阿波崎城(稲敷市阿波崎)
「あばさき」と読む。
今は水田地帯であるが、東と北が旧霞ヶ浦であった低地に臨む標高27.9mの西から東側に突き出た台地先端部にある。
当時は霞ヶ浦に突き出た半島の先端の岬のような地形であり、先端部下に船着場があったものと思われる。
霞ヶ浦の入口を管理監視する役目があり、湖内水軍基地であったのだろう。霞ヶ浦を挟んだ対岸は潮来がある行方台地である。

この城は、南北朝時代に南朝方の重鎮、北畠親房が拠った城として知られており、南朝正統説が支配的であった戦前は、重視されていたのであろう。
粗末な城に過ぎないが、県指定史跡なのである。

北東側の下から城址に行くことができ、案内板や解説板があり、岡を登れば碑が建った場所がある。
しかし、そこは城の先端部の外丸という曲輪であり、肝心の本郭に相当する部分は「霞南ゴルフクラブ」のコースになり湮滅している。

ゴルフコース造成のため、重機が入り、徹底的に破壊されているようであり、消滅と言える。
しかし、県史跡指定はかなり昔のはず。
そんな遺跡がゴルフ場造成で消滅する謎は如何に?
業者と政治家の間で金のやりとりを感じるのであるが、真実は如何に?
本当は全部、ぶっ壊す予定だったのかもしれないが、先端部は狭く、ゴルフコースには不適、それで先端部だけ残ったのではないだろうか?

その本郭であるが、日本城郭体系掲載図によると長方形で南側に虎口があったという。
ゴルフコースの敷地となっている場所には土塁で囲まれた方形の本郭に相当する曲輪があり、南側に虎口があったようである。

左の図のカラー部分は現地調査による。白黒部分は湮滅した部分であり、日本城郭体系掲載図を参考に描いたものである。
現在の碑が建つ場所は、台地の先端部分であり、「外丸」と言われている部分に相当する。
城に北東側から登る道は、搦手口あるいは船着場から登る道であったようであり、谷間のような、竪堀のような道を登る。

この東側の尾根が八幡台と言われ、ここも曲輪であるが、藪である。
道の西側は段々になっており、これも曲輪と見てよさそうである。
頂上部に位置する外丸は南側が直径50mほど、内部は平坦である。
この南側はもうゴルフコースであるが、本郭との間には土橋があり、谷津が堀状にあったらしい。

一方、外丸の北側の神社のある部分の曲輪は長さ40mほどあり、その間には堀切があったようであり、若干、窪んでいる。
北側の曲輪は2段くらいになっているが、内部はダラダラしている。
その曲輪の先端部に行くと、その先に堀切があった。
ここが城跡らしい唯一の遺構である。その先に櫓台(物見台?)のような場所がある。
さらにその西側斜面には帯曲輪があった。

@ 北東下から登る道は竪堀状。左が八幡台。 A @の道に沿って段々に平坦地がある。 B 外丸内部
C 城址碑が建つ外丸北側の曲輪 D Cの先端部には堀切があった。 外丸からみる北側の水田は霞ヶ浦の一部だった。

この城は、北畠親房が在城したことで有名である。
暦応元年(延元3年、1338)、彼は吉野から伊勢大湊を経て東条浦(霞ヶ浦の沿岸)に入る。
これは奥州に向おうとして嵐に会い、ここに流れ着いたものともいう。

ここで地元の東条氏など南朝に与する荘園の地頭などの助力を得てまず、西3qの神宮寺城に入城する。
親房はここに南朝方の拠点を作ろうとするが、北朝方の佐竹氏や鹿島一族の攻撃を受け、暦応元年10月には神宮寺城は落城。
このため、親房は阿波崎城に移る。しかし、この阿波崎城も攻略され、霞ヶ浦を渡って小田氏の本拠である小田城に移る。

阿波崎城については、北畠親房に係わる話ばかりが知られているが、その後の歴史がある。
なんと言ってもここは、霞ヶ浦の入口である。
湖内水運を管理監視する絶好の場所である。
後世の戦国時代も当然使われる。
戦国時代は、江戸崎の土岐氏の支城であったものと思われる。

したがって、今残る遺構は南北朝時代のものではなく、戦国時代にある程度の改修を受けた姿と思われる。
しかし、遺構は古臭い感じのものであり、それほど大きな改修は受けていないのかもしれない。
監視施設程度の使われ方しかされていなかったのであろう。
天正18年、小田原の役で江戸崎城が落城した時、城主土岐治綱は阿波崎城に一時入城したとも伝えられている。


神宮寺城(稲敷市神宮寺)
阿波崎城の西3q、江戸崎からは東3.5q、国道125号線と県道107号線が交差する神宮寺の交差点の南西側にある。
なお、ここに地名となる神宮寺があるが、この寺も城の外郭と思われるが、主郭部は県道107号線の反対側の南西300mほどの所にある。

