羽賀城(稲敷市(旧江戸崎町)羽賀字根小屋)
圏央道稲敷ICから県道49号を南に約2km、小野川の流れる平地の北、稲敷台地の南縁部に位置する。
根小屋地区にある羽賀神社および東燿寺南側裏一帯が城址である。
江戸崎土岐氏の臣臼田勘解由左衛門尉の居城であったことから別名臼田城ともいう。
その主家、土岐氏の本拠、江戸崎城は北東3kmであり、南西方面を守る支城でもある。

城主の臼田氏は上杉憲定の被官として嘉慶元年(1387)に布佐郷丸山館に入り、その後、ここへ移ったという。現在も子孫が在住し、臼田文書を保管する。

この臼田氏、長野県佐久に臼田町があるので、信濃出身かと想像したが、その通り。
信濃国の豪族滋野氏の一族で、同国海野荘(長野県小県郡東部町)を名字の地とする海野氏の支流である。つまり真田氏とも同族である。

臼田氏の先祖は、海野荘から離れ佐久の臼田郷を領したが、鎌倉後期、四郎重経の時に鎌倉北条氏によって領地を奪われたらしい。
上杉氏とは、観応の擾乱で直義方の中心となった上杉憲顕を滋野一族、伴野一族、臼田氏らが支援したという関係があったらしい。
この功により、この付近に領地を得たということらしい。
その後、江戸崎の土岐氏に従ったようである。


なお、この羽賀城自体は臼田氏の築城ではなく、もっと古い可能性があり、南北朝時代まで遡るのではないかとも言われている。

別府幸実軍忠状写によると、暦応4年(1341)年7月、東条荘での戦いがこの付近で行われ、亀谷城という城が登場する。
この城が羽賀城の可能性があるという。
誠諦寺の東の台地も候補地のようであり、はたまた、まったく別の場所という説もあるという。
城は小田原の役で江戸崎土岐氏が滅亡、それにともない臼田氏も滅亡(武家としては滅亡し、帰農した。)、城は江戸崎を領する芦名盛重の支城になったようであるが、佐竹氏の秋田移封に芦名氏も同行して廃城になった。
@城址北東端に位置する羽賀神社 A三郭の土塁と堀跡。なぜか途中で消えてしまう。 B三郭西下の長い横堀
C三郭、二郭間の深い堀 D本郭の櫓台跡 E本郭、二郭間の土橋はきれいに残る。

城は民家がすぐ南側まで建てられ、削られている部分が多い。
また、かつては畑として、耕作が行われていたともいい、遺構が曖昧な部分がある。
城は大きく3つの曲輪からなり、南西端に本郭、その東に二郭、その北側、羽賀神社、東燿寺付近が三郭であったようである。

羽賀神社の東に誠諦寺があるが、その間の道が堀跡ではなかったかと思う。
東燿寺裏の竹林から入って行くと、堀跡と切岸があるが、途中で曖昧になっている。
三郭と先に書いたが、どうやら内部はさらに曲輪が分かれていたようである。
その西側には横堀がきれいなカーブを描いて残存する。
竹林を南に向かうとかなりの藪。その藪を抜けると、二郭の北を覆う堀に出る。深さ5m、幅15mほどの立派なものだ。
南側で本郭北を回る堀と合流する。しかし、ここもかなりの藪。本郭は北に櫓台と思われる土壇を持ち、50m四方ほどであるが、南東側は民家の敷地となって削られているようである。
東の二郭側へ土橋がある。二郭は40m四方の広さであり、土塁が東側にある。
二郭の東下が段々状の宅地になっているが、字が根小屋ということもあり、文字どおり、居館があったのであろう。
典型的な小戦国大名家臣の館という感じである。防御性はそれほどのものでもないが、堀や土橋などのパーツは見事なものである。
(「美浦村お散歩団」「図説 茨城の城郭」を参考とした。)

亀谷城(稲敷市(旧江戸崎町)羽賀字根小屋)

この城、所在地は謎だそうだ。[龍ヶ崎市史中世編]では、候補地として、
(1)東町釜井説(中山信名『新編常陸国誌』)、(2)江戸崎羽賀説(宮本茶村『新編常陸国誌』補、『関城逸史』)、(3)新利根町説があるという。
羽賀説が釜井説が有力らしい。
その羽賀説では、羽賀城という説と誠諦寺の東の台地説がある。
その後者に行ってみる。しかし、そこはただの平坦地があるだけだった。
誠諦寺側に土塁のようなものがあったが、遺構かどうか確信はもてなかった。
また、東の斜面に神社があり、その参道が横堀のように見えたが、これが関係あるものかどうか?

主郭と思われる場所はただの果樹園だった。 斜面部にある神社の参道は横堀状。
遺構じゃないとは思うが?

