水戸市内原地区(旧内原町)の城


湯網館(水戸市三湯町)36.3732、140.3437
JR常磐線内原駅の北西約700m、常磐線と国道50号線に挟まれた地にある揚林寺付近が館跡である。
すぐ西側が笠間市友部地区である。
館のある場所の標高は40m、水田地帯の微高地にある。

遺構は揚林寺本堂@北側の山林の中に高さ約2mの土塁と幅約3mの堀Aが残る。
本堂北側の土塁間には虎口が残る。
東側には水をたたえた水堀Cが残る。

地元の人の話によると墓地になっている場所にも土塁、堀が延びており、一部、その痕跡が確認できる。
本堂南西側にある住宅の建設時の発掘で堀が検出されたという。

それらの情報と現地調査の結果から推定すると、二重方形館であったようであり、外郭が110m×150mほどの規模、内郭が約75m四方の規模と推定される。
かなり大型の館であり、大きな勢力を持つ者の居館であったと思われる。
西側と南側の道路が堀跡と推定されるが、土塁を伴っていたかは分からない。

@ 揚林寺本堂付近が内郭であり、館の中心部。 A本堂北側の土塁と堀。右側が外郭。
B外郭北側の堀は道になっている。 C外郭東側の堀跡には水が溜まっている。

内郭は本堂裏に土塁が残るので土塁に囲まれていたのではないかと思われる。
なお、本堂北側の山林の中に残る堀は複雑であり、曲輪内も整地された感じではなく、灌漑も兼ねた水路のようにも、あるいは庭園跡のようにも見える。

宇都宮知家の家臣、塙主水正政武の居城と言われるが、かなり古い時代の話と思われる。
戦国時代後期はこの地は江戸氏の領土であり、江戸氏の家臣がいたと思われる。

以前の記事

湯網館(三湯)

戸から笠間に向かう国道50号線バイパスが本道に合流する地点の南に広い林があり、その一角に曹洞宗湯林寺があるが、この寺の境内付近一帯が館址である。
 遺構は寺院の北側に土塁や堀跡が残るが、堀はかなり埋没している。
 林の中も結構凸凹しており、堀も二重に巡っていたようである。館の領域としてはかなり広い。
 北側のバイパス側は2mほどの段差があり、水堀を兼ねた湿地帯であったようである。
 文治5年(1189)、八田知家の家臣塙主水正政武が築いたと伝わる。
 戦国期は江戸氏の領土であったため、江戸氏の家臣が居館したと思われる。





小林館(水戸市小林町)36.6143、140.3471
JR常磐線内原駅の南西約1q、笠間市友部地区と境を接する水戸市西端部にある。
館は東の古矢川と西の前涸沼川が流れる水田地帯に挟まれた微高地上の東側にあり、標高は35m、古矢川沿いの水田地帯からは約2m高い。
「堀ノ内」という字名が残り、そこが館跡という。
「東茨城郡誌」によると「小林弥次郎の居城後に江戸氏家臣藤枝勘解由が移る。」と書かれる。

内原町史によると、「西側は灌漑用水路を兼ねた水堀が巡らされた約100m四方の方形館であったと思われ、全体的に土塁も低く、堀も浅い。
宅地、山林、竹林等の中から極めて低い土塁、堀跡が確認された」と書かれるが、縄張図は掲載されいない。
そこでその場所に行ってみたのだが、遺構の確認は困難であった。
一部、浅い堀を確認できたが、堀が分岐している部分もあり、方形に巡っていたのかは分からない。
深さは50p〜1m程度に過ぎない。堀跡と思われる窪んだ部分も確認できたが、全体像の把握は困難である。
「西側の灌漑用水路を兼ねた水堀」は分からなかった。
(竹林に伴う根切堀も見られるが、これは遺構と判断しなかった。)

@氏神の祠の北側で堀が分岐する。 A西に延びる堀であるが?・・・浅いし、藪だし、分からん!

