藤沢城(土浦市(旧新治村)藤沢)
小田城より東に約3km、桜川の北岸台地上にある城。
廃線となった関東鉄道筑波線(現在サイクリングロード)の旧藤沢駅の北側の台地が城址である。
小田城から逃げた小田氏治が必ず逃げ込むのが藤沢城であり、避難用の城という印象が強い。

しかし、城址は800m四方に及ぶ広大なものであり、前面に桜川の低湿地帯を望み、東西は谷津、北側のみ堀と土塁で台地と遮断され要害性も小田城よりはるかに高い。

城域は東西の谷津を挟んだ東側及び西側の台地上にも広がっている。
もし今残る規模が小田氏時代のものとすれば、藤沢城はとても逃げ城のような性格ではなく、小田城と2人3脚で小田領を統治した領地支配のための双子城であったことになる。


しかし、実際は小田氏時代の藤沢城は今の本郭部程度の規模にすぎなかったのでないかと思われる。
今残る規模であれば、小田城に並ぶくらい文献に登場しておかしくないはずである。

もし、小田氏治が逃げるなら多気山城を整備した方がより要害性もあると思うのだが?
なぜ、多気山城には逃げなかったのだろうか。

 永禄12年(1569)太田資正に小田城を追われた小田氏治は藤沢城も奪われ、滅亡は免れたものの戦国大名としての命脈は尽きてしまった。
今残る藤沢城は小田氏が佐竹氏に屈服し、佐竹氏より与えられた城であったと思われ、小田城退去後の小田氏治が入り整備したものと言われる。
その小田氏であるが、小田原の役を利用して故郷小田城の奪還を図る。多分、北条氏から持ちかけられたものであろう。
しかし、読みは甘く、佐竹氏の攻撃を受けて、降伏。武家としての命運は尽き、結城氏家臣として続くことになる。
もし、独立を画策しなければ、小大名として存続する可能性はあったのだが・・
小田氏治、最後まで運がない男である。

城は梯郭式であり、本郭を中心に半円城に曲輪が展開する。
この状況から城域が本郭から外部に拡大し、最終的には城下を囲む総構えになったのであろう。

多分、これは小田原城を参考にしたのではないだろうか。
遺構のかなりの部分は宅地化で失われているが、それでも宅地や寺院の中に土塁が残る。

本郭部は畑や林の部分が多く、北側に土塁、堀が残る。
最南端の本郭中心部は一段高くなり、内部はかなり広い、また、周囲には土塁等が見られる。 

左の写真に示すように、北端、国道125号旧道の北、遍照寺の北に東西600mほどにわたり土塁と幅10m以上の大きな堀が残る。 
本郭北側の土塁と堀跡。 本郭内部。 本郭西側の土塁。 本郭西側の堀。

航空写真は昭和49年国土地理院撮影。

藤沢城(土浦市藤沢)再訪 2019年4月21日
平成も後10日を残したこの日、藤沢城を再訪した。
今回は外郭土塁、本郭の再訪に加え、前回、余り見なかった神宮寺に残る土塁と中城を新規に見た。

前回の訪問から15年が経過しているが、ほとんどあの時と同じだった。
この藤沢の町は旧新治村の中心地、何しろ古く、道が狭い街であり、発展の余地がほとんどないような旧集落である。
今では、国道125号線も北のバイパスが中心となり、藤沢集落内を通る旧道は交通量が激減、時代から置いていかれたような感じであった。
そのため、遺構の破壊も幸いこれ以上は行われていないようである。

本郭@、A、Bは前回と同じ状態だった。
内部は畑であったがすでに耕作は行われていない。
しかし、トラクターで耕されているため藪化はしていなく十分に歩ける。
逆に竹が伐採されたので見えなかった土塁も見えるようになった。


神宮寺の土塁Gもなかなかのものであるが、この神宮寺の境内が窪地であり、周囲より低い。
神宮寺の北側、土塁かと思ったが違う。
どちらかというと境内が堀跡のような感じなのである。
ここが果たして曲輪なのだろうか?
@本郭「城内」内部、かつては畑だったが耕作は一部のみ。 A本郭西側に残る土塁 B本郭虎口であるが、周囲は遺構が曖昧。

谷津部を利用して地区の中央部を道路、県道201号線Fが通っているが、ここはかつては堀切の跡である。
その道路を挟んで東側の台地に中城がある。
本郭防衛用に増設した部分と推定される。極楽寺の跡というが廃城後、置かれたのであろうか?
内部Cは植木屋さんの温室などが建っているが、東側に高さ4mの土塁D、Eとその東側に堀が残されている。
本来は北側にも回っており、西側の本郭側以外に土塁と堀があったようである。

C中城内部は植木屋さん。右手が堀跡Fを介し、本郭。 D中城北東側の土塁。 E中城南東側の土塁。
F本郭部(右)と中城間を通る県道201号線は堀跡だろう。 G神宮寺東に残る土塁。右下が堀。

岡の宮館(土浦市(旧新治村)高岡根)
国道125号線旧道を西に進み、藤沢城のある藤沢集落の西側、谷津を介して藤沢城の西側の岡が館跡である。
この岡、鹿島神社が北西端に位置し、そこから細長く東南に250mほど突き出し、そこが館跡である。