江戸崎城(稲敷市江戸崎)
 
江戸崎城は、江戸崎市街地の西側の比高15m程度の台地上にあった。
 現在、ここは公民館、稲荷神社、江戸先小学校校庭、鹿島神社などがある文教地区となっている。
 この台地は鹿島神社の北側で一旦台地は途切れるが、南端部からここまでは約500mほどある。
 その北側の羅漢山も城域と考えられるため、この部分まで含めると南北750mほどの長さがあるこの地を支配した土岐氏の拠点にふさわしい大型城郭である。さらに北側の江戸崎中学校付近にも遺構があるとのことであり、ここまで含めれば南北1kmを越えるのではないかと思われる。

城は三角フラスコのような形をしており、南側が広く、北側が若干狭くなる。
 当時、この台地周辺は北側以外を小野川の湿地帯やそこから水を引き込んだ水堀が囲んでいた。
 現在はかつて水堀や湿地帯であったところが市街地になっており、城のあった台地にも開発の波が押し寄せ、城の遺構はかなり少なくなっている。
 今の姿からは取り立てて堅固な城とは感じられないが、当時は湿地に突き出た半島状台地にある城であり、北からしか攻め口はない。
 おまけに羅漢山の絶壁が立ちふさがるという規模も含め、かなりの要害性を持った城であったと思われる。
 この丘が開発されたのは比較的近年ということであり、戦前まではかなり良好に遺構が存在していたとのことである。
 この城の本郭は最南端の公民館、稲荷神社のある場所であった。
 ここは比較的古城の雰囲気があり、東から登る道は堀切の跡という。稲荷神社北は畑になっているが、江戸崎小学校グランド側には土塁が残る。
 稲荷神社の東側に細い登り道があるが、どうもここが本来の登城路であったと思われる。
 本郭の北側は自然地形を利用した堀切となっている。江戸崎小学校のグランドが二郭であったという。
 ここにはかつて桃山(見晴らし山)という山があり、輪郭状に曲輪が展開されていたらしい。
 山の高さは本郭側より少し高かったという。この山は崩されてしまい、江戸崎小学校のグランドになっているが、校舎がグランドより低い位置にある学校は余り見たことがない。市街化が迫り、この岡しか拡張する場所がなかったためであろうか。
 グランド北側が鹿島神社であるが、ここが三郭であろう。
 南側に堀があったはずであるがグランド造成で埋められているようである。神社南側が若干窪んでいるが、ここは堀跡とは思えない。
この鹿島神社の北側にこの城に残る最大の遺構、高さ5mほどある重厚な土塁がある。

 北西よりにきれいな虎口が残る。鹿島神社の地は本郭や二郭よりかなり低く土塁を高くしたのであろう。
 虎口を下りたところは車道になっているが、かつての堀跡であったという。水堀と書いてあるが中央部は空堀であったのであろう。
 この北側瑞祥院がある。居館を置くならこの地が良いように思われる。
 ここの池は水堀の跡という。瑞祥院の北側には比高20m近い高い台地、通称、羅漢山がある。
 東側には土塁のような尾根が南に延びる。羅漢山の北側は絶壁である。ここも地形的には完全に郭であろう。

東から研修所への登道北にある虎口 本郭に建つ城山稲荷神社 本郭から見た東方向。かつては湿地帯であったと思われる。 三郭北の虎口。
三郭北側の大土塁。この城最高の遺構である。 二郭は江戸崎小グランドとなり消滅。向かいの山が本郭。 三郭西側から瑞祥院を見る。ここも城郭であった。道路は水堀跡。 羅漢山。北側は高さ15mの絶壁。ここも城域である。

