の横堀底、ほとんど埋没してしまっている。
B南側の横堀も浅い!主郭までは2mほど。 C南下の帯曲輪の切岸は高さ6mと高く鋭い。

本郭は50m四方位の広さがあり、北側@が突き出た感じであり、虎口と土橋がある。

内部は雑木林や竹林であるが、藪もそれなりにあるが、西側は藪もなく比較的きれいである。
土塁は本来は全周を覆っていたようである。
北側、西側は明瞭であるが、南側と東側は痕跡が残る程度である。

虎口を出るとその西側に八幡神社等があるが、西側に緩やかな斜面が35m続くが、その先に堀跡D、Eらしいものが存在し、平坦な場所もある。
丘西側、北側は民家やビニールハウス、畑となって改変されており、遺構が失われている可能性がある。

D丘西側の堀跡 EDの堀は直角の曲がり西に延びるが埋没している。

この丘陵は独立した丘であり、北側は微高地であり富岡の集落となる。
残り3方は周囲は湿地であったようであり、想像以上に防御に優れていたと思われる。

居住を目的とした純粋な居館であったのかもしれない。
または、陣城であった可能性もある。東側の竪堀は出撃路であったのかもしれない。
しっかり遺構は残っているが、全体的に古臭い印象がある。

歴史は良く分からないが、岩瀬町史は坂戸城主小宅氏家臣稲川土佐を城主に挙げている。
また、ここは軍勢を置くには絶好の場所でもある。

天正13年(1985)結城氏と笠間氏間で戦いとなり、結城方の重臣片見郎党月山坊が富岡城に入り、笠間勢と戦ったという記録(播龍記)がある。
したがって、陣城として使われた可能性もある。
東側の竪堀は出撃路であったのかもしれない。
この地は戦国の末期に宇都宮領となるが、宇都宮氏の改易でこの城も廃城になったのであろう。