新治ふるさとの森内部。ただの平坦地、遺構はない。

南側の水田地帯からは15mほどの比高があり、岡の上は平坦であり「新治ふるさとの森」という公園になっている。

北西端が鹿島神社があるが、その背後は台地に続くため、土塁状ももので仕切られている。
これが神社境内を区画する土塁か、かつての遺構なのかは分からない。
もしかしたらその外側に堀が存在していたかもしれない。
岡の内部は平坦であるが、特段、遺構らしいものはない。

先端部近くの岡両側の下に下りる道が、堀切跡のようにも見えるが。

館主は小田氏4代目、時知の三男時義が築城し、小神野宮(鹿島社)を信仰していて神社を祀り、小神野宮氏を名乗るようになったという。

その後、館は10代経憲まで300年間機能したというが、甲山に移転したという。
細長い岡の両側は湿地であり、台地続きの部分に堀と土塁を設ければ城として機能する地形である。
内部を平坦化した程度のものであったのだろう。
また、藤沢城が機能していたころには出城としても使われていたのではないかと思う。
(余湖くんのホームページ参考、航空写真は昭和49年国土地理院撮影。)

田土部城(土浦市(旧新治村)高岡)
土浦市の再西端、つくば市に境を接する桜川沿いの水田地帯のド真ん中「田土部」集落全体が城址である。
県道200号線が桜川をわたる東側一帯である。500m×300mくらいのL型をした部分が城域である。
とは言っても、城址一帯は集落になっており、遺構はほとんどない。
集落の周囲を用水路が流れるが、これはかつての堀あとであろう

その用水路に沿う道沿いに土塁が残る。東将寺付近が主郭部であったようである。
この部分は100m四方ほどあったようであり、居館があった部分と思われる。
この居館部分とその周囲の集落を囲んだ桜川の湿地帯を防御網とする城砦集落であったものと思われる。

周囲の湿地帯が強力が防御になっているので、それほどの規模の土塁、堀はなかったのかもしれない。
築城は田土辺左衛門尉忠貞という者で、室町初期の頃のことであるという。
彼は小田一族なのか、南北朝の騒乱で勢力を減退させた小田一族の旧領をもらった北朝系の武家なのかは分からない。
小田氏が勢力を回復すると、小田氏14代政治の次男左近之祐(信濃守政秀)が入り、田戸部氏を名乗る。

しかし、戦国時代後半、執拗な佐竹氏の攻撃で小田氏の勢力が減退すると廃城になったらしい。
航空写真は昭和49年国土地理院撮影。


↑の写真は南端部の用水路と道路、これがかつての堀跡という。


高岡丸の内館(土浦市(旧新治村)高岡)

 藤沢城の西1kmの桜川低地の中にある。
 現在、新治村立斗利出小学校の敷地が館址である。
すぐ西、600mが水田地帯を経て田土部城であり、小田氏系の武家の館であると思われる。
 

小学校の名前のとおり館のあった跡であり、小学校南側に立派な土塁が残る。
100m四方程度の規模はあったのではないかと思われる。 

航空写真は昭和49年国土地理院撮影。


法雲寺館(土浦市(旧新治村)高岡)
国道125号線の藤沢地区の西端、国道の旧道と新道が合流する高岡交差点の南200m地点にある。
なかなか入り口がわかりにくいが、台地を南に下りる道沿いの「高岡根農村集落センター」脇の道を西に入る。
ここは寺ではあるが、土塁がE字の形で南側の低地に面する方向が開いた状態で、北側を中心に覆っている。高さは5mほどある立派なものである。
土塁の北側にはかなり埋没しているが堀がある。
寺の地形は南側が桜川の低地であり、その低地に臨む台地の縁である。
北側に比べて水田地帯に緩やかに下っていく地形である。
このため、北側に巨大な土塁を築いたものであろう。
完全な城郭遺構であるが、法雲寺は鎌倉時代末期、正慶元年(1332)小田治久が創建、開山は小田宗知の子で中国に渡って中峰明本に師事した復庵宗己とされる。

小田氏の庇護を受け、隆盛を極めたが、天正2年(1573)佐竹氏による小田氏攻撃で焼失。
江戸時代元禄2年(1689)勅願所となる。
寺には国指定重要文化財として「絹本著色復庵和尚像」「絹本著色高峰和尚像」「絹本著色中峰和尚像」。
県指定文化財 として「銅造阿弥陀如来立像」「木造中峰禅師坐像」「絹本著色釈迦涅槃像」「絹本著色小田政治像」「絹本著色小田氏治像」「棕毛払子」「竹繊払子」「青磁三階塔」「紺紙金泥大般若波羅蜜多経」「法雲寺文書」などが保管される。
中央部の土塁 北側の土塁、後ろ側に堀がある。

おそらく当初から寺院だったものと思われるが、武装化寺院として僧兵も擁していた可能性が高い。
そのため、寺院も城郭化したのではないだろうか。
当然、僧兵は小田氏の軍事力の一翼を担っていたのであろう。
それにより天正年間に佐竹氏によって攻撃されたのではないかと思われる。
佐竹氏はここを小田方の城と見なしていたのかもしれない。