 江戸崎城の城主土岐氏は、下克上の代名詞、斉藤道三に美濃を奪われたことで有名な美濃の土岐氏と同じ清和源氏頼光の流れである。
 江戸崎の土岐氏は土岐原氏と称することもあるが、始め土岐原を称し、途中で姓を土岐に変えている経緯がある。
 土岐光定の孫師親は原孫次郎を名乗り、その子孫が土岐原氏となり、父定親の兄弟頼定の流れが美濃の土岐氏の先祖である。
 土岐原氏は一応は美濃土岐氏を本家として扱い、両家間には親戚付き合いがあり、交流が行われていた。
 江戸崎土岐氏は、師親の次男師秀の子左馬助秀成のときに、関東管領上杉憲方に従って遠く関東に下向し、常陸信太荘に入部し、土岐原を称したのが始まりである。
 土岐原氏は足利公方、管領上杉氏の部下として小栗討伐や山入の乱、結城合戦で活躍し、領土を霞ヶ浦一帯まで拡大する。
 霞ヶ浦の水運と水軍を支配することでかなりの利益を上げていたといわれる。
 時代は戦国時代に突入し、土岐原氏も否応なく、その波を被る。長永亨元年には両上杉氏の抗争が起こるが、明応6年(1497)当主景成が死去、跡継ぎに美濃の土岐政房の三男治頼を迎える。
 この当時、西に境を接する小田氏と摩擦が高まる。
 一方、治頼の実家、美濃土岐氏は実権を守護代斎藤道三に握られ、土岐氏内部分裂を利用して道三に推された頼芸が守護になり、ついには道三に美濃を乗っ取られ、頼芸は美濃国より追放される。
 頼芸の末路は明確ではないが、親戚である江戸崎に来たという説もある。
 美濃の土岐本家が滅亡したため、当主治英が土岐氏の再興を願い、土岐氏と改称したという。
 永正年間ころから上杉氏の衰退を見て独立化を図り、小田氏との泥沼の抗争が始まるが、土岐氏はその都度、小田氏を撃退する。
 しかし、小田、土岐といった小大名の抗争も北条氏という巨大勢力が成長とこれに対する上杉氏、佐竹氏といった関東全体規模での巨大勢力同士の抗争の渦中で意味を成さなくなってくる。
 北条氏の勢力が常陸南部まで及んでくるようになり、さらに佐竹氏と小田氏が敵対するようになると土岐氏は微妙な立場に立たされる。
 結局、土岐氏は小田氏との和解の道を選ぶ。
 上杉氏対北条氏という対立・抗争の構図の中で土岐氏は江戸崎城を中心とした地域と、龍ケ崎城を中心とした地域に分けて統治を目論む。
 これは支配を細分化して統治能力を高めるためもあろうが、後の真田氏のように敵対する両陣営に二股をかけ、一方が滅びても、一方は存続するという生き残り戦略があったのかもしれない。
 佐竹氏により小田氏の勢力が駆逐されると、今度は佐竹氏に土岐氏が狙われることになる。
 当然、土岐氏は北条氏を後ろ盾にする。この選択が土岐氏の命取りになるが、この結果、北条の臣下となることとなる。
 この時にあの巨大城郭木原城が整備され、街道閉塞土塁が築かれたと言われる。
 しかし、家内での抗争が始まり、江戸崎と龍ケ崎の対立が激しくなる。
 この混乱状態で小田原の役を迎えてしまう。
 上手く立ち回れば、土岐氏にも生き残るチャンスはあったが、この混乱では判断もできず、北条方と見なされ、天正18年(1590)、江戸崎、龍ケ崎両城は、佐竹の軍勢によって攻め落とされ、戦国大名としての土岐氏は滅亡してしまう。
 攻め落とされたというが、後ろ盾をなくし戦意を喪失した土岐氏ではいくら堅固な城を構えていてもほとんど戦闘らしいものはなかったであろう。
 おそらく自落・降伏に近い状態で落城したのであろう。
 土岐氏滅亡後、江戸崎城には佐竹義宣の弟、芦名義広が4.5万石で入ったが、関が原の合戦後、秋田に去り、この時点で江戸崎城は廃城となった。
 なお、龍ヶ崎城主土岐胤倫は降伏したため助命され、龍ケ崎で隠居して慶長4年に死去したが、子頼房が慶長16年、徳川家康より駿河国内で知行を与えられた。
 この時、土岐から豊島に改め、紀州家家臣となる。
 大坂の陣にも出陣し、朝治の代に土岐姓に戻り、紀州家から徳川吉宗が将軍になった時に随行して幕臣に連なり、明治まで幕臣として存続する。

古渡城(稲敷市古渡)
「ふっと」と読む。古屋(こや)城とも言う。
関が原の戦いで没落した織田重臣で、安土城の築城奉行であり、当時、国内最高レベルの築城技術者であった丹羽氏が大名として復活を果たした城である。
その城は、旧桜川村役場から東へ約5km、北に霞ヶ浦を臨む小野川が霞ケ浦に注ぐ河口近くの東岸、古渡字古谷地区にあった。

霞ヶ浦の湖水を取り込んだ水城であり、方形単郭の城だったようである。
(改修途中で廃棄されているので、完成した姿としては複郭の城を構想していたのかもしれない。)
茨城県重要遺跡報告書Uでは「現況は畑及び堀跡が水田として残っているが、土塁跡とみられる4方は一段高い畑として残り、堀跡とみられる四囲は「ほっく」と呼ばれる細い水田として残っている。」と書かれている。鳥瞰図は茨城県重要遺跡報告書Uから再現したものである。
下の写真がその部分である。ちょうど城の西側に当たる。

この城、慶長8年(1603)徳川家臣、山岡景友古渡に封ぜられたが、彼の没後、養子景本が幼少なので実父景以命を後見にこれを継いだが、直ぐに、西軍に付いたため没落していた丹羽五郎左衛門長重が、ここで1万石を領し大名に復活。
さらに大阪の陣の功績で元和5年(1619)江戸崎2万石に加増、ついで元和8年、陸奥棚倉に5万石に国替えとなり(元和8年)、ここで幕命で棚倉城を築城。
さらに覚永4年(1627)には白河に移封し10万石となり白河域を総石垣の城に改修。
結局、丹羽氏は築城技術を徳川氏に売ることで、大名としての地位保全と加増を交換したようなものである。
その後、丹羽氏は二本松城に移り、ここも石垣化する。
以後代々、二本松藩主として継ぎ明治に至るが、戌辰戦争で会津藩とともに戦い、二本松少年隊の悲劇を招き、朝敵となり、最後に大損をしてしまう。
この古渡城は、丹羽長重が改修を始めたが完成しないうちに江戸崎に移封となったため、完成を見ずに廃城となったといわれる。
しかし、10年以上もいたのに工事をしている感じもない。
もともと、高々、1万石程度の財力では、拡張整備なんかする気も金もなく、腰掛程度のつもりでいたのかもしれない。