長者山城(水戸市渡里町)
 水戸台地の北西端、田野川が那珂川に合流する地点を見下ろす台地上にある平山城。
 北と西は崖であり、台地下の水田からの比高は約20m。
 城域は東西250m、南北350mと比較的大きい。 

古代から館があったと伝えられており、現在見られる遺構は、戦国期に古代の館に手を加えて戦国城郭に拡張した姿である。

 この地には「長者伝説」があり、その内容は、
「むかし、ここに長者が住んでいた。源義家が、後三年の役(1080〜1087)で奥州に向かう途中に、長者の屋敷に立ち寄った。
長者は、義家一行を手厚くもてなし、酒宴は三日三晩続いた。
奥州平定の帰路、再び長者の屋敷に立ち寄ると、前にもまして豪華なもてなしを受けた。
義家は、『このような金持ちをこのままにしておいては後々災いのもととなる。謀反などをくわだてぬよう今のうちに滅ぼしてしまおう。』と考え、長者一族を皆殺しにした。」
というものである。
ということで平安時代には郡衙に伴う奈良平安時代の駅(宿場)からの利益で富豪となった者がすでにここに館を構えていたらしい。

この長者としては奈良平安時代の駅(宿場)があり、そこからの利益で富豪となった「駅守長者」「市守長者」という説や義家の叔父源頼信の5男常葉五郎義政が永暦4年(1080)に居館していたという説がある。

しかし、この義家が長者を滅ぼしたという話、これはめちゃくちゃである。
確かに義家は狂人のようなエピソードは多い。

この地でも「鞍掛け石」「三才」などの伝承があるが、過激さはない。
でもこの長者伝説は異様である。

だいたいこの程度の曖昧で根拠もない理由で一族を皆殺しにして滅ぼすことはさすがの義家でもありえないであろう。


このとおりならこれはタリバンかIS並みである。
おそらく、平安時代に何らかの事情である大きな戦闘があり、それを義家に結びつけたものであろう。

この頃は律令制が崩壊する時期であり、ここにあった律令制度に係る施設である那賀郡の郡衙を次の時代の主人公である武家勢力が攻撃して炎上させたものかもしれない。
またはその後の大掾氏、那珂氏の勢力争い、佐竹氏先祖の源義光がこの地に勢力を持つ過程での抗争事件があったのかもしれない。
源義光が係るのなら事件の主犯を兄の義家にすり替えたこともあり得ることである。

 その当時の館は小規模なものであったが、これを今の姿に改修したのが江戸氏の家臣春秋氏と言われ、その居城となったものと思われる。

 残念ながらこの説も伝説の域を出ず、文献にも記載が少ない。

 しかし、戦国城郭の姿であることは間違いない。
 最後は佐竹氏の江戸氏攻撃で落城し廃城となったものと思われる。

 鳥瞰図は水戸市史記載の実測図と現地調査の結果を基に描いたものである。 なお、右下が北である。

城は少なくとも7つの曲輪からなり、南側、西側の曲輪Yなどは古代郡衙と複合していると思われる。

 東と南は台地平坦部に続き堀と土塁で仕切られている。
 曲輪配置は前小屋城と非常に良く似る。 

  本郭である曲輪Tは台地突端部に位置し、本郭と東側の曲輪U側や北側の台地辺部には台地辺部と平行に堀と土塁が築かれている。
 この構造は見川城と似る。
 春秋氏が関係した両城に同じ構造が見られるため、同一人物の縄張り(設計)が想定される。
 遺構はかつてゴルフ練習場であった曲輪Yから南部分は隠滅している部分があるが比較的良く残っている。

@曲輪Vから見た南側の曲輪Yの堀と土塁。 A曲輪U、V間の堀、かなり埋没している。 B曲輪U内から見た南側の土塁。
C本郭(右)と曲輪U間の堀南側。 D本郭(右)と曲輪U間の堀北側。 E本郭(左)と曲輪W間の堀。
F本郭(左)東側の横堀 G曲輪W東側の横堀 H曲輪X南東端の横堀