台地の縁部を利用した城であるが、縁部に本郭を置くのではなく、本郭は若干、地勢が高い台地内側に置かれている。
鳥瞰図の曲輪Tが本郭であろう。
県道107号線沿いに、城についての白い解説板が立っているのが見える。
平成21年にリニューアルされたものである。
「茨城の城郭」に掲載されたお陰か?以前は文字がかすれてほとんど読めない状態であったらしい。

この看板の後ろに空き地(駐車場)があり、南側を見ると、林の中に土塁と堀が見える。これが写真の@、本郭の北側の虎口である。
その土塁に行くまでの間に溝がある。どうもこれも堀の残痕らしい。
この城、主要部は残っているが、周辺の宅地化や耕地化で堀や土塁がかなり破壊されているようであり、全貌は分からなくなっている。
駐車場から見える土塁の東側が曲輪Uである。100m×40mの大きさであり、東側にあった堀は埋められているようである。
本郭の周囲には、郭内からの高さ2mほどの土塁Cが周り、深さ4m、幅8mほどの堀AとEが曲輪の周囲を回る。郭内は藪であり、入れるものではないが、土塁上Cは何とか歩ける。

土塁の隅は一段、高くなり櫓台があったのではないかと思われる。
このうち北端の隅Bに北畠親房の顕彰碑が建てられている。本郭は折れがあるが、東西南北の最大長さは120mほどある。

本郭東側の土塁を歩いて行くと、南側に内部が竹林になっている曲輪Vが見える。
本郭より一段低い。その間には東西に延びる堀Dがあり、土塁がある。
さらに南側が台地の縁部であるが、ここは宅地になっている。
この方面にも土塁があり、曲輪が存在していたようである。都合、400m四方程度はあったのではないかと思われる。
@ 本郭北側の虎口 A 本郭北側の堀 B 本郭北端隅の櫓台に建つ北畠親房顕彰碑
C 本郭東側の土塁 D 本郭(右)と曲輪V間の堀 E 本郭(左)と曲輪U間の堀

北畠親房が入ったころは、地元の南朝を支持する領主の単郭の館であったのではないかと思われる。
親房が入ってすぐに北朝方の攻撃を受けているので、おそらく拡張している余裕はなかったと思われる。
おそらく、今の姿は、二郭西側には横矢もあることから、阿波崎城同様、城を江戸崎の土岐氏(の部下)が再利用した際に拡張したものではないかと思われる。


神宮寺の地自体も出城ではないだろうかと言われているが、こちらが北畠親房が入城した南北朝時代の神宮寺城ではないかという説もある。
鳥瞰図は「図説 茨城の城郭」掲載図を参考にした。

馴馬城(龍ヶ崎市馴馬町)

常磐線佐貫駅から県道271号線を南東に3.5q、県道4号線と交差する北側に龍ヶ崎市歴史民族資料館がある。
この西側が城址である。城は南に牛久沼から東に流れる江川の低地を望む比高15mほどの台地の縁にある。
ここから南東2qが龍ヶ崎城であり、龍ヶ崎の市街地が南東に望まれる。
城のある台地は、東から愛宕山、山王台、台山と小さな山が並んでいる。
しかし、県道4号線を通すこと等で本郭であった山王台は削平されて湮滅しており、その西側の二郭と三郭付近が部分的に残存しているだけであり、とても全貌は掴めない。

歴史民族資料館は城のある台地の北側の谷津部分に当たる。
歴史民族資料館西側の駐車場の南側が二郭であるが、ここには民家があるので入れないが、かなり改変されてしまっているようである。
駐車場の奥へ行くと石段があるが、その上が土橋である。後世のものかと思ったが本物だそうだ。
この土橋が北側の台地と結ぶ通路である。
土橋の南側に行くと切通しになっているが、これが二郭と三郭を隔てる堀跡と言う。

堀跡に面して二郭側南に土壇がある。
三郭は林であり、内部は未整備、西側は曖昧になっている。

土橋の西側は窪地になっており、堀跡というがはたしてそうか?自然の谷津にしか見えない。
その西側に土橋がもう1つあるが明確ではない。
遺構はこれくらいであり、西側はほとんど湮滅状態である。

土橋の北側の台地は栗林になっている。ここも城域とは思うが、果たして如何に?
@ 二郭(左)と三郭間の堀 A 二郭の土壇 B @から北に延びる土橋
C 三郭内部は藪状態 D Bの西側にあるもう1本の土橋・・分からん。 E 本郭はすでに消滅していた。

この城は南北朝時代に築城されたと言う。興国4年(1343)11月、関、大宝両城が落城。
北畠親房等は吉野へ退去。残された南朝方の重鎮、春日顕国はこの馴馬城に兵を集め、再興を図るが、宍戸朝里に攻められ、落城したという。
その後、城がどうなったかは分からないが、おそらく龍ヶ崎城の出城として使われていたのではないだろうか。

(龍ヶ崎の文化財Uを参考にした。航空写真は国土地理院が昭和54年に撮影したもの)