二条城(稲敷市下君山)
江戸崎から新利根方面に県道49号線を南西方向に走行すると、君賀小学校のある松山交差点で国道408号と合流する。
そこから国道408号線を牛久方面に1.5qほど走ると「江戸崎化学」という工場がある。
その北側の岡が城址である。

この岡には江戸崎化学の少し東にある道@を登るのだが、この道が凄い。
まるで谷である。
深さは8mほどあるが通路でもあるが、堀も兼ねているのであろう。

しかし、その道が良く分からなかったので岡の東側からアプローチした。
一応、カーナビや地図では道があるのだが、ガタガタの農道なのである。

どこが城址なのか分からなかったので、畑仕事をしている方に聞く、聞いた方、何と主郭に建つ民家の方であり、ご丁寧に詳細に案内していただく。

その谷のような登り道に気付いたのはその時である。
この道を上がると道は東西に分かれるがその道Aも堀状である。
その東西に分かれる部分は馬出のようである。
その反対側、南側に土塁と堀が存在する。

@南下から岡に登る道は堀底道である。 A @の道を登ると道(堀?)は二手に分かれる。 B主郭西北短端の堀と土塁なのだが・・
C主郭西側が一段高く、西端に土檀がある。 D城内にはあちこちに櫓台に転用した古墳がある。 E主郭部東側の堀はほとんど埋もれている。

分岐した道を行くと主郭部になる。
主郭部は2軒の民家になっている。主郭は東西70m、南北45mの長方形であり、北側と東側を土塁と堀Bが覆う。
西側Cは一段高く、主郭との間には土塁、堀は存在しない。
この方面は岡の先端にあたり、西端に古墳を利用とした櫓台がある。

一方、主郭の東は台地続きであり、防衛上の弱点であるため、堀Eが存在する。
さらにその東に道路があるが、これも堀跡の可能性がある。
さらに東にある道は古道の跡Fといいこの道から南下に降りる道Gも堀状になっている。

F城域東を通る古道。左の森が城址。 G古道を南の岡下に下る道も堀状である。

江戸崎化学の裏山の西に延びる尾根にも段々状の曲輪が存在する。

江戸崎城の南西を守る出城であると言われる。
なお、あちこちに土壇Dがあるが、ほぼ全て古墳のようであり、それを物見に転用しているらしい。
いくつかの古墳は湮滅しているようであり、石室の石が見つかることもあるそうである。
(美浦村お散歩団、余湖くんのホームページ 参考)

鳩崎狼煙台(稲敷市鳩崎)
鳩崎小学校の北700m、鷺神社の建つ独立した岡が城址である。
南側を高橋川が流れ、北には干拓用の排水路が流れる。

↑ 北西から見た狼煙台(中央の林)、手前の水田はかつての霞ヶ浦の入り江、それを干拓したもの。

この岡東西150m、南北80mほどあり、標高は21.3m、それが比高でもある。
頂上部が削平され神社@が建っている。

神社の地Aは100m×45mほどあり、周囲の斜面は急である。
西側に参道が伸び、途中で曲がって南側に降りるようになっている。
途中、西側に腰曲輪のような平坦地Bがある。

北側の水田地帯は干拓で造られたものであり、かつては霞ヶ浦の入り江である。
岡上からの、眺望は抜群である。

霞ヶ浦の水運を監視する物見、緊急時の連絡用の狼煙台であろう。
@岡の上は真っ平、そこに神社社殿がある。 A 岡の西側も真っ平になっている。 B 岡東下に続く参道、途中に平坦地がある。

鷲神社は、祭神に天日鷲命を奉り天長年間(824〜34)創建とされる。
神社拝殿には、江戸時代の狂歌で中央文壇でも名を馳せた「緑樹園元有」の狂歌額も奉納されている。
元有は江戸崎の豪商で鍋屋の総支配人の子で、狂歌の他にも詩文、華道、茶道にも通じた文人という。
狂歌額は横幅約2mの大きなもので、嘉永三年(1850)に元有をはじめとした45名の歌と名前が書かれている。
(美浦村お散歩団、余湖くんのホームページ、稲敷市HP参考)

阿波竜貝城(稲敷市阿波)
阿波地区にある大杉神社から南に延びる尾根状の台地が城址である。
標高は24.5m、低地からの比高は20mである。

遺構が確認できるのは先端部のみであるが、本来はもっと北の方にも城域が広がっていたのかもしれない。
城址には岡西側から登る道がある。
そこを登ると1軒の民家があり畑が広がる。
先端近く西側に馬出のような部分と堀@がある。
そこから台地を分断するように堀が東西に存在していたようであり、若干低くなっている。

@馬出のような部分の堀であるが、藪!! A先端部の畑が主郭部、土檀がある。

先端部は畑Aであるが、中央部に土檀があり、最先端の崖縁に虎口のようなものがあるが、その先は崖。
崩壊してしまっているのだろうか。
この先端部直径70〜80mの広さである。
この岡の東には浮島方面から入り込む湾が存在していたようであり、阿波崎城が存在する。
また、旧桜川村役場付近には須賀津といい、港があったようである。
この方面を監視する城であろう。
(美浦村お散歩団、余湖くんのホームページ 参考)

高田城(稲敷市高田)
江戸崎城の東2q、小野川の対岸の岡にある。
県道103号から分岐した県道107号を阿波方面に700mほど行った場所にある高田神社が城址という。

しかし、どう見てもここはただの神社である。
杉木立の参道@は味があるが、堀底道のようになっている。

本殿Aの北が原生林になっており、そこに土檀Bが2つ連結したものがある。
これが櫓台と思えなくもない。前方後円墳のようである
全長は35mほど。
でも、これやっぱり古墳だろう・・・。


しかし、その周辺の巨木が凄い。
自然環境保全地域に指定されているのは納得できる。
ちなみに高田神社は、承平年間(931〜937)に、紀伊国の熊野大社の分霊を勧請し、平将門の乱の平定を祈願するために創建されたものという。
その時、13人の神官もこの地に来ている。

南北朝の騒乱において延元3年(1338)9月の北畠親房が神宮寺に籠城した際、高田神社の神官などが南朝方に味方したため、敗戦後、所領が北朝方に没収されてしまったこともあった。
この時、ここに立て籠もったので城と認識されているのではないだろうか。
南北朝時代なら寺社も城館として使っていたというので不自然ではない。

社殿は享保18年(1733)に建てられたが、平成2年に焼失し、平成9年に再建され現在に至っている。
参道、約140mの両側は杉の巨木の並木になっている。

@高田神社参道、どことなく堀底道っぽい。 A神社社殿、ごく普通の神社って感じである。 B神社北の連結櫓台は前方後円墳だろう。

神社周辺は、自然林と人工林が織りなす植生と、数種のアゲハ類が生息するその豊かな自然環境により、県の自然環境保全地域に指定されている。
(稲敷市HP参照)