この浅い堀の状況を見ると、幅も2mほどしかなく、これでは水堀というより水路と言ってよいだろう。
那珂市菅谷地区に多い灌漑を管理する館の堀と似ており、西約400mに位置する溜池の水利権を管理する館ではなかったかと思われる。

有賀北館(有賀町)

茨城県遺跡地図や内原町史にも掲載されていない「Pの遺跡侵攻記」で初めて紹介された新発見の館である。
場所は「くれふしの里古墳公園」から西の桜川の流れる谷津の西側の山、公園からは北西600mにあたる。
この山の比高は20、30mほど、直ぐ北は「かたくりの里」の駐車場である。
山は西側から張り出し、山の北側は崖状の急斜面である。

南から見た館跡、中央に写る墓地から行ける。 山の北下にある有賀金山の採掘口跡。

この斜面の末端に「有賀金山」の採掘口が開いている。
佐竹氏が支配していたころ、鉱山開発した金山であり、この付近にもいくつか鉱山があったという。
一方、山の南側は比較的緩やかである。南東側に「大園家」の墓地があり、その裏を登って行けば館跡である。
館は南側と東側に帯曲輪を回し、西側には二重の堀と土塁が存在する。

@南側の帯曲輪 A本郭北の櫓台なのだが・・藪。 B西側の二重堀の堀底

南側の帯曲輪は南側に土塁があったようである。
西側の二重堀はかなり埋没しているが、2つで幅15mほどあり、40mに渡って尾根を分断する。
北は竪堀となって斜面を下り、主郭側の堀の南側は帯曲輪に合流する。
二重堀の西側はゴルフ場になっており、遺構があったのかどうかは分からない。

主郭は東西70m、南北最大40mほどあり、北側を土塁が覆い、一段と高くなった櫓台のような部分がある。
この土塁は風避けの土塁という感じである。曲輪内は幾分、南側に傾斜しており、平坦とは言えない。
南側に虎口があり、南側の帯曲輪に通じる。
帯曲輪の南東側が切れた形となっており、墓地方面に登城路が延びていたようである。

館の歴史は明らかではないが、金山が城の下にあり、付近にも金山があるということから金山管理の館ではないかと思われる。
金山開発が佐竹氏支配後に盛んになったということから佐竹氏による築館ではなかったかと思われる。
航空写真は昭和61年国土地理院撮影のものを切り抜いたもの。

田島城(田島町)
伏城(牛伏古墳)の北東600mに和光院という寺がある。
この寺の北側の山に田島城があったらしい。
そこで行ってみた訳であるが、城のことを地元の人に聞くと「城?そんなのこの辺にあったかなあ、聞いたことねえなあ」といういつもの答え。
茨城県遺跡地図では和光院の北の山に城があったということになっているので、この山に入ってみる。

ここは、山というより丘陵に近く、北から丘陵が南に張り出し、丘の東西は谷津である。
こんな緩やかな丘に城などを築くのはどうも理解できないところである。もし、こんな緩やかな丘に城を築くなら斜面に大きな堀と土塁を回す必要があるだろう。
ちなみにこの丘の末端部が和光院である。
和行院の裏山一帯をかなり広域に歩き回ってみるが、取り立てて堀や土塁といった城郭遺構のようなものはなし。

あったのは前方後円墳1つと円墳1つ。しかし、この前方後円墳、右の図のように、大きさは全長50m、高さ5mほど、北側と東側が幅20mくらい抉れており、堀のようになっている。
墳丘は平になっており、古い神社がある。砦として使えないこともない感じがする。
もしかして、この古墳を利用した城を田島城といっているのか?
これでは牛伏城と同じである。
円墳は前方後円墳の東200mのところにある。
直径は30mほど、やはり周囲は堀状になっている。
2つの古墳間はただの山の藪であり、城郭遺構はなく自然地形である。

和行院北の山にある前方後円墳 前方後円墳の上は平坦で、神社がある 前方後円墳の東200mに円墳がある。

この田島城、城主は江戸氏家臣の隠井豊後守という。この者、おそらく大足城の外岡氏の配下であり城を構えるほどの実力が果たしてあったのか?
おそらく、居館がこの付近にあったのであろう。
もし、居館を置くなら、和光院付近、あるいは和光院の裏または西側あたりではないであろうか。
和光院の南側の水田は堀跡の感じのような場所もある。
古墳を館背後の物見台に使っていたのかもしれない。

なお、この和光院、真言宗であり江戸氏の保護を受け祈願寺となっていたが、江戸氏没落に伴いこの地に移されたという。
寺院や神社が城館跡に移される例は多く、ここが隠井氏の居館跡であった可能性も十分にある。
ここの不動堂、これがなかなかのものであり、水戸市の指定文化財である。
密教系の様相が強いといい、宝暦9年(1759)に完成したものであり、江戸時代中期の寺院建築様式の特徴をよく表しているという。
屋根の張り出しが大きく、プロポーションが素晴らしい。
和光院の鐘堂 和行院不動堂。