台渡里廃寺跡
水戸市街地を乗せる水戸台地の北端に長者山城があり、その南に台渡里八幡神社がある。
この台渡里八幡神社は白鳳時代から奈良時代にかけて存在していた台渡里廃寺跡の土壇跡に建っている。
神社社殿の場所は講堂が建っていた場所という。

台渡里廃寺跡の土壇跡に建つ台渡里八幡神社 台渡里廃寺跡の土壇跡 土壇跡に転がる古代瓦

行ってみて驚き、土壇斜面に古代瓦が無造作にゴロゴロ、白っぽい厚手で圧痕が付いたものである。

この地区の北側が常陸国那賀郡の郡衙に附属する正倉院跡という。
倉庫群を二重に区画する大小二つの溝跡も確認され、倉庫群全体の範囲は東西およそ300m、南北およそ200mにも及び、そのなかに総瓦葺きの礎石立ちの建物が整然と並んでいたことが分かっているという。

さらに複雑なのが、この郡衙跡を後世、城に転用しているのである。
それが長者山城、一部の遺構は郡衙の遺構ものそのものを転用しているという。
でもどこまでが転用品か新築品がよく分らない。
台地に続く南側、西側の堀などは転用されたものらしい。

(以前の記事)

長者山城(水戸市渡里町)
 水戸台地の北西端、田野川が那珂川に合流する地点を見下ろす台地上にある平山城。北と西は崖であり、台地下の水田からの比高は約20m。
 城域は東西250m、南北350mと比較的大きい。
 古代から館があったと伝えられており、現在見られる遺構は、戦国期に古代の館に手を加えて戦国城郭に拡張した姿である。
 この地には「長者伝説」があり、後三年の役で奥州に赴く源義家がこの地の長者に盛大なもてなしを受けたが、義家は余りに盛大な接待に疑いを持ち滅ぼしてしまったというものである。
 この長者としては奈良平安時代の駅(宿場)があり、そこからの利益で富豪となった「駅守長者」「市守長者」という説や義家の叔父源頼信の5男常葉五郎義政が永暦4年(1080)に居館していたという説がある。
 その当時の館は小規模なものであったが、これを今の姿に改修したのが江戸氏の家臣春秋氏と言われ、その居城となったものと思われる。
 残念ながらこの説も伝説の域を出ず、文献にも記載が少ない。
 しかし、戦国城郭の姿であることは間違いない。
 最後は佐竹氏の江戸氏攻撃で落城し廃城となったものと思われる。
 鳥瞰図は水戸市史記載の実測図と現地調査の結果を基に描いたものである。

 城は3あるいは4郭からなり、東と南は台地平坦部に続き堀と土塁で仕切られている。郭配置は前小屋城と同じである。
 本郭は台地突端部に位置し、本郭と二郭の北側の台地辺部には台地辺部と平行に堀と土塁が築かれている。
 この構造は見川城と同じであり、同じ春秋氏が関係した両城に同じ構造が見られるため、同一人物の縄張り(設計)が想定される。
 ほとんどの堀は堀の両側に土塁がある佐竹氏系の城郭に良く見られる構造を持つ。
 遺構はゴルフ練習場となった南部分は隠滅している部分があるが比較的良く残っている。

東側に建つ長者伝説の碑。 本郭、二郭間の堀、藪で良く分からない。
ゴルフ練習場内に残る二郭南側の土塁。 本郭南側。土塁があるが暗くて良く分からない。


武熊城(水戸市柳町)
 水戸駅より東に1km。水戸城と吉田城の間にある桜川の自然堤防上に築かれた平城。城域は東西500m、南北400mといわれる。
南北朝期延文年間(1356−1361)に大掾一族の石河十郎望幹が築き、江戸氏の水戸城奪取後は水戸城の南の備えとなっていた。
佐竹氏の時代には重臣の東義久が入った。
城は慶安4年(1651)に桜川の改修、新道開作で破壊され現在は全く遺構を残さない。

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