権現山城(石岡市上志筑/(旧八郷町)半田)

かすみがうら市志築にあった旧志築小学校跡地、志築城の詰めの城とされるのが、西1.2qの標高99.5mの金山にある権現山城である。
南の山麓に産業技術総合研究機構の農林試験場であり、試験場の東側を周回する道路の終点まで車で行くことができる。
終点から山道を登れば簡単に行けるのだが、この道、少し分りにくい。

↑ 産業技術総合研究機構の農林試験場前から見た城址

山道を登っていくと中腹に昭和4年に行われた陸軍大演習を昭和天皇がここで観閲した記念の御野立所の碑@が岩の上に建つ。

周囲は公園Aとして整備され、桜の木が植えられ、春は花見の絶好の場所となる。
この碑の建つ場所自体が物見台であったようであり、ここからの眺望は優れ、志築城を始め、石岡方面、霞ヶ浦方面が一望の下にある。

↑ 御野立所から見た東方向。左手水田の中に突き出た岡が志筑城。
その上の街は石岡市街。中央右側に霞ヶ浦が望まれる。

この物見台の南側が虎口のようになっているのでこれは城郭遺構であろう。

この西側からが城域である。
物見台の西側は一度下りとなり、さらに登りとなる緩い斜面Aである。
ここは軍勢の宿営地としても使ったのではないかと思われる。

その西側が主郭部であり、見事な堀B、Cが出迎えるが、その北側は遊歩道整備で改変されているようである。
主郭部は東西約80m、南北約60mの長方形をしている。

主郭部は比較的遺構が明確であるが、それ以外は曖昧であり、基本的には単郭の城と言える。
この主郭部は一部が失われているものの幅約10mほどの横堀が南側で岩が張り出して途切れる部分Eと北東側が犬走りになる部分を除き一周し、西側では土塁に横矢折れが見られる。
主郭の北側Gと南側Dは主郭部からの深さが7mほどあり、入口部の東側は2重土塁B、Cとなっている。
虎口が南東側にあるが、どうも後付けのような感じである。
北側には見事な坂虎口がある。

内部は段差があり、西側と北側は一段低く、西側は土塁Fで区画される。
曲輪内にもう1つの曲輪が存在している感じである。

三角点のある場所が最高点であり、ここに何等かの建物が存在していたと思われる。
城内は遊歩道が通っているが、後付けのようである。
西側への通路は遊歩道の少し北側に存在する。

城の西側は幅広い尾根が続くが遺構はない。
このエリアは軍勢の宿営地、または住民の避難場所だったのではないかと思われる。

@御野立碑が建つ場所は物見台だろう。 A主郭東側は軍勢の宿営地か? B主郭東側の見事な2重土塁
C2重土塁間に開きがあるが後付けだろう。 D主郭南側の横堀 E主郭南の横堀は岩で途切れる。
南北朝時代、南朝に組みした益戸国行が志築城に籠り、北朝側の大掾氏と戦うが、彼が拠った城は志筑城ではなく、より要害性の高い権現山城と考えるのが妥当であろう。
志築城は居住用、政庁用の城であり、籠城は不向きである。

今残る権現山城の姿は横矢を持つ戦国の城の姿であり、戦国期も継続して使われたものと思われる。
しかし、周囲の堀、土塁はしっかりしているものの、曲輪内部は不整地状態であり、居住性は少ない。

したがって、志筑城の詰めの城、緊急時用の施設として維持管理されたものと思われる。
また、ここは八郷方面への街道を抑える場所でもある。
F主郭西側の土塁 G主郭北側の深い横堀

戦国時代、志築城は大掾氏の領土であったと推定され、八郷は大掾氏と時には敵対する佐竹氏が根小屋城を中心に制圧していた。
このため境目の城とも言える。
しかし、城内の整備状況から見てこの城には常時、多くの城兵がいたのではなく、奇襲に備え、交替制による少数の城番がいた程度だったと思われる。

余談であるが、下河辺氏とは藤原秀郷の流れを組み古河城を始めて築いた一族である。

この一族から小山氏、結城氏が生まれ、本家下河辺氏は武蔵東部を領し、その一部がこの石岡付近にも領土を持ったという。
そして、益戸と姓を変える。

南北朝時代のここでの戦いで破れた後、益戸氏(の一部?全て?)は大和に移り、長谷川姓を名乗る。
その子孫が鬼平犯科帳で有名な「長谷川平蔵」なのである。
少し北にある半田館の半田氏も同じ一族であるが、半田氏は小田氏に従った。