中原館(中原)
国道50号線旧道、中原交差点から県道 号を北に300mほど行くと、西側の丘の上に民家がある。
そこが中原館跡であるが、さすがに写真は撮りにくいし、遺構はよく分からない。
ここの東側は水田になっている低地であり、その水田からは比高8mほどである。西側は台地に続いている。
内原町史によると100×70mほどの方形館であり、北側と西側に土塁が残るそうである。
江戸氏家臣、国井善之輔の館であったという。

中原館跡は民家の敷地となっている。 堀からの排水路。

牛伏城(牛伏町)
大足城の北側は丘になっており、ここに牛伏古墳群がある。
安国寺からは北西500mに位置し、丘の標高は大足城からは10〜15mほど高い。
ここに牛伏城があったというが、今は古墳群があるのみである。
この古墳群は、東西300m南北200mの狭い範囲に前方後円墳 6,帆立貝式1,円墳9基が存在する。
古墳の基数は少ないが前方後円墳の割合が多く、規模も比較的が大きいのが特徴。
また古墳の方向に一貫性がないのも特徴である。5世紀初めに17号墳が最初に造られ、以後200年にわたって造られたという。

「くれふしの里古墳公園」として公園化され、4号墳、通称、唐櫃塚古墳は墳丘に復元埴輪が並べられている。
この古墳、全長52m、後円部径30m、高6.8mの前方後円墳。横穴石室があったが石材は全て持ち去られてる。
他の古墳もきれいに管理されている。もう1つ、前方後円墳の17号(御富士様古墳、全 長60m、高5.4m)が存在し、4号墳とともにこの古墳群の盟主的な存在になっている。

この古墳のある丘であるが、眼下に大足城が丸見えである。
ここが敵に占拠されると大足城の防衛に影響が生じる。
当然、この丘には出城があるべきである。
しかし、城郭遺構はない。
おそらく4号墳などの墳丘自体を利用した砦、物見が牛伏城ではなかったのではないだろうか。
内原町史は江戸氏家臣、浅野玄蕃が城主というが、この古墳群の西下の集落あたりに居館があったかもしれない。

復元整備された4号墳 4号墳の後円部、物見としたら最適。 後円部から見た4号墳の前方部
径28mの円墳、5号墳 前方後円墳3号墳 最古の古墳17号墳(御富士様古墳)

大足城(大足町)
水戸市西部の内原地区、内原ジャスコ北側の旧国道50号線、大足交差点の北側一帯が城址であったという。
この付近は周囲の水田より2mほど高い微高地である。
しかし、現在、その場所は集落と畑となっており、城の存在を想像させるものはない。

この城は北の安国寺から旧国道50号線付近までの400m四方ほどの広い城域を持った平城であったという。
唯一、安国寺西側に堀と土塁が残るのみである。
ここが城の北端部ともいう。あるいは寺付近が大足館といい、南側が大足城と言って、両者は別ものとも言う。
内原町史は、この土塁は大足城のものではなく、寺院に伴うものではないかと推測している。

しかし、城であったという大足集落、城跡としては疑問が多い。
城跡である場合、堀跡が道路になることが多いが、ここは道路がランダムに巡っているだけである。
若干、堀跡ではないかと思うような低くなった畑が見られるが、それがとても堀跡と確信できるものではない。
結局、確実に城館跡と言えるのは、堀、土塁が残る安国寺付近だけである。

江戸時代に開墾が進められほとんどの遺構が破壊されたという。
周囲が湿地帯であったため、かなりの要害性があり、土塁、堀も規模は小さく、容易に破壊できたともいう。

興味あるのが、安国寺本堂の西300mにある舟塚古墳(全長80m、後円径30m、高6m、前方部幅50mの前方後円墳)である。
この古墳、どうも土塁や櫓台として利用していたようであり、細く加工されている。
オリジナルの形からかかなり改変を受けているようである。
特に古墳の西側はまるで城の塁壁のように勾配が鋭い。
周囲には堀が存在していたと思われる。
北側に径30mほどの円墳があるが、これも物見や櫓台に利用されていたのではないかと思われる。
もう1基前方後円墳が存在していたがこれは消滅している。

城主は江戸氏家臣、外岡伯耆守という。
応永4年(1395)に3000貫をもらって外岡氏が築城し、この方面の家臣団を統率していた重臣であったという。
江戸氏滅亡時には、外岡氏が結城氏のもとに江戸重通を脱出させたという。廃城になったのはその後であろう。

安国寺西側に残る土塁と堀 舟塚古墳西側は塁壁のようであり、
道路は堀跡か
舟塚古墳の東側。水田は堀跡であろう。

塚原城(有賀町)
有賀神社の北西400m、有賀北館の南500mにあったというが、古墳があるだけで、他に土塁や堀などの城郭を思わせる遺構はない。
伝承のみが伝えられている城であったらしい。
城址とされる場所は、一面の畑と人家である。

堀があったとすれば古墳の東側であり、ここは土橋状に狭まり、堀切になっていた可能性がある。
台地南側が切岸状になっているが、これは砂鉄を採るために削った跡という。
東西に延びる細長い台地を利用して城があったらしい。

鹿島氏家臣の小峰小四郎が、塚原四郎と改めて居城し、後に江戸氏の家臣となったという。
多分、天正18年の佐竹氏により、江戸氏が滅ぼされた時に廃城になったと思われる。
この城でも激しい攻防戦があったらしく、砂鉄採掘時に多くの人骨が出土したという。

城跡に残る古墳は櫓台に利用したのであろう。 城のあった丘の南側は切岸状であるが、後世のもの。


 赤尾関城(赤尾関)

西側の民家に残る土塁。 墓地裏の土塁

 江戸氏の前身、那珂氏は瓜連城を巡る南北朝期の戦いで滅亡するが、その一部は生き残り、鎌倉公方に従って転戦する。
 この功で江戸城(那珂市下江戸)を領し、江戸氏を名乗る。
 江戸通高は難台山城攻撃で討ち死するが、その功績で通高の子、通景は河和田、鯉渕、赤尾関の3ヶ所を領土として得る。
 この赤尾関は通高の子金永に与えられ、築城する。
 以後、江戸氏の支城となっていたが、佐竹氏による水戸城攻略の際、落城して廃城になったものと思われる。
 赤尾関城は、赤尾関の春日神社北側一帯が城域である。

 この地は平地の中の若干起伏がある微高地であり、西側、南側が低地となっており、城はこの低地(当時は湿地であろう。)を天然の水堀として、東側、北側に堀を廻す200m×150mの方形であったという。
 土塁は全周を巡り、北側に虎口があり、この部分は二重土塁になっていたという。
 現在、宅地、畑となり、かなり遺構は失われているが、数箇所に土塁が残る。
 春日神社の西に薬師堂があり、その裏手(北側)に堀と土塁があったというが、ここは堀の名残が残る程度であるが、その西の墓地の北に竹が密集した高さ2mほどの土塁が残る。
 この土塁は北側の道からも確認できる。さらに西側に行くと民家の西側に高さ3m程度ある土塁が残る。

鯉渕城(鯉渕町)

鯉渕地区全域が城域であったという。
 現在、宅地化が著しく全貌を掴むことは困難である。遺構もほとんど湮滅している。
 城域は直径600m程度あったようである。
 西から張り出した低地からの高さ3,4mの微高地(にしては高い)の東端部に城があり、北側、東側、南側は低地となっている。同じ江戸氏系の城郭である河和田城と立地条件が非常に似ている。
 この鯉渕の集落内の道がまた分かりにくい。郵便局付近の道は城下町のようにクランクしており、車で走行すると不便この上ない。
 遺構は郵便局北側と鹿島神社北側に堀と土塁がかろうじて残っているのみである。観音寺付近も結構、城の切岸といった感じがある。
 左の写真は観音寺東側。段郭状になっている。

 有賀城(有賀町)

 有賀神社付近が城址という。この付近は西側の山地から東側の水田地帯に向かう緩斜面の末端部である。土塁とか堀とかの遺構らしいものは見られない。
有賀神社付近が城っぽい雰囲気があるが、神社は大体こんなものか。
 こんな場所では要害性も確保できそうにもない。
 領地である東側下の水田風景を見て満足する小領主の居館が置かれるのが精々であろう。
 有賀城は江戸氏家臣、木村伊勢守常政が城主であったという。
 なお、有賀神社の境内にはすずめ蜂の巣があり危険である。
 また、この場所は縄文時代の遺跡と複合しているとのことであり、神社付近で長さ15pもある大きな打製石斧を